「ひ ま わ り」
五、神 の 鞭
神は屡々其の正しき審判に依って、義人には忍耐を教え罪人には改悔を教えあるいは其の頑迷なる悔なき心を懲罰する為めに「主の武器」の意味にて、暴君や惨酷なる地の諸侯を用いられることがある。
この場合、彼等は無意識に神の手となり、武器となって、神の審判を行なうのである。天災地変も亦同じく斯くの如き性質の者である。歴史上に有名な暴君ナウホドノツソル、アッティーラ、タメルランの如きは実にこの種の厳しい神の鞭であった。ローマの皇帝の名誉と其の領土の拡張の為めに猶太を攻めた。然し彼等が自国の光栄の為めに戦ったと思ったのは誤であった。テイートはイエルサリム城の陥落の後、自ら城壁を巡閲し、無数の猶太人の屍、血に染んだ残害された不具者、切断された四肢が累々として充たされて居る壕の惨状を目撃して、天を仰ぎ手を挙げて息苦しく嘆息して絶叫した。「慈愛深き神よ!これは私の仕事ではありません!」実際彼等は悔なき頑迷なる神殺の民に対する、神の義怒の武器となったのであった。吾等の不法不義の為めに、神が許し給う他の種々なる正しき懲罰は、これと同じく見て飜然己に帰り、痛悔を以って神の義怒より救われなくてはならない。
福アウグスティンの言に美しい言がある。「我等の敵を怖れる必要はない、彼は神より許を受けただけより吾等に危険を加うる事は出来ないのではないか。その意のままに欲するだけ罰する事を能くし給う神を畏れよ!」と。
此処に聖使徒パウエルの教訓を記憶する事が最も適当であると思う。
「吾が子よ、主の懲戒を軽んず勿れ、又彼に責められる時心を喪う勿れ、蓋主は其の愛する者を懲し凡そ納るゝ所の子を鞭つと。爾等若し懲戒を忍ばゞ神は子の如く爾等を待つなり。蓋子にして父の懲さゞる者あらんや。爾等若し衆の与る所の懲戒に遭わずば乃私生の子にして嫡子にあらず、又我等は肉体の父よ懲されて彼等を敬えり。况んや我等益々諸神の父に従いて生を得べからざらんや。−総ての懲戒は今は喜びに非ずして悲なりと思わる。然れども後にはこれに由りて練達せし者に義の平安夜る果を結ばしむるなり。故に爾等衰えたる手、弱りたる膝を健にし、爾等の足を以って直き径を行け、跂者の迷うなくして寧ろ癒されん為なり、努めて衆人と和睦し亦聖潔に非ざれば、人、主を見るを得ず」(エウレイ書十二章五〜十四)