ルカ13:10-17 2023/12/10 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ある安息日の会堂で、十八年間身をかがめたままで、体をまっすぐに伸ばせなかった女が、イイススによってたちどころに癒され、身を起こし、神を讃えはじめました。会堂の司は、それを見て「安息日を破った」と憤り、主をなじりはじめます。人を治療することも安息日に禁じられている労働とみなされていたからです。イイススは、律法の規定を言い立てるばかりで、一人の女が癒されたことを、ともに喜べない会堂の司を「偽善者め!」と怒鳴りつけました。
一部始終を見守っていた人々は、「イイススがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ」、…という出来事です。
「すばらしいみわざ」、これを聖ニコライは「光明なる」と訳しています。「輝かしいわざ」という訳もあります。「ありきたりの奇跡」ではなく「ピカピカの奇跡」なのです。しかも、人々が讃えたのは「すべての」すばらしいみわざです。この日の奇跡ばかりではなく、主がなさったあらゆる奇跡をすべて思い起こし、それらが指し示すまったく新しい何事かを、闇に突然あふれ出た光のように人々は驚き、讃え、喜び合ったのです。どうして…。
私たちはこの癒しが安息日の礼拝の最中に行われたのを忘れてはなりません。
実はイイススによる安息日のいやしはこれだけではありません。別の安息日、やはり会堂で片手の萎えた人に目をお留めになり、「立って中に出て来なさい」と呼掛け、この腰の曲がった女と同様、有無も言わさず癒しました。また、ベッセダの池のほとりで三十八年間も足萎えだった男を癒したのも安息日でした。生まれつき目の見えない人を、目に泥を塗って癒したのも安息日でした。そして、いずれも求められてではなく、むしろイイススの方が一方的に彼らに目をとめ、そのきっぱりとした強いご意向によって癒されたのです。何故でしょうか。
ここには実は、主イイススの挑戦と宣言があるのです。
イイススのなさったことが、たんに愛の表れにすぎないなら、会堂で主の癒しを見て主をなじった会堂の長老の言う通り、わざわざ律法を破って安息日に癒しを行う必要はありません。主はあえてここで、人々の前で律法を「破って見せなければならなかった」のです。律法は本来、神に選ばれ、エジプトの国でつながれていたくびき、束縛から解かれ導き出された「神の民」が、その喜びの内に神への愛を表し、そしてその神が愛を注いでいる共に生きる隣人たちを愛するための「道しるべ」でした。しかし人々はそれを忘れ、この神の律法を神のではなく自分の正しさを自らに確かめ、周囲に誇示し、守れない者たちを裁き蔑むための手段にしてしまいました。主は、人々の前でこの律法をあえて破って見せました。教条主義に凝り固まり、決まりを厳しく守る自分の正しさをい少しも疑わないファリサイ人や律法学者に挑戦したのです。「まだ気づかないのか、これまでと同じ日々が、同じ時がこれからも変わることなく続くと、まだ思っているのか」と。ご自身の到来は神の国の到来です、古き時は終わりつつあります。主はそれを示すために安息日をあえて選んだのです。安息日、新しい一週間、すなわち新たなる創造を間近に待つ期待に溢れた日です。
主は宣言しました。「女よ、あなたの病気は治った」。これは神を離れて生きてきたことで、癒しがたい病に苦しみ続けてきた人類全体への宣言でもあります。終わりの時は、つねに新しい時の始まりです。戒めの力と罪の力が互いを果てしなく強め合い、その二つが絡み合って私たちを身動きできなくしていた古き日々は終わりを告げました、そしてその「束縛から解かれ(13:16)」、神に向かってまっすぐに体を伸ばせる新しい時が始まりました。「時は満ちた、神の国は近づいた(マルコ1:15)」と主が悔い改めを呼びかけたように、この新しい時は「永遠の神の国」の時です。安息日――土曜日です――に宣言されたこの新たなる「神の国」の時は、やがて十字架でご自身と共に古き「時」を葬った主の、三日目の復活によって日曜日、「主の日」に完成します。
この日です。主の日、主の復活を祝う日。主のご聖体に集うこの日です。私たちは、主が古き日々にとどめを刺した安息日に宣言する新たなる日々、新たなる時、永遠の神の国の到来を、この主の日の集いの輝きの中で体験しています。この新しさを自らの生き方で確かめることと、日曜日、主の日に確かめたこの新しさをこの世に伝えること以外に、クリスチャンの人生の目的はありません。