説教 聖使徒行実2:1-11 2023/06/04 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススは天に上げられる前、弟子たちと囲む食卓で、彼らにこう命じました。 「エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っていなさい。すなわち、イオアンは水で洗礼を授けたが、あなたがたはまもなく聖神によって洗礼を授けられるであろう」(聖使徒行実1:4-5。Acts)
イイススは十字架の受難が目前に迫った夜にも弟子たちと食事をしました。主はその席で長い長い説教をなさり、そこでご自分がやがて「上げられる」こと、それが弟子たちの益になること、弟子たちはご自分に「今はついてはいけない」ことを、ていねいに言葉を選び、しんぼう強く繰り返し語りかけました。しかし弟子たちは主が何をおっしゃっているのかわかりませんでした。「上げられる」とおっしゃるが何のことだろう、自分たちが「主について来られない」とおっしゃるが、どこに行くというのだ…。
主は、戸惑って互いに顔を見合わせるばかりの彼らを見て、最後にはこう言うほかありませんでした。
「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。…けれども、わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主(慰むる者)、父のみもとから来る真理のが下るとき、それはわたしについて証しするであろう」(イオアン16:12、15:26 John。
「かねてわたしから聞いていた父の約束」とはこの、真理の神(しん)を遣わすという約束です。それは「聖神による洗礼」です。「それを待て」、これが主イイススがこの世に対して行った最後の呼びかけでした。
「待っていなさい」です。主は呼びかけ、教え、わざを行い、人々と共に食事をし、とらえられ、尋問され、裁かれ、むち打たれ、受難し、息絶え、葬られ、そしてよみがえりました。そしてさらに四十日にわたって弟子たちのもとに顕れました。弟子たちはこれらすべてを目の当たりに見ました。見ただけではなく、その一つ一つに心をはげしく揺さぶられました。しかし、わかりませんでした。わかったつもりになっても、それはとんでもない誤解でした。
そして主は、最後に「待っていなさい」と言ってこの世を離れたのです。
その約束が果たされ聖神が、祈っていた弟子たちの上に降りました。彼らは主イイススをまことの神、私たちの救いのために遣わされた神の子として知り、その十字架と復活が私たちの救いであったことを知り、この福音を世界に知らせる使徒として活動を開始しました。それを記憶するのが、本日、聖神降臨祭です。
待った末ついに聖神を受けて、弟子たちの群れが使徒たちに率いられた共同体、教会へと変えられました。その神の救いの歴史における大切な転回点の祝いの中で、ぜひ気づいていただきたいことがあります。
「行動し、つかみ取る」というライフスタイル、これは楽園に置かれたアダムとエヴァが蛇にそそのかされて、神に禁じられた木の実に手をさしだし、もぎ取って食べた時から始まったライフスタイルです。私たちはそれを「人のあるべき姿」と信じて疑いません。反対に、ただ「待つ」ことは消極的な怠慢、神からいただいた「タラント」の無駄使いとしか思えません。そういう私たちだからこそ気づかねばなりません。主はその地上のご生涯の最後に、あたかもこれまでのすべてを総括するかのように「待ちなさい」とお命じになったのです。このことです。「行動し、つかみ取れ」とは言わなかった。これは「行動」ではなく「待つ」ことを私たちの「いのち」の基本的なトーン、基調として取り戻しなさいということではないでしょうか。
私たちはまず待たなければなりません。そして思い起こしましょう。聖神の降臨を待つ弟子たちは「みな、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(聖使徒行実1:14 Acts)ことを。
「待つ」ことは言い換えれば「祈る」ことでした。祈りを生活のリズムとして生きること、主日ごとの礼拝を、朝晩の祈りを、どんなことをしているときでも心にたえまなく祈りを保ち続けることを、生活のリズムにすること、もし解決しなければならない問題を抱えたら、まず最初に祈ることを、心のクセにしてしまえば、「待つ」私たちに必ず聖神の恵みが与えられます。
「行動し、つかみ取る」のではなく「祈りながら待って、受け取る」のです。