「ひ ま わ り」


      一、二つの基礎的知識

 神聖にして最高なる叡智者として我等イイスス・ハリストスが世に伝え給うた神の教えの初めは、彼を信ずる者が萬事に於いて自己の言行を主の聖旨に従わしむることである。我等の救世主は地上生活の全生涯を通じて、あるいは教訓を以ってある行為を以って、あるいは直接な言葉を以って、あるいは比喩を用いてこの事を教えられた。そして彼自らこれを実行して吾等が各々其の力に応じて従うべき基督教徒の生活の模範を遺し給うたのである。
 主のこの教訓を説明する為に、我等は神学者と共に二つの基礎智識を有する事が必要てある。
其の一・・・珠等基督教徒の生活の向上あるいは進歩は我等が如何に自己の意志を神の聖旨に従わしむるかに因って定まるものである。神の旨に従うことが熱烈であればある程信者の楕神生活は向上し、充実し且つまた種々なる善き実を結ぶのである。
 基督に従う者の完全なる人格は、神と人とに対する愛を基礎として居る事は人々の知る処で聖書の中にこれを立証する記事を到る処に発見する事が出来る。「爾心を尽し霊を尽し意を尽し主爾の神を愛せよ、これ誡の第一にして大なる者なり。第二はこれに同じき者即ち爾の隣を愛すること己の如くせよ。この二の誠には悉くの律法と預言者と繋がれり」(馬太福音第二十二章の三七〜四〇) 「今は信望愛この三の者存す。其の中に最大なる者は愛なり」(コリンフ前書十三章の十三節) 「凡そ此等の上に愛を衣よ、是、完備の総綱なり」 (コロサイ書三章の十四節)。
神の誠を行うとは他の言を以って云うならば、神と人とに対しての我等の行為は愛よカ生ずるものでなくてはならないと言うことである。我等の意志を神の聖旨に従わしむる事も要するにこの事を意味するものである。
「神の欲し給う処は余もこれを欲する。神の望み給わざる事は余も亦これを望まない!」これほど強い愛は他に存しないのである。福イエロニム及びその他の智者も斯くの如く考えている。
其のニ・・・神は全能なる萬有の創造者であり摂理者である。天地間何事も(罪の外)神の旨なくして行わるる事は一もない。故に善も所謂悪も幸も不幸も総て感謝して神の御手から受けなければならない。偶然の機会と言うことは厳密なる意味で存するものでない。偶然にある幸運に会うとか偶然に期待しない困難に遭遇すると言う様な考えは異教徒の創造であって、基督教の神学は絶対にこれを否認している。善も所謂悪も生命も死も貧も富も皆神より出づるものである。この事は事実を目撃する程らかに聖書の内に説明されている。

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