「ひ ま わ り」


      ニ、ベルナルドの金言

 哲人ベルナルドの金言に、「神の聖旨を尋ねる事は危険でないのみならず敬虔な事である、余の常に万事に於いて何処に於いても守らなければならないものは神の聖旨である。故に敬神の念を以ってこれ探知することは余の当然努力しなければならない事である。」と言うのがある。
 神は斯く望み給うと確実に認められて居ることを自ら知る事を希望しない人があり、又神は斯く欲し給わずと言うことが明らかであるに関わらず、神に逆った事を望む人が有るとするならば、彼程の愚者はあるまい。これを他の言でを以って云い表わすならば「神よ!余に関する事のみは爾の聖旨でなく余の意志の通りになる事を望みます。余の事は余自ら速やかに萬事漏れなく配慮します。何事も神の永在の摂理に委托する事は危険であるし強固でもない」と神に対して敢て暴言を吐く者があるとするならば、我等は彼を狂人に近い恥知らずの無神論と称するであろう。しかし実際に於いて我等は言を以ってこそこのような暴言を吐露する事を恥とするけれども、自己の現実の生活はこの人と同じ状態にあることがある。この悲しむべき事実が、吾等の堕落し易い、また幾多の困難に遭遇しなければならない近い原因なのである。我等は自己のお世辞者となっている。自ら欺いた生活をして欲望の奴隷となっているのである。
 ベルナルドは「余は諸子が大いなる注意を以って傾聴されん事を望む、諸子の為に最大の雲益となる事は、神の聖旨の疑う余地のない程明白な時には、我等の意志もそれに服従しなければならないと言う事であると認む」と言って居る。特に聖書に明記されてある事、あるいは聖神の奥密なる内感によって吾等の心中にかくかく行わざるべからずと示し給う事は(例えば神と隣人に対する愛、謙遜、貞潔、従順等)皆何等の美わくなきものにして、神の嘉し給う事なるが故に、我等は心から熱心にこれを愛さなければならない。大いに努力してこれを我有の徳としなければならない。これに反して、神の聖旨に逆う事であると疑なく知れて居る事(例えば淫行、高慢、不満、不平、忍耐なき事等)は皆これを避けこれを憎み厭うべきである。然し確実に認められ難き事に関しては、我等の意志も確定的にこれを扱うべきでない。ただ聖旨に委ねて主の定め給う所に従うべきてある。尚短かき言を以って言うならば、神の嘉し給う事が明白てあることに対しては疑うべきでない。疑わしき事を確実な事として受けてはならない。疑わしい事に確定的な判断を下してはならないと同様に、他人が其の件に就いて批評する事を攻撃すべさではない。
 かようにして吾等は「爾の律法を愛する者に大なる平安あり」(第百十八聖詠の百六十九節)と言う聖言の意義を悟ることが出来るのである。故に神はかく望み給うと確認せらるる事は我等の為にもまた望ましいのである。神の聖旨に逆う事であると認められる事は、それが我等の心には望まぜしき事であっても、我等は断然これを拒絶しなければならない。しかし前者にも後者にも属しない中間的の事が現実の生活には常に多い、神に嘉せられるべき事であるか、聖旨に反する事であるか、不明な事がある。其の様な場合には我等も亦中間的な態度をとって其の事に当らなければならい。大なる努力を用うべきでないが、それかと言って全く拒絶すべきでもない。
 以上の有益なる教訓は多くの場合に於いて吾等の心中から全ての疑雲を遠けて、吾等が当然進むべき道を明示するのである。
 自己の行為の選択に迷う時、左の如さ意味の言を祈祷をする様な心情を以って、幾度となく反復する事が非常に有益である。
「主よ爾に走り附く、我に爾の旨を行なうを教え給え、爾は我の神なればなり」(第百四十二聖詠の九節十節)「主よ!爾は余に何を為すべきを命じ給うや」 (使徒行実九ノ六参照)

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