A.シュメーマン神父「大斎」より
シリヤの聖エフレムの祈り(「エフレムの祝文」)
たくさんの聖歌や祈りが大斎には祈られますが、その中でこれぞ「大斎の祈り」と言える短い祈りがあります。霊的生活の偉大な師父の一人、シリヤの聖エフレムに帰せられるものです。次の通りです。
主、吾が生命の主宰よ、
怠惰と、愁悶と、凌駕と、空談 の情 を我に与ふる勿れ
貞潔と、謙遜と、忍耐と、愛の情を我爾の僕に与へ給へ
鳴 呼、主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜へ
蓋、爾は世世に崇め讚めらる、「アミン」
この祈りは月曜から金曜までの大斎祈祷の各課の最後に二度繰り返されます(土曜・日曜の祈祷では大斎祈祷のパターンをとらない為唱えられない)。一回目はそれぞれの祈願毎に一回伏拝(訳注;十字を描き、地に平伏し神を拝すること)します。その後、「神よ、我罪人を浄め給へ」と唱えながら十二回躬拝(訳注;十字を描き、腰から深く曲げ頭を垂れること)します(訳注:現在日本教会が大斎祈祷で用いる1902年刊行「大斎第一週間奉事式略」では六回)。その上で再度祈り全体が唱えられ、最後に伏拝します。
大斎の旅の「チェックリスト」
なぜ、この短く単純な祈りが大斎の祈り中でこのような大きな位置を占めているのでしょう?それは、この祈りが、痛悔し取り除くべき否定的な要素と身につけるべき肯定的な要素を数え上げ、私たち一人一人が大斎で努力する時の「チェックリスト」となっているからです。では、この努力の目標は何かと言えば、私たちの生活を枠づけ、神への立ち帰りを始めることすら不可能にしてしまっている幾つかの根深い霊的な病からの解放です。
怠惰(おこたり)… 冷笑主義
基本的な病は「怠惰」です。私たちを、いつも、上よりはむしろ下へ向けさせ、私たちに、「何も変える事はできない」、従って「変えたくもない」と思い込ませるのは、この人間存在全体の奇妙な怠惰であり受動性です。個々の霊的試練に対して「そんなことが一体何になるのさ」とうそぶかせ、人生を途方もない霊的な浪費にしてしまうのは、私たちに深く根ざしたこの「冷笑主義」です。一切の罪の基盤は、霊的なエネルギーをその源泉から毒してしまう、この冷笑主義です。
愁悶(もだえ)…落胆・意気阻喪
怠惰の結果は「愁悶」です。霊的師父達が魂にとって最大の危険と見なす落胆、意気阻喪の状態です。これによって善いもの肯定的なものが何一つ見えなくなり、否定主義・悲観主義が一切を彩ってしまいます。悪魔とは<人を「欺く」者>であるという意味で、これは実に「悪魔的」な力です。悪魔は神と世界について私たちを欺きます。彼は人生を暗黒と否定で満たします。意気阻喪は魂の自殺です。それにとらえられている時、人は光を見る事も求める事もできなくなるからです。
陵駕(しのぎ)…力への渇望
「陵駕」(力への渇望)。奇妙に思われるかも知れませんが、私たちの人生を「陵駕」で満たしているのは、まさしく「怠惰」と「愁悶」なのです。この二つは人生への態度全体を腐敗させ人生を無意味で空虚なものに見せます。その空虚を他の人格に対する間違った態度で埋め合わそうとさせます。もし、人生が神に向けられず永遠の価値を目標としていなければ、必然的に人の生き方は自己中心的なものとなり、自分以外の存在はすべて自己満足の手段となります。もし、神が「主吾が生命の主宰」でなければ、私自身が私の主また主宰・私自身の世界の完全な中心となり、一切のものを「私の」必要性、「私の」考え、「私の」欲望、「私の」裁きの観点から評価するようになるでしょう。「陵駕」は、このように、私と他者との関係の腐敗であり、他の一切を私に隷属させたいという渇望なのです。これは必ずしも、他者に対する実際の命令や支配として現れるとは限りません。他者への冷淡や軽蔑、関心・配慮・尊敬の欠如という現れ方もあります。この場合は他者へ向けられた「怠惰」と「愁悶(意気阻喪)」と言えましょう。私たちはこうして霊的な自殺の上に霊的な殺人を重ねます。
空談(むだごと)
最後は「空談」です。被造物の中で、人だけがしゃべる能力を授かっています。聖師父たちはそこに人に与えられた「神の像(創世記1;26、27)」の刻印を見ています。なぜなら、神ご自身が「言葉」としてご自身を示されているからです(イオアン1;1)。しかし、至高の能力である事は最悪の危険でもあります。人が人である端的なしるしであり、人が自己を実現してゆく手段であるがゆえに、それがまさに人の自己破壊と堕落の、背信と罪の手段でもあり得るのです。言葉は救い、言葉は殺します。言葉は高め、言葉は毒します。言葉は「真理」の手段であり、言葉は悪魔の「欺き」の手段です。言葉は究極の肯定の力を持ち、一方言葉は途方もない否定の力を持ちます。言葉は肯定的にも否定的にも働くのです。言葉は、その聖なる起源と目的から引き離された時、「偶像」となります。言葉は「怠惰」と「愁悶」そして「陵駕」を力づけてしまいます。人生を地獄に変え罪の力そのものとなります。
以上の四つが痛悔し取り除くべき四つの障害物です。しかし、これができるのは実は神のみです。したがって、この祈りの最初の部分は、自分の無力を心底痛感する私たちの神への「嘆願」です。
ここで、祈りは痛悔の四つの肯定的な目標に移ります。
貞潔(みさお)…完全さ・全体性・健全さ
「貞潔」。この言葉を性的な意味だけで理解してはなりません。これは「怠惰」の反対概念です。ここで用いられるギリシャ語「ソフロシニ」、またロシヤ語では「ツロムヅリィエ」は元来「欠ける所のない全体性を保った健全さ」とでも訳されるべき語です。「怠惰」は、まず、浪費であり、人間の「視力(vision)」とエネルギーの毀損であり、全体性を見失ってしまう事です。「怠惰」の反対はまさに「健全さ(wholeness)」です。「貞潔」という言葉が、普通は性的堕落の反対概念として用いられるのは、性欲に人間存在の毀損された姿が最も顕著に現れるからです。肉体が生命全体から引き離され、霊のコントロールを失っているのです。ハリストスは、人を神へ立ち帰らせ、真実の価値基準を取り戻させ、人間にこの失われた全体性を回復します。
謙遜(へりくだり)
この全体性ないし「貞潔」の最初の素晴らしい果実は「謙遜」です。…これは何物にも勝るものです。真実の勝利であり、私たちを取り囲むすべての欺瞞の排除です。謙遜だけが真実を見ることができます。物事をありのままに見、受け入れ、従って神の偉大さと善と愛を一切の内に見ます。だから、神は遜る者に恵みを与え、高慢な者を退けると教えられるのです。
忍耐(こらえ)
「貞潔」と「謙遜」は自ずと「忍耐」をもたらします。「自然人」ないし「堕落した」人間は忍耐強くありません。自分自身に盲目なので、簡単に他人を裁き断罪します。毀損され、不完全で、歪んだ知識しかないので、すべてを自分の好みと思いで判断します。自分以外の人々(の人格的自由と事情)には無関心なので、「今、ここで」物事がうまく行っていないと気が済みません。
忍耐は実に「神の徳」です。神は「甘い」から忍耐強いのではありません。存在の一切がその深奥まで見え、盲目の私たちには見えない物事の内面的な真実が神には見通せるからです。従って、神に近づけば近づくほど、人はより忍耐強くなり、一切の存在に対し、神にふさわしいものとして、限りない敬意を払うようになります。
愛
最後に、あらゆる徳と成長と努力の栄冠、また果実であるのは「愛」です。愛は、…神のみが与えて下さるもので、私たちの霊的な準備と修養の到達点です。
以上のすべては、この大斎の祈りの結びの祈願に要約されます。
結びの祈願…プライドという危険
「鳴呼、主王よ、我に我が罪を見、我が兄弟を議せざるを賜へ」(訳注;「議す」は裁く、あれこれ批評するという意味)
なぜなら、究極的にはたった一つの危険があるだけです。「プライド(自尊心)」です。プライドは悪の源泉、悪とはプライド、です。しかしまだ、自分の過ち・罪を見るだけでは不十分です。この自分の罪を認めるという明白な徳でさえ「プライド」に逆転することがあるのです。霊的な著作には、曰く言いがたい「えせ敬虔」への警告が満ちています。謙遜さと自己告発の装いの下に、まさに「悪魔的」なプライドへの傾向が実際に隠されているのです。しかし、「我が罪を見」、その上「我が兄弟を議せざれ(人を裁かないこと)」ば、また、言い換えれば「貞潔と謙遜と忍耐と愛」が一つになった時はじめて、究極の敵「プライド」が私たちの心から撃退されるのです。
伏拝…身体の本来の働きの回復
この祈りではそれぞれの祈願毎に伏拝が行われます。伏拝は「エフレムの祈り」に限らず行われ大斎全体を特徴づけますが、この祈りの中で最もあらわにその意味が示されます。この長く厳しい霊的回復への道のりの中で、教会は身体から魂を決して切り離しません。「人間全体」が神から離れ堕ちてしまったのですから、「人間全体」こそ回復され、神に立ち帰らなければならないのです。罪による破局は、まさに、人間の内の、動物的で非合理な欲望、即ち「肉体」が、霊的、神的なものに勝利した所にあるのです。
しかし「身体」は光栄に満ち聖なるものです。だからこそ、神ご自身が「肉体となった(イオアン1;14)」のです。神の救いと人間の悔い改めは決して身体への軽蔑や無視ではありません。反対に、霊的な生命の具体化、はかりしれない価値を持つ人間の魂が宿る神殿という、身体本来の働きを回復することに他なりません。クリスチャンの修道は「身体を敵とする」戦いではなく「身体のための」戦いです。だからこそ、人間全体が、即ち魂と身体の両方が悔い改めなければなりません。身体は魂の祈りに唱和します。同時に魂は「身体を通じて身体にあって」祈ります。従って、悔い改めと謙遜、讃美と従順の、魂と身体を一つにしての「しるし」である伏拝は、大斎の祈りの最も優れた典型なのです。