アメリカ教会訪問記
2003年 6月16日〜7月7日
●New York New York ●ウラディミル神学校で ●聖堂と祈り ●伝統の祈り−共働の祈り ●講義 ●実習 ●ワシントンの 聖ニコラス大聖堂を訪ねて ●ポクロフスキーさん |
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意を決して、と言うと大げさですが、ウラディミル神学校で毎年開かれる牧会と聖歌のための研修会に出かけてきました。新大陸にゆくのも初めて、まして英語で講義を聞くのも初めてで、いささか緊張して出かけました。行ってみれば、アメリカというお国柄もあると思いますが、当たり前のように受け入れてくださり、全米から集まった70人の仲間と楽しい時を過ごしてきました。その一部をご紹介します。「名古屋聖歌だより」でや正教時報でも伝えしました。 |
NEW YORK NEW YORK
メトロポリタン美術館のビザンティンコレクション
オマケみたいな話ですが、メトロポリタン美術館の「中世美術ギャラリーを歩くうちに、ビザンティンコレクションを見つけました。ビザンティンの宝飾品を眺める内に、なんと私の大好きな、このHPのフロントページを飾るダマスクのイオアンのイコンに出会えました。神さまの下さった出会いに感謝!一緒に記念写真。
ウラディミル神学校で
St. Vladimir Orthodox Theological Seminary -- The Summer Institute of
ウラディミル神学校はニューヨーク中央駅から電車で北へ30分ほどの閑静な住宅地にあります。、広い敷地には小川が流れ、木々の間をリスが走り回っています。
1.聖堂と祈り
中央の小高い丘の上に聖大ワシリーと神学者聖グリゴリー、聖金口イオアンの3人を記念した聖堂Three Hieralch's Chapelがあります。
聖所の広さは名古屋教会の1.5倍ほど、神学校自体は夏休みに入っているので学生はわずかで、研修会参加者の他には学内に住んでいる方や近隣の人々などでしたが、子供が多くなごやかな雰囲気でした。正面のイコノスタスは日本の物に比べると、ほとんど素通しで至聖所の様子がよくわかります。さらに、聖変化の部分は、聖歌隊が「主や爾を崇め歌い」を歌い終わってから司祭が祝文を読み始めました。普通は聖歌に隠れて聞こえませんが、聖体礼儀の核とも言えるこの司祭祝文を共有しようとする試みの一つと思われました。
聖堂の両側に聖歌隊席があり、参加者はパート別に左右聖歌隊に分れて立ち、アンティフォン形式で左右交互に、男声女声に分けて、あるいはトリオやソロの部分に続いて全員でリフレインを歌うなど、さまざまな歌い方を楽しみました。木と白壁を基調にした聖堂のドームに歌が行き交い響きあい、一体感のある祈りが行われました。
曲目に関しては新しい作品も随分取り入れられているようでしたが、聖体礼儀のアンティフォン、早課晩課のトロパリ、スティヒラなど八調のメロディをベースにしたものは日本でもおなじみのものでした。不思議なことに楽譜を見るよりも、歌詞だけを見て聞き覚えのあるメロディに当てはめて歌う方がよほど楽で、内容がよくわかりました。「八調で歌う」(オスモグラシアで歌う)というのは楽譜のなかった頃、あるいは楽譜を読むのが得意でない人には歌を覚えるのに理に適った方法なのかもしれないと思いました。
逆に案外難しかったのが単調(まっすぐ棒読み)な「信経」や終わりの「ヘルビムより尊く」で、早口言葉のようでついてゆけないのです。日本語の場合も私たちもついつい突っ走っていますが、慣れているからと急がないように気をつけねば…と思いました。
2.講 義
この「伝道牧会と聖歌の夏の研修会」は96年から毎夏開講され、教役者に限らず一般信徒にも広く門戸が開かれています。今年は全米各地から約70名が参加し、そのうち聖歌部門は25名ほどでした。毎朝7時半に聖堂で早課、朝食、午前中2コマの講義、午後2コマの実習、晩課、夕食後さらに9時まで授業があり、かなりのハードスケジュールでした。
今年のテーマはLIVING TRADITION (「生ける伝統」)で、正教会は伝統を正しく伝えている教会と言われますが、あらためてその伝統とは何か、何を守り何を伝えてゆかねばならないかをそれぞれの立場で考えました。
午前中の講義は両部門共通で、伝統とは神の福音を伝える器であること、正教会は諸々の慣習やしきたりと区別して「聖書」「教義」「信経」「奉神礼」などを「聖伝」として特に大切にしますが、それらがどのように成立してきたかを学び、さらに「聖体礼儀」や「洗礼機密」などの古い形を見直すことで今私たちが行っている儀式の深い意味を探りました。
今回のゲスト講演者は世界的に有名な教理史学者のヤロスラフ・ペリカン教授でした。ルーテル派の牧師さんの息子として生まれ、教理の研究をするうちに正教会がキリスト教の伝統を正しく伝えていることに至り、ついに5年前に正教に帰正されたそうです。日本語でも講談社学術文庫から「イエス像の二千年」が出ています。
プロテスタント教会では「書かれたもの」としてある「聖書」だけを大切にするが、それ以外に「書かれない伝統」があること、それは主教を中心とした教会そのものが連綿と伝えてきたことを色々な事例を上げながらお話し下さいました。
英語力が十分でない上に時差ぼけで、「難しくてさっぱりわからない。」とルームメイトにぼやいたら「私にも難しいわよ。」というのでちょっと安心(!?)。何より助かったのは、翌日には講義を収録したテープが学内の本屋さんに並ぶのです。さすがアメリカはスピーディと妙に感心してしまいました。帰ってから何度も聞き直しています。
3.伝統のいのり−−共働のいのり
このほかにウラディミルの教授陣による様々な講義がありましたが、私にとって特に面白かったのが次の二つの講義で、ポール・マイエンドルフ教授は前期ビザンティンの洗礼の儀式について、アレックス・リンガス教授はビザンティンの会衆唱にスポットをあてて今行われている奉神礼が、どういうふうに形作られてきたかを講演されました。現代の儀式は省略されたり、名前のみが残ったりして、もともとの意味がわかりづらくなっているものを見直すことで奉神礼そのものが信徒の教育になっており、また一般の会衆が積極的に参加していたことが強調されました。
また、聖歌部門の講義ではデヴィッド・ドゥリロック教授がモスクワ学派の聖歌について、マーク・ベイリー講師は「新たなる世界における伝統と変化」(訳文掲載)というタイトルで「行進」と「会話」を正教会の大切な伝統として取り上げられました。
「行進」は十字行や聖入、洗礼時に洗礼盤を3度回るなど今でも行われていますが、元々は市中を廻る行列であり、文字通り聖堂に入る動きであり、別棟の洗礼聖堂から信者の集う聖体礼儀の聖堂に向かう行進でした。これらは実際の場所移動でしたが、同時に神学的に「教会へ」「聖なる方へ」向かう神の民の永遠の歩みを表しています。現在では「聖入」は神品が至聖所から出て王門を通ってまた至聖所に戻るだけの動きですが、気持ちの上では、集まった者すべてが神の国へと入ってゆく歩みです。
マーク先生の講義では、実際に歩きながら「聖なる神」や「聖にして福たる」を歌ってみました。不思議なことに体を動かしながら歌うと、この歌が行進の歌であることがはっきり見えてきます。逆に曲としてどんなに美しくても、逆に単純でも、奉神礼の動きや歌の意味とマッチしないものはふさわしくありません。
また、古代の聖堂はイコノスタスの仕切りが低かったため神品と参祷者が身近で、今は黙唱になって「蓋」以下しか聞こえませんが「アミン」は神品の唱える祝文全体に対する会衆の応答で、今よりさらに頻繁に祈りの会話が交わされていました。聖歌者はクリロス(聖堂前方の高くなったところ)に立ち至聖所と聖所を繋ぐ役目を果たし、左右に分かれてアンティフォン(掛け合い)で歌いました。会衆も消極的な聞き手ではなく、ソロの歌う聖詠の句に続いて、全員がリフレイン(繰り返し部分)を歌って答え、積極的に祈りに参加していました。
実際に聖堂で左右に分かれて掛け合いで歌ってみたり、早課の「我が心は主を崇め」を代表者がトリオで歌い、リフレインの「ヘルビムより尊く」を残り全員で歌ってみましたが、交互に歌がゆきかい、祈りの「会話」に結ばれて、集まった者が心を合わせて一つになる実感が増します。
正教会の奉神礼は「私」が集まって「私たち」になって祈る共働(リトゥルギア)です。古代の祈りの形は、それをはっきりと表していたことを教えられます。
4.実習−−祈りのハーモニー
講義に続いて、初級上級の二つのコースに分かれて、夜9時まで実習が行われます。初級は奉事規程(祈りの順序のきまり)、誦経、八調(スティヒラやトロパリを祈祷書だけを見ながら歌う)、指揮入門など聖歌の初歩から、上級コースは指揮法、発声指導、作曲とビザンティン・チャントなど幅広い聖歌の伝統と応用を学びます。今回私は上級コースに参加させて頂きました。
いずれの実習も聖歌を奉神礼として位置づけ、指揮者は聖歌だけを切り取って芸術として自分の音楽を求めてはならず、まず、奉神礼全体の流れと意味、奉事規程、祈祷書の文(歌詞)と音楽両方の内容の十分な理解が必要で、同時に毎回状況の異なる祈りの場において、神品教役者とのハーモニーにも気を配り、参祷するものの息を合わせていく役目があります。また、聖歌の力量や理解の段階が様々な各教会の現実の「音(声)」に耳を傾け、そこからその教会の音色を育ててゆく地道な努力も求められました。
発声指導や音取りの練習も「ハーモニー(調和)」のとれた発声や音程を各人が「心地よい」ものとして体得できるような指導を心がけるように教えられ、ゲーム感覚の学習法も体験しました。
作曲は大げさなものでなく、短い祈祷文に適切な音楽付けをする練習で、祭日の第一アンティフォンのリフレイン(繰り返し)「救世主や、生神女の祈祷によって我等を救い給へ」が課題になりました。文そのものの意味、言語が本来持つ抑揚やリズムを生かすことはもちろん、奉神礼の中でその歌が果たす役割や意味を考えて、ふさわしい音楽を探します。
課題のアンティフォンは奉神礼的に見れば「対話」、神との出会いへ向かう「行進」、この後読まれる「福音」へと心が動き出す歌です。混声合唱、単音、ビザンティン風など、どんな形式でもかまわないが、リフレインは全員参加が前提なので、誰でも歌える無理のない音域におさめること、一度聞いたら覚えられる易しい歌であることが条件です。
参加者はそれぞれ仲間を募って練習し、最終日の発表会で先生から寸評をいただききました。ちょっとした音の配置で歌いやすさ、聞き取りやすさが違ってきます。また、音楽に凝りすぎると音楽そのものに気を取られて気持ちが祈りから離れてしまう危険性も指摘され、ここでもハーモニー(調和)の大切さを教えられました。
5.ビザンティン・チャント
今回初体験だったのはビザンティン・チャントです。一昨年ギリシアで参祷した際に耳にしましたが、今回は英語でビザンティン・チャントを歌う試みだったので、そのシステムや特徴を垣間見ることができました。指導して下さるのは女性では珍しいプロトプサルトに祝福されたジェシカ・サッチ・ピリアスという先生で、お祈りには黒いリヤサ姿で立たれます。
ビザンティン・チャントについては後ほど詳しく書きたいと思いますが、ジェシカ先生が聖体礼儀の第1アンティフォン「救世主や、生神女の祈祷によって我等を救い給へ」にビザンティンチャントのメロディをつけて下さいました。日本語のビザンティンチャントは本邦初の試みでしょう。私がローマ字で祈祷文を書くと、まず「この中で一番大事なことばと2番目に大事なことばはどれ?」と聞かれ、次に各語のアクセントの位置を確かめられます。日本語は高低アクセントであることも伝えました。メロディのパターンのセットから定形を選んでだいたいのものを作られると、何度も歌ってみて、ことばの抑揚を確かめます。 ジェシカ先生の作り方を見ながら、ビザンティン・チャントつまり正教会の聖歌がどんなに「言語」をベースにしているかを垣間見まることができました。
短い一週間の研修会でしたが、講義も実習も意欲的で喜びにあふれ、正教会の「伝統」とは表面的な「しきたり」や「慣習」で人を縛りつけ、凍らせてしまうような硬直したものではなく、人と教会を生かすものであることをあらためて実感しました。今回学んだことは、アメリカと日本での言語や事情の違いがあり、私たちの実情にそのまま適用できるものではありませんが、今後の活動への大きな励ましと指針になりました。
ワシントンの聖ニコラス大聖堂を訪ねて (準備中)
ポクロフスキーさん(準備中)