「ひ ま わ り」


      四、注意の方向転換

 我等の生涯は春日の如き幸福な日のみ続くものでない、心底から動揺されなければならない様な誘惑と艱難に屡々遭遇するのである。
 数多き生活の悩みの中に人の最も忍び難き不愉快な事は、故なくして、あるいは故あって、他人から侮辱や迫害を被らなければならない事である。かかる場合に冷静と平安とを保持することは容易な事ではない。多くの場合相互間に種々なる不愉快な出来事が生ずるものである。彼は私に忍ぷべからざる侮辱を加えた。彼の頑迷な心が憎らしい。彼は私を非常に危険在位置に陥れた。等々激しい語を以って天地に絶叫する。斯くの如きに行き詰った心理状態から救われる為めに、唯−の方法が此処にある。
 それは自分の注意の方向転換をすることである。斯かる時我々は総ての場合に直接我等に侮辱を加え、あるいは迫害する者にのみ注意して憎悪の念を制し得ないのであるが、彼等に斯くの如き行動を為すことを許し給うた神の事を忘却しているのである。心の激昂を静め、内眼を神と自己の良心に向けて深く熟考せよ。自己反省が探刻であればある程、この注意の方向転換は暴風の時港を発見せし船の如き喜ばしき結果を吾等の心に生ずるものである。如何に加害者の心が頑迷惨酷であっても、また彼の行為が確に犯罪として罰せられなければならない性質のものであっても、若し神の聖旨が許し給わないならば、我等に何等の危害をも加うる事が出来得ないではないか。若し己に神が許し給う事であるならは、其れは我等に苦しき事であるとしても聖にして讃美せらるべき神の義なる摂理である。我等寧ろ沈黙して神の聖旨に服従すべきではないか?                         「若し我等に与えられる何等かの艱難から我等自身の為に何等かの有益な事が生じないならば神は他人が我等に危害を加える事を為対に許し給わない」と云う確信を常に心中に抱いている必要がある。そうして如何なる事が有っ
ても他人の悪意に対して悪意を以って報いてはならないのである。其れは我等の限りある智慧の為めには、或る時の来るまで不可解の事てあっても何かの善にして正しき目的の為めに神の許し給う事であるからである。
 聖人等は常に以上の規則を固く守られた。彼等は何の理由て誰が彼等を侮辱するかを敢て問題にしなかった。彼等は何時も其の心を、義なる神に向けて、其の摂理の正しき事を謙遜に認めたのである。総ての不幸及び艱難を見て、自己の罪の懲罰あるいは彼等を改悔せしめん為め、我は彼等をして更に多くの報賞を受けしめんが為めに、神の許し給うたものであることを彼等は信じた。故に彼等は敵の侮辱は恩恵てあり、敵は彼等の恩者であると言ったのである。
 「吾等は侮辱する者は吾等の恩者であって、彼等は少しも吾等に対して陥仮しない。目前で我等を賞讃するものは更に危険である。彼等の世辞は吾等の徳行の上達に障害を与える」と云う様な語を多くの聖者の口から聞くことが出来る。
 しかしこの判断は巧に激浪から救われる聖者の秘術であるが、聖人がこの様に考えるからと言っても、侮辱を加えた者あるいは危害を加えた者が実際善行を行なった事になるかというと、決してそうではない。
 これは明白な真理であるが、左に譬を以って説明することにする。
 神が罪人の犯行あるいは暴言を敢て人に吐く事を摂理の法に依り許し給う事があっても、これに依って罪人の悪行が善行となるものてはない。神は犯罪者の悪意志あるいは犯罪に賛同せられるのではない。神の大愛は其れより尚善き結果を得んがために悪意志の発現を許し給うのである。換言すれば罪人の犯罪は、悪よカ善を生ぜしむる動機を神に与うるのである。例えば一人の悪人が他の一人の貧民に対して常に敵意を抱いて居たとする。彼は遂に憎悪の念禁じ難く、貧者の小屋に放火した。小屋は灰燼に帰した。この時他の有徳の富者が彼の不幸に同情して、彼に以前の小屋とは比較の出来ない住みよい家を造ってやった。この場合に於いて、焼尽された小屋が低価であっても、有徳家が同情した事も、放火犯人の罪を減少する事にはならないのである。彼は確かに放火罪として訴えられるべき犯罪者である。貧者の為めには、火災に遭遇した事は非常に心配な事で不幸事であった。神はこれを許し給うた。然し彼の禍は讃美せらるべき神の摂理に依りて幸福に変じた。福の奥妙なる聖業には、吾等の有限の智識に達し難いこれに類した事が幾多ある。  福アウグスティンは、教主の受難の事をこれと同じ様に説明している。「不法に主を売り渡したイウダ基督の敵、彼等は皆不義不虔の徒である。然し父なる神は、我等萬人の救の為めに、其の独生の子を死に渡されて殺される事を許し給うた。」不義なる人々に依って神の子の殺害されることすら敢て許し給うた神の摂理の奥妙なる目的は人の救であったのである。我等は万事斯くの如く、正しき判断をしなければならない。如何をる侮辱危害も我等自ら己を害さない限り少しも有害なものでない。
 事件の二方面 −即ち加害者と摂理に依りて彼の言行を許し給う神− とを分離して考査しなければならない。神が罪人の悪行を許し給う事に驚く勿れ。彼等の行為に対して神は最高の叡智者として義判を以ってこれを許し給うのである。然も数を以って、量を以って度を以って許し給うのてある。神の定制に正しからざる事なきが故に、我等は少しも躊躇せずして彼に信服すべさではないか。 

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