「ひ ま わ り」


      三、主の判きは大なる渕の如し

 我等の一生涯の中には実に不可思議な事が多くある。到底忍ぷべからぎる難難に遭遇して神の愛から全く忘れられたのではないかと思われる事があるかと思えば、其の事が他の大なる幸福の原因となり時を過きて見ればそれによって神の愛の懐に抱かれる感謝を知る事となる事がある。我等の心のままよと喜んで居る其の事が蹉跌の石となる事もある。聖王ダウイドは「主よ爾の義は神の山の如く、爾の判は大なる淵の如し」(第三十五聖詠ノ七節)と云い、シラフの子は「誰か神の大なる業を探る者あらん。誰か彼の大いなる力を量る者あらん。誰か彼の慈燐を云い現すわすを得る者あらんや」(シラフの子の書十八ノ三、四)と呼んでいる神は無限の愛である故に、若し人の為めに有益でないならば、如何なる悪事も地上に行なわれる事を許し給わないであろう。然し神の聖業は寄異である。神は罪なきイオシフに対して、兄弟等の妬の増大する事を許された。然しかくされたのは、如何なる恩恵を与うる為であったか?両親、兄弟、親族のみならず全埃及を餓死から救う為めではなかったか。不虔なるサウルが温柔にして無きずなるダウイドを苦しめることを神は許された。然し其れはダウイド自身と全猶太国の利益の為めではなかったか。然り唯だ彼等のみならず、ダウイドの裔なるイイスス・ハリストに因って全人類の利益の為めであった。
 無実の罪に讒言せられた予言者ダニイルを激しく怒らせた獅子の穴に投ぜられる事を神は許し給うた。然し其れは彼と彼の友人等に最高の光栄を与えん為であった。余は旧約から幾多の実話を物語る事を止めて新約の例を示そう。
 ハリセイ等と猶太民の長老等は妬によって神の独生の子イイスス・ハリストスを十字架に釘した。然しこの事は全人類の救となったのである。この様に衆等の為めには暫時の間、塞ざされ隠れて居る所謂悪と思わるゝ事も、神は其の許し給う総ての事から偉大なる神の光栄と富と、個人と人類全体に対する神の恩愛が生じ現われるのである。斯くの如き事に因って、神の愛、恩寵、全能、予知、摂理の道等が我等に啓示されるのである。
 神の至上の叡知と義との光は斯くの如き道を以って吾等を照し給うて、注意深き人々をして幾多の善行に進歩せしめ給うのである。これに因って彼等は艱難多き幾多の苦業をも大いに努力して励み、光栄の冠を主より受けるのである。ああ神の聖業は奇異なる哉! 善から善を生ぜしめることは大なることではないが悪を善に向ける事は驚くべき事である。諺に「静かな海では誰でも般長になれる」と云うことがある。風は順風、船は丈夫、海は静かで加うるに水夫は自分の仕事を知り、目前に見えて居る港に向って行くには大した智慧も要しない。然し暴風は狂い船は破れ、波はすさまじい音を立てて甲板と船の内部に侵入し来る時、あるいは暗夜海賊船に囲まれ、船員は少ない上に、十分に武装されておらない時には全くこれと異なっている。然も船長の配慮に依って無事にその難から逃れたとすれば、其の時こそ実に嘆賞すべき般長の智慧と経験とは実証せられた事になるのである。
 神の世界を治め給う摂理の法にもこれに類することがある。我等の考には好結果に導くまいと思われることから、神は表現すべからざる叡智と正義とを以ってこれを最善の終局に導き給うのである。不義を行なうことを許し、苦しい運命を味わしめ給う事があるが、これに因って彼は罪人を改悔に導き、尊敬すペき神の友と変化せしめ給うことである。有徳な聖者に多難の生活を許し給う事があるが、其れに上って彼の名誉は更に大きくなり、彼の徳義的力も更に強い者と夜るのである。大罪人の憎むべき不法不潔の生活を見て、多くの人は敬虔と善行に進歩し、我等の見方によれば亡びの淵に沈んでしまった人が、反って其れに依って日覚めて救われる事がある。
 イオシフの為めには鎖と牢獄は最大の名誉を受けることとなり、サウルの悪心はダウイドに王冠を与え、獅子の洞穴に投ぜられた事は予言者ダニイルの為めには更に大いなる尊敬に入れられる事となり、ハリストスは十字架より改悔せし盗賊と共に天国に入力給うた。
 ああ深い哉、神の智慧!

TOP |目次
前のページ |次のページ