イエルサリム大主教
聖キリール教訓


  正教の首なる定理

  神 父 の こ と

 敬神の為に我等は一つにて足れり、神即独一の神あることを知る、是なり。
 神は在る者且永遠に在る者にして、常に自ら平等一様なる者なれば、他の何者も彼に父たらず、何者も彼より有力なるはなく、いかなる嗣業者も彼の国を奪わざるるなり。神は其の本体には他の異類のものを絶えて容れざる多名にして全能なる者なり。けだし彼は善なる者、義なる者、全宰者、萬軍の主(サワオフ)と名ずづけらるれば、種々の異なるものは、彼にあるべらず。乃ち同一に存在して、神性の無数の力をあらわし、彼に余りありて、此に乏しきあるにあらず、すべてに自ら一様平等に存在して、ただ人事に於いて大にして、叡智に於いて少なるにあらず、叡智も人事も平等均一なるなり。ただ一部分を見て、他の部分を見るの力を奪わるるにあらず、すべては目、すべては耳、すべては叡智なり。ただ一部分を理解して、他の部分を知らざること、我等の如くなるにあらず、かくの如き見解は神を涜すものにして、神の本体に當らざるなり。
 神は有る所の万物を前知する者、彼は聖なる者、彼は全能なる者、仁慈に於いてはあらゆる物に越え、あらゆる者より大にして、あらゆる者より叡智なり。其の始も其の形像も其の有様も我等は名状することあたわず。
 神の書にいう『爾等いまだ其の聲を聞かず、未だ其の容を身ず』(イオアン五の三十七)。故にモイセイはイズライリ人につげて『爾等深く自ら慎めよ、爾等未だ何の像をも見さりしなり』(復伝律令四の十五)といえり。それ像をさえ全く想像する能わずんば、いかんして本体に思近づくことを得んや。
 彼は独り何処にもあらざるなし。・・・すべてを見、すべてを悟り、すべてをハリストスによりて建つるなり。けだし『万物は彼によりて造られ、彼なくして造られしものは一もあらず』(イオアン一の三)。
 彼は富んで尽きざることごとくの善の泉なり。恩恵の河なり。竭きずして照らす永遠の光なり。我等のの劣弱に適応する勝難き力なり。我等が為には彼の名おさえ聞くこと難し。
 イオフ言う『汝神の深事を窮むるを得んや、全能者の造りし者を全く窮むるを得んや』(イオフ十一の七)。それ造物の至りて微なるものをさえ理解するあたわずんば、いかんして万物を造り給いし者を理解するを得んや。『神が己を愛する者の為に備え給いし者は目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心いまだ念わざるものなり』(コリンフ前ニの九)。それ紙によりて備えられし者だも我等の理解の為に及ばずんば、これを備え給いし者をいかんぞ人智を以て理会するを得んや。『ああ神の智と識との富みは深いかな、其法度と踪跡をさえ理会するあたわずんば、いかんぞ彼自己を理会し得んや。
 然れども我等は独一の神を信ずるを要するのみならず、此の独一の神は吾人が主イイスス・ハリストス独生者の父たることをも敬虔の心を以てうけんことを要するなり。神は本来をいえば衆人の父にあらず。本性に依り実際に於いてただ一の独生の子、我等が主イイスス・ハリストスの父なり。彼の父たることは一時これを得たるにあらずして、常に彼は独生子の父たるなり。
 神の書及び真理の教は独一の神を証人するなり。彼は己の力を以て万物を扶持し、任意に衆人を容忍し給う。
 一物として神力の外にあるものはあらず、聖書に神のことを言うて『悉く汝に事う』(聖詠百十八の九十一)いえり。さりながら『悉く汝に事う』るも、ただ彼の子と、ただ枯れの聖神とは此の悉くの者の外にあり。さらばすべて彼に事うる者は独一の子と聖神とによりて主宰に事えまつらんとす。

TOP目次
神父の事神の子の事|神の子の人体を藉る事|イイススハリストス十字架に釘せられし事|
|イイススハリストス光栄にして地上に再臨の事|聖神の事|死より復活の事|