ルカ17:12-19 2023/12/17 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
十人のライ病患者が、遠く離れたところからイイススに「わたしたちを憐れんでください」と癒しを求めました。この十人の一人はサマリア人でした。ライ病という、当時「業病」と考えられていた病気が、民族の違いを超えてこの十人を結びつけていたのです。そしてハリストスも、憐れみを乞う彼らすべてを区別なく癒しました。
癒やされた十人は、律法の定め通り、病気が治ったことを証明してもらおうと、祭司の下へ大急ぎで走ってゆきました。当然のようですがこれは、彼らが依然として古い生き方にとらわれていることの現れです。彼らの嬉しさは自分の嬉しさです。彼らは自分がこれまで苦しんできた「自分の病気」が、いまイイススという特別優れた医師によって癒されたとしか理解していません。彼らは我先にと、これまでは共に身の不運を嘆きあっていた仲間たちを押し退けるように祭司の下へ走っていったに違いありません。少しでも早くもとの暮らしに戻りたい。早く自分を喜ばせたいのです。
「ハリストスはなんと『こんな私』を救ってくれた」。回心したあらゆるクリスチャンが知る、恵みへの心から絞り出される喜びの叫びです。しかし、この喜びを自分だけの喜びとして、そこに閉じこもるなら、福音はそのいのちの力を、充分にあらわすことができません。
ところが癒やされたサマリア人はたった一人感謝しにイイススのもとに戻ってきたのです。彼は気づいたのです。ハリストスが「この私」にもたらした癒しが実は私一人だけではなく、今癒やされた十人だけでもなく、すべての人々のための救い、神による根こそぎの癒しであったことに気づいたのです。彼は「祭司」に直ったことを証明してもらって「自分をよろこばす」ことは後回しに、神をほめたたえるために、神と喜びを分かち合うために、「真の大祭司」・ハリストスのもとに駆け戻りました。まったく新しい偉大な出来事が今起きた、このお方を通じて新しい「とき」が始まった。人とそして世界全体がいま新たなる創造へむけて、喜びにうねり始めた。彼はそれを讃えるために小躍りしながら駆け戻ったのです。
イイススはユダヤ人・サマリア人をわけ隔てることなく癒しました。彼はハリストスが示す神が、すべての人々の神であることを知りました。神とユダヤ民族の交わりでも、神とサマリア人との交わりでもなく、神と人との交わりが回復したことを彼は知り、自分の喜びでもなく、民族の喜びでもなく、ここに実現した「神の喜び」を喜ぶために、彼はハリストスのところに駆け戻ったのです。
その彼に、ハリストスは「あなたの信仰があなたを救った」と告げ、彼のその喜びを、神御自身として分かち合いました。まさに、救いは特定の病気の癒しではなく、自分を喜ばすことから神を喜ばす生き方への転換、神への感謝、すなわち「神の喜びをよろこぶこと」を取り戻すことで、はじめて現実になるのです。
すべてが神がなさったことです。
私たちのもとへ人となった神として降りて来てくださったのは神です。私たちが神のもとへ上がっていったのではありません。その神は十人のらい病者を民族によって分け隔てず、みんなを癒しました。
しかしそれを、この感謝のために駆け戻ったサマリア人と共に、神のすべての人への救いとして、また世のいのちすべてのための救いとして、受けとるか受けとらないかは、私たち一人ひとりの側の自由に委ねられています。
救われた者とは、まさにこの自由の内に、ハリストスの救いを聖体礼儀で私たちが毎回祈っているように「衆のため、一切のための」(すべてのもののため、一切のための)救いとして確信し、ユーカリスト・感謝という名の礼拝に、「救われた私」としてではなく「救われた私たち」として集め直され、神の愛を生き始めた交わり、それが「教会」です。