2026年2月8日 ・ ルカ伝15:11-32
大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音、父に願って財産を譲り受けると、さっさと父のもとを離れ、あげくに遊び暮らしてすっからかん、ほんとうにどうしようもない息子が主役です。
この息子が豚の餌までとって食べようかというほどの苦境から、「オヤジの所へ帰れば雇い人の末席にぐらいはおいてくれるだろう、せめて飯ぐらいは食わせてくれるだろう」と帰ってきたとき、父は、はるか彼方に見えはじめた息子に駆けより、抱きしめ、「ああ、よかった、よかった」…。
そして、息子に謝罪の言葉を言わせるいとまも与えませんでした。
「さあ、上等の服を着なさい、
靴もはきなさい、
私の正式な子であるしるしの指輪もつけなさい。
さあ、今すぐ近所に触れ回って宴会に招こう。
おまえは死んでいたのに、生き返ったんだから」
「神さまはこういうお方である」、ハリストスは今日の福音でそう告げているのです。
きまりを守れない者に、また自分の弱さと罪深さに苦しむ者に、追い打ちをかけて死を宣告するようなお方ではない。だからその赦しを信じて立ち帰り、この途方もなく寛大な神の愛に自分を委ねなさい。これが神の喜びだと宣言しているのです。
ハリストスは「悔い改めれば神は赦してくださる」と教えたのであって、「悔い改めなければ地獄へ堕ちるぞ」と脅しているのではありません。
いっぽう放蕩息子の兄は、父が弟を喜んで迎え入れ、宴会まで催したことに承服できません。
この兄息子の姿を通じて、主は、神の底なしの愛を信じず、裁きへの恐怖に縮こまって生き、他の人々をも「神」の名を振りかざして、この自分の恐怖に巻き込もうとする、それ以上に悲しいことはないと告げているのです。
神の愛に自らを委ねること、神の愛を信じて走りつくこと、これが私たちの、「神への愛」の始まりです。
そして、そう教えるイイススご自身が、人としてこの世においでになり、人とともにいてくださる神です。神という目に見えず、触れもしないお方を愛するのは至難のことです。しかし人として、見ることができ、触ることができ、その言葉を聞けるお方として、私たちのもとに来られた神の子・ハリストスなら、愛せませんか。
そのお方が今も、ご自身の「からだ」教会を通じて人々を招いています。
洗礼は走りつく人々をハリストスに結びつけ、痛悔機密はひとたび迎えとられた主のもとから、罪によって離れ落ちてしまった放蕩息子同然の私たちへの、ハリストスの赦しです。そして福音が読まれ、説かれるとき、ハリストスご自身が語りかけます。そして聖体・聖血をいただくとき、その赦しの熱さの内でハリストスご自身の生命が私たちのうちに注ぎ入れられます。
そうです、この聖体礼儀こそが、宴です。
「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」私たちが主と共に祝う宴なのです。