ウラディミル神学校夏期セミナー講演より

「新たなる世界」における伝統と変化
 
              Tradition and Change in the New World
――現代における奉神礼音楽の役割――

                The role of music in liturgy today

講演:マーク・ベイリー Mark Bailey

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正教徒は奉神礼に集まるたびに「新たなる世界」を祝う。祈願と讃揚の歌を歌うたびに救世主に出会う。主はご自身を顕され、天上の完全な存在を約束される。聖体礼儀のたびに、神の臨在と約束を味わいかいま見る。

本講演のタイトル「新たなる世界」はこのような神学的な意味に加え、私たちを取り囲む現実の世界の社会的文化的な外的条件によって新たな状況が生じてきたことも表している。新たな状況は奉神礼や音楽への扱いに影響を及ぼし、昔と異なる対応が求められる。特に奉神礼の中に矛盾や衝突を作らぬためにある種の調整が必要である。二つの条件として、確固たる基盤である「伝統」と、進歩的で確定されていない「変化」を提示する。正教会では、音楽は、ひとつの構成要素として独自に働いて高度に表現されるというより、奉神礼自体として「伝統」や「変化」を象徴する。

「新たなる世界」とは奉神礼体験の本質にかかわる大切な要素である。話を始めるにあたって、物質的な現実を越える「新たなる世界」の神学的意味について簡単に述べる。正教において、神学は奉神礼音楽の領域と矛盾したり価値を下げたりするものでなく、礼拝の中心にあって流れを創りだし、活力と表現を与える。神学に照らせば、今行われている奉神礼は固定的なものではない。奉神礼音楽を考えるとき、いずれの時代にも当てはまる普遍的な神学的原則を探った上で、現状を考察しなければならない。また、神学を学ぶことによって、ギリシア、ロシア、セルビア、グルジア、ルーマニア、アメリカなどという民族と結びついた音楽の表面的な違いを越えた普遍的な意味を知ることができる。奉神礼音楽は特定の民族伝統に応じて姿を変える乗り物である以前に、歌い方はどのようであっても、つまり単旋律(単音)でも、多声でも、旋律的、全音階的、半音階的であっても、どこで生まれた歌であっても、常に「神の臨在の前で歌う歌、神に捧げる時を越えた歌」である。

ヨハン・フォン・ガードナーによれば、
教会は時間を超越し時の外に存在し時間全体を包括する。聖歌も現在と関わりながら過去の伝統を守らねばならない。とりわけ聖歌の本質の中心である「奉神礼」から逸脱することは許されない。単純に審美的個人的主観的な目標追求の姿勢は避けねばならない。
(“Russian Church Singing”, vol.1, p13, J. V. Gardner, SVS)

奉神礼音楽がスラブ様式、ビザンティン様式、あるいはアメリカ様式として正統的かどうかを問う以前に、奉神礼の意味は「新たなる世界」を神学的に体験することにある。「新たなる世界」は様々な地方色時代色の反映した音楽内容で表されてきた。ガードナーは聖歌者と神学者が共同で、「伝統」と「変化」に関して有意義な論議を行うことを提唱した。

ここでは、奉神礼神学あるいは奉神礼そのものの観点から奉神礼音楽における「伝統」と「変化」の内容を考察し、双方が調和共存する方法を考え、実際に礼拝の音楽をどのように選び作曲し、神の前で神の民としてどのように歌うかを考える。

奉神礼は変化するか。

正教会の奉神礼は、何世紀もほとんど変わらないという話を聞く。ある意味ではそのとおりで、たとえば、奉神礼は一種のコミュニケーションであるが、300年前(奉神礼史においては古いとはいえないが)社会全般的なコミュニケーションの手段は顔と顔を合わせて、あるいは手紙であった。やがて電報、電話、ビデオカメラ、ビデオ会議、さらにコンピューターに電子メール、メール付き携帯電話など、さまざまテクノロジーの発展によって世界中と瞬時に交信できるようになった。これらの進歩によって社会的なコミュニケーション機能は劇的に変化した。しかし対照的に、奉神礼はその形においても原則においても、信徒が集まって顔と顔を合わせて、神とお互いがリアルタイムで話し歌うというコミュニケーション方法をとり、基本的には2000年前のクリスチャンと同じ方法である。この意味では奉神礼は何ら変わらない。
(余談)こんな想像をしてみると悪夢である。自分が聖堂で聖歌指揮をしている。そのとき、至聖所のポール神父から携帯メールで「もっとゆっくりしずかに」などという伝言が入ったら・・・(爆笑)。

音楽面でも確固とした形が保たれた。西の教会では楽器を導入し、器楽または器楽的な声楽分野において宗教音楽がどんどん発展したのに対し、東方教会では楽器はほとんど使用されなかった。この点でも東方の奉神礼は何ら変わらない。相対的、広義的に考えれば正教会の奉神礼は変化に抵抗してきたと言える。

しかし、礼拝の内容を調べると、大きな変化があった。たとえば、4世紀の『エゲリアの日記』*から当時のエルサレムでの晩課の聖入についての記述や、『使徒憲章』Apostolic Constitutionの記述を見ると、各都市間の違い以上に、現行の晩課の聖入との違いが大きい。今日、「平日晩課」では聖入自体が行われなくなった。
*(参考)スペインの修道女エゲリアがエルサレムに巡礼したとき見聞きした記録。(『エゲリア巡礼記』太田強正、サンパウロ

晩課そのものが様々な進化と再構成の過程を経てきた。ことにコンスタンティノープルの大聖堂と修道院における奉事の実践を当時のティピコン(奉事規程)から比較すると(後には両方が混合する)、当時の晩課は今日の実践と大きく異なる。たとえば、1000年ごろまでは、晩課は毎日行われ、8つのアンティフォンに続いて晩課の聖入があり、3つのアンティフォンと「神の独生の子」と聖三祝文がプロキメンと聖書の読みの間に行われていた。
(参考文献:”Evening Worship”, Uspensky, SVS)

音楽面でも大きな変化があった。一例をあげれば、ロシアでは988年のキエフ・ルーシの受洗後、ビザンティン・チャントを模倣していたが、次第にロシア独自の単旋律(単音)の新しいシステム、ズナメニー・チャントが発展した。さらにスラブ人は西洋の手法を取り入れ、パート歌唱(part-singing)を始め、固有の多声合唱を創りだした。複雑な合唱アンセムの形に発展し、古代のチャントに二声あるいはそれ以上の声部を加え、独自の和声化多声化を進めた。音楽要素はビザンティンの直接の後継とされるズナメニー・チャント以降、大きく変化した。それぞれの教会に異なる音楽があり、特に今日スラブ系教会の音楽はビザンティンから取り入れたものとは随分異なるものになった。
従って、大きく概観すれば奉神礼は変化しなかったが、内容を細かくを見れば、世代から世代へと受け渡される体験は「変化」してきた。奉神礼も生活も変化するのは自然なことであろう。奉神礼は教会として発展し、人間の状況も変わった。発展と変化は同時である。

奉神礼と適応

地域や状況に応じて起こった発展変化が奉神礼そのものが持つ適応力によるもので、音楽もそれに伴って変化したと見るなら、「変化」は問題を生じない。奉神礼学者のアントン・バウムシュタルクの考察を見てみよう。

時代や場所の具体的な状況と結びつくのは奉神礼の本質である。奉神礼的な大きな領域はすぐに、小さな区域に分かれ始める。奉神礼の形は地域的な必要に応じて調整される。(Taft 168)

音楽的あるいは他の面でも、奉神礼はある教会から次の教会へ、世代から世代へとそっくりそのままコピーされるのではなく、祈りに集まる人々の心に届くように内面的な適応が起こる。

しかし外的な要因から起こる変化や適応によって奉神礼的なジレンマが生じるときや、奉神礼的に見ると逆行となるものは問題である。たとえば、ビザンティンでは晩課(聖入)は毎日行われていた*。今のように週一回土曜日だけ、あるいは大祭の前日だけに行われるものでなかった。
*訳注 当時は晩課に続いて、聖体礼儀が行われていた。

聖大ワシリーのことばを見ると、
一日が終わると、その日に与えられたものと私たちが行った義の行いに対して感謝を捧げ、過ちについて悔い改めを行わねばならない。

金口イオアンも、
畏れをもって仕事へゆき一日をすごし、夕方ここへ戻り、主宰に一日を感謝し、過ちを謝罪する。毎晩すべての過ちに対して主の赦しを乞わねばならない。夜を平静に過ごし、朝の讃美へと備える。

キリスト教徒の生活は毎夕集まって祈りを捧げ、日没の度に感謝と赦罪を行った。晩の集まりで、信者の道を照らし、闇から解放する光、超越的な光なしには信徒の見ることのできないものとしてハリストスを記憶し讃美を歌う。ここにキリスト教の最も力強いメタファーがある。

しかしながら、私たちの文化は大きく変化し、多くの正教会において(少なくとも米国の正教会において)、晩課は毎日行われなくなった。信徒たちは仕事に忙しく、「日暮れ」に意味も見いださず、夜間残業に明け暮れる。毎日の晩課は正教会の「伝統」と考えられなくなり、週末や祭日だけに行うようになったことを文化的な変化と片づけてしまう。(まったく晩課が行われていない教会すらあるのだ。)こういう「変化」は伝統に逆行した退化といえる。

奉神礼上の「変化」すべてが伝統に逆行するわけではないが、ある音楽付けが「伝統」対「変化」の論争になってしまうことがある。このような論議の多くは、歴史的な要因や実際の音楽機能が争点になるより、文化的な偏向や個人的な好みに左右されている。奉神礼の実践を悪化させる「変化」と、奉神礼を進化させ世代から次の世代へ有機的に成長させる「変化」とを区別して考えなければならない。「変化」それ自体に良否はない。それが肯定的か否定的かは奉神礼のコンテキストのなかで考えねばならない。

変化の根拠としての奉神礼

「伝統」と「変化」のバランスを保つ神学は、別の意味で「変化」について言及する。奉神礼が私たちを変え、私たちが変われば、奉神礼も変わる。変化は有機的で気づかれないことが多いが、重要である。奉神礼体験の神学的意味は私たちをハリストスとその福音のメッセージに向かわせることにある。エイダン・カヴァナーの一節を見てみよう。

奉神礼は、臨在し記憶される神の住まう場所、神と出会う場所である。奉神礼そのものが考え始め、集まりに対して語りかけ始める。外的な感覚や、可聴的な音ではなく、内的な流れと勢いによって、全体が音楽に変わる。やがて力強い川の流れは石を削り、動きは方角を作る。奉神礼的礼拝の流れ自体の法則によって、カデンツ(抑揚)、リズム、その他の形式が作られる。

奉神礼的な働きの結果、単なる「解釈」以上の反応が現実に起こる。この反応の小さな流れは現世の地平と地域的な集まりとしての境界を越え世界にあふれ出す。奉神礼を行う集まりを変え、越える。集まりは変化に適合し以前とは異なるものになる。だから奉神礼を以前と比較すれば全く同じではない。

神学的にいえば、礼拝における音楽は通常の音楽とは別のレベルに顕れる。奉神礼音楽は本来、聖なるテキストをひとつの動作やフレーズから次のものへと動かす音楽的作用がある。しかし音楽は礼拝が実在的に働くように、奉神礼的な抑揚(カデンツ)のより大きな力強い形の表現となる。神のダイナミックな臨在の前で、神を崇める者を実際に変化させる。音楽は奉神礼に共鳴しその固有の流れと力の一部となる。

さて音楽は、信者の集まりにおいて奉神礼の鼓動が拍を打ち続けるために、どのように変化適合するのだろうか。奉神礼において、聖歌者は共同の祈りとしての拍動に最大の注意を払い、一体にならなければならない。奉神礼のその場その時に適宜に歌わねばならない。奉神礼以外の時間に予行演習のようにすべてを行ってみることではない。聖歌練習は技術的に障害になる音、リズム、発音、発声などの問題を取り除くことにある。音楽は奉神礼の中において真に生きる。音楽をどう演じるかを練習することではできない。

(談)音楽主任のデヴィッド・ドゥリロック教授が口癖のように言う。「教会の拍動と祈りを予め想定することはできない。聖歌は、その時応えなければならない。」

カヴァナーの説をさらに推し進めると、神学的変化が起こるためには集まり全体が単なる出席者や表面的な傍聴者ではなく奉神礼に実際に関わり参加することが重要である。私は日頃から会衆唱を積極的に提唱しているが、単純に会衆全員が歌うことを意味するのではない。教会の集まりは常に心で歌い、音楽は耳とたましいを浄め、礼拝の自然な鼓動や流れとなって表れ、共鳴する。参祷者はぼんやりと立っているのではなく、心で歌い、かかわり、参加する。カヴァナーは会衆の奉神礼への参加を妨げるような変化は避けねばならないと述べている。極端に言えば聖歌によって会衆を祈りに引き込むことも可能だが、閉め出すことも可能である。

奉神礼などの儀式的なシステムは変化するものだが、奉神礼を実際に構成し用いる人々によって長い期間をかけて生じた結果が、ふさわしい変化と言える。参加者自身の中で起こる変化は、参加意識を高め、変化したのはほとんど感じられない。あまりに急激で多大な外的変化は抵抗を受ける。

奉神礼においても音楽面でも、いかに正当な変化であっても、教会の集まりにショックをおこしてはならない。たとえばOCA(アメリカ正教会)では聖体機密(領聖)の重要性が強調されてきたので、今では大半の信徒が毎週あるいは頻繁に領聖する。それは古代教会では当然のことだった。そこで次に信者も「安和の接吻」をしようではないかという動きが起こった。なぜ安和の接吻が必要かというと、領聖するためには、まず赦し和解することが絶対必要で、奉神礼的な赦しと和解の儀式なしに聖体機密への参加することは、領聖が一致した集まり、ハリストスの体としてではなく、寄せ集めの集団の中で個人が行うことと理解され、聖体機密が共同の儀式ではなく個人的なものと理解される危険があるからである。安和の接吻は義務ではないが、共同の自覚へ促す意味がある。しかしOCAの府主教が次の聖体礼儀から安和の接吻を突然復活させたら、信徒はびっくり仰天して奉神礼への参加そのものが危うくなるだろう。古代の正教会で行われていたことで神学的に正しいことでも、突然の導入は本来の意図とは反対の結果をもたらす。分別を持って、祈りのコミュニティを危機に陥れることのないようにしなければならない。

同じことが聖歌にも言える。仮に19世紀のオビホードスタイルで歌っているスラブの伝統をもつ教区で、聖歌指揮者がシラビック*あるいはネウマティク*な古代ビザンティンの単線律チャントを取り入れようと思ったとする。実際、四声パート全部が揃わないとき、歌いやすいメロディを用いて、アンティフォンなどの対話的会衆唱を進める場合に大変有効な方法である。しかし参祷者の耳の音楽的、奉神礼的、審美的な許容能力を超えて違和感があるとき、あるいはその音楽への嫌悪感から奉神礼から離れさせてしまうようなら、チャントを取り入れた理由は水泡に帰す。オビホードのハーモニーと旋法的なチャントの間には多くの段階があるので、あるスタイルから次へ進む場合は、奉神礼的な構成要素をこわさないように、辛抱強く一歩一歩慎重にすすめなければならない。
(訳注)オビホード、『ロシア標準聖歌集』1869年に帝政ロシアの宮廷音楽家のリヴォフとその後継者バフメテフの指導で作られた4声パート譜の聖歌集。勅令で全ロシアの教会はこれに従って歌うことを強制された。当時ペテルブルグで一般的に歌われていたチャントを単純に和声化したが、その過程で伝統のチャントを歪めたこと、ボーイソプラノのための編曲であるために女声には歌いにくいことなど問題があったが、日本も含め多くのスラブ系教会聖歌の原本になっている。
(訳注)シラビック:チャントの歌い方で、歌詞の一音節に一音を当てはめる。ネウマティク:一音節に二、三音を当てはめる。いずれも大変シンプルな歌い方。

会衆がショックを受け、参祷できなくなってしまうことのないように、漸次的変化を考えねばならない。カヴァナーは教区司祭と聖歌指揮者に次のようなアドバイスを与える。

司牧者として二つの知識が必要である。第一に奉神礼そのものに関する知識、第二に礼拝する集団の状態に関する知識である。実際には、この二つは実はひとつである。地域的な嗜好から愚かさへと堕落しないために、教会が過去においてどのように礼拝してきたか、今どう礼拝すべきかはっきりと公正かつ客観的に知らねばならない。

(談)ドゥリロック教授ほど深く理解している人はいないだろう。この教会の礼拝に来てみれば、彼がどれほど奉神礼とそのコミュニティを理解しているかわかる。司牧者としての視点は何かを変えていこうとするとき大変重要である。


地域的あるいは全国的に、奉神礼や音楽の変化を勧めるときには繊細な心遣いが必要である。ある教区の礼拝の方法が教会全体から見て違反であるかどうかではなく、ある実践や歌い方が奉神礼の原則に照らして不適当かどうかを問題にしなければならない。大変な努力と理解を必要とする。

奉神礼の要素としての伝統


正教会では「伝統」をかなり漠然と用いており、スタイル、習慣、きまり、好み、範疇、ジャンルなどを示し、その場その場で定義がまちまちである。大文字のTradition(普遍的に認められている奉神礼の原則と理論、聖伝)と小文字のtradition(地域的な慣習やしきたり)の区別が曖昧である。多くの地域で行われているからと言って大文字のTraditionであるとは言えない。一部の教会で行われているだけで、世界的に認められていなくても奉神礼にふさわしい手法もあるし、広く一般的に行われていても無知と偏向によって奉神礼の精神を裏切っているものもある。それを区別してゆかねばならない。

ヤロスラフ・ペリカン教授の有名なことばを引用すると、「伝統とはすでに永眠した者たちが過去につちかった『生きた信仰』である。伝統主義は今生きている者の『死んだ信仰』である」。伝統はその時代における生きた信仰の歴史の積み重ねであるが、過去にとらわれて消極的に受動していくことは信仰を死に至らしめる。奉神礼の伝統とは、ある伝統の中にある普遍的な「公理」を意識的に見いだし受け入れることである。伝統主義とは、何も考えずに盲従し繰り返することである。ペリカン教授は信徒特に司牧者は伝統の意味することを正しく理解し、どの奉神礼の原則や教えが普遍的なものかをしっかりつかむように求める。さらに重要なことは、私たちが「公理」と考えるものは、具体的に奉神礼に対して働きかける非成文法のようなもので、繰り返し行われてきた伝統の中に存在する。

奉神礼の伝統と奉神礼音楽

奉神礼学者あるいは奉神礼音楽家は、実際に奉神礼において何を、なぜ、どのように行うかを知るために論議しなければならない。漠然と、「ビザンティンの伝統」、「スラブの伝統」などといったスタイルやカテゴリーに分けるのではない。普遍的な奉神礼の原則は参祷者が奉神礼に「共同的」に参加することにある。それに支えられて、特別の役割や機能を負う司祭や奉神礼音楽家には聖なる集まりとして信徒がどのように参加し経験するかという重大な決断が委ねられている。奉神礼の本質的構造的な特徴はそこにある。

伝統と習慣

一般的に「伝統」と奉神礼伝統の「公理」を区別したが、次に「伝統」と「習慣」を区別する。奉神礼の伝統は習慣として始まるが、すべての習慣が伝統になるわけでなない。理論的には習慣は奉神礼上の必要や要請があってそれに対する応答として作られる。たとえばある動作に伴って歌が歌われる。何度も歌われるうちに歌と動作が一体となり、奉神礼的原則に適合するかどうかが明らかになり奉神礼の伝統が生まれる。

例を挙げる。「聖なる神」は、埋葬式や聖大金曜日に、信徒が行進しながら厳粛に歌う。「伝統」によって厳粛に歌うように指示され、音楽や歌い方、行進の動作を決まる。人々は音楽の様式にのっとって一歩一歩厳粛に歩き、音楽は奉神礼の様式にのっとって動き歌われる。
歴史的にもこの「伝統」は確証されている。「聖なる神」は古代教会ではコンスタンティノープル市内を行進するときに歌われた厳粛な歌である。古代の儀式をみると、「聖なる神」はもともと聖詠の数句をはさんで、アンティフォン=応答形式で歌われた。この名残は今日の主教聖体礼儀に見られ、主教が「神よ、天より臨み見て、この葡萄園に降り、爾の右の手の植え付けしものを固め給へ」(79聖詠:18)と唱える。事実、かつては79聖詠から数句が選ばれて歌われていた。今日ではほとんど句は省略されている。(参考資料:古代の歌い方)「聖なる神」は元来の形から変化した。歴史的な検証によって、実際に聖詠の句を復活させることも可能かもしれないが、明らかなのは「聖なる神」を歌いながら信徒が厳粛に行進していたことである。実際にどんな歌がふさわしいか実験してみよう。

(例)「聖なる神Trisagion」のオビホードのものplain chant♪ケヴィン・スミスによる曲付けKevin Smith♪を実際に歩きながら歌ってみる。会衆が覚えやすく歌いやすいもの、行進するときにふさわしい音楽はどちらか。同じ音の続きリズムのとりにくいオビホードのものは「歩く」ことが意識されていない。ケヴィンのものは、単純なメロディの繰り返しだが、体がリズムに乗って歩きやすい。
***音声ファイルはMP3です。Quick Timeで聞くことができます。(無償ダウンロードへ)***

別の例をあげる。晩課の聖入は明かりを灯す歌(140聖詠など)の時に行われ、最後に「聖にして福たる」を歌った。この歌の起源は大変古く遅くとも聖大ワシリーの頃(4世紀)には歌われていた。はっきりした年代はわからないが、後に晩課に取り入れられ聖職者が至聖所に入るときに歌われるようになった。歌と動作が奉神礼的に統合されて、歌詞とともに動作によって、伝統の「公理」を表すようになった。「我等日の入りに至り、晩の光を見て、神、父と子と聖神を歌ふ」また、「福たる」光、「穏やかなる」光はハリストスが光であること、ハリストスなしに私たちは闇にあり盲目であるという深いメタファーが表され、歌われる奉神礼の時間ともリンクしている。奉神礼的な動作と聖歌は繰り返し行われることで、そこに含まれる深い意味を明かし信者を変容する。動作が歌われることで明かな啓示が与えられる。これもまた「伝統」の働きである。

さらに、「聖にして福たる」は荘厳ではあるが、悲しみのない行進として歌われ、すべての信徒が歌に参加していた。前述した「聖なる神」と同様である。「聖にして福たる」が全員で歌われていたことは歌詞からも明らかである。信徒の集まりを主体として「我等」という一人称複数で書かれ、夕べの光とハリストスとの比喩的な関係への会衆の応答の声と動作を念頭に置いている。(「我等」が日の入りにやって来て、「我等」が晩の光を見て、「我等」が神に歌う)信徒は聴いていたのではなく、声を出して参加していた。歴史的にもこの伝統は証明されている。少なくともふたつの古代シナイ写本において、(修道院と歌課*の混合として)、チャンター(先導者)のソロではなく会衆が「聖にして福たる」を歌っていた。この歌はすべての晩課の集まりで繰り返されていた。全会衆が歌うことに何も実際的な障害はない。しばらく前まで、どこの教会でも行われていた。
   *訳注:歌課、song office。ビザンティンの大聖堂教会で行われていた歌を多く含む礼拝。

(例)「聖にして福たるGladsome light」をオビホードによるものplain chant♪と、ビザンティン・チャントのものByzantine chant♪を歌ってみる。会衆全員が歌いやすいのはどちらか、聖職者の行進を促すものとしてはどちらがふさわしいかを考える。

次に、この歌のある特殊な歌い方が奉神礼的伝統であったか、単なる習慣であったかを検証してみよう。1715年の主の変容聖堂のティピコンには、まず輔祭が最初の行を唱え、続く各行を八調の異なる各調で歌ったとある。この伝統手法が特別に意味のある歌い方であったかどうか試してみよう。しかし今一般的に用いられているスラブ教会のオビホードの八調では難しい。もし、オビホード以前の古いチャントを用いて歌ってみるなら、異なる調から取られたメロディの核が互いにぴったりと接ぎ合わされ、独特の豪華なそして結合力のある「聖にして福たる」を作り出すだろう。チャントには各調にはメロディの核が配されており、各行を異なる調で歌うことは八つの調べを旅するように変化に富んだものであったろう。ところが同じことを和声化したオビホードでやろうとすると、(オビホードは今では時代錯誤だと理解されているが)テキストごとに音をとり、和音を変え、キーを取り直すことになり、珍妙な音の寄せ集めになってしまって聞くに堪えない。オビホードのシステムは伝統的なパッチワークを不可能にしてしまった。もし各行を異なる調で歌うことに確かな意味があるとするなら努力の価値がある。逆にただの一時的な特定の地域の慣習で、奉神礼の伝統の基盤に抵触しないなら別のスタイルを選択すればよい。さらなる検証が必要である。

奉神礼の伝統と慣習の違いを疑ってみることが必要である。前述したように。晩課の聖入は(正しくは古代の大聖堂の大晩課の聖入)はドグマティコン(旧約のイメージとハリストスの藉身、生神女の処女性などが歌われる)が歌われている間に行われる。音楽は荘厳な晩の行進を装飾し、聖入の時間を十分とるために長いメロディが用いられる。ところが、平日、聖入が行われないにもかかわらず長々と行進のドグマティコンが歌われることがあるが奉神礼的に不調和である。聖入が行われるなら聖入の音楽を歌い、聖入がないならよりシンプルなスタイルで歌えばよい。

(談)ある小さな教会で4分以上もかかる長いドグマティコンが歌われていた。教会が小さいので移動は10秒で終わってしまい、神品は歌の残りの4分間王門前で待たされていた。聖堂の大きさにも配慮が必要である。


伝統としての複雑な論点

奉神礼的な伝統を理解することとは、ふさわしい音楽付けや歌い方を見いだすことで、奉神礼の動作と一致して初めて理に適ったものとなる。客観的合理的に検証することによって、感傷あるいは無知による問題に光をあてることができる。
たとえば、特にスラブ系の教会で聖歌隊はバルコニーで歌うという主張があるが、バルコニーは正教会の奉神礼の伝統ではない。
バルコニーの聖歌隊席は16世紀末から17世紀初頭にかけてリヴォフ、キエフ、ルトゥスクなど南西ロシアにおいて正教会の修道士団によって作られた。これらの修道士団は、ポーランド・リトアニア公国とローマ・カトリックの影響と政治的コントロールに抵抗して、「正教会のメンバー」を兄弟愛によって固く結びついた同盟にしようと考えた。修道士団は学問、慈善活動、文化活動の中心になり、特に音楽と少年合唱教育の中心になった。この地域では西洋音楽の音楽スタイルが次第に正教会の中でも一般的になっていた。修道士団は西洋からのよく知られたメロディを使い、歌詞は正教会の教義を歌ったテキストを用いる策をとり、新しい半奉神礼的なメロディを作りだした。これらの耳障りのよい和声的音楽は詩の節を音楽的なパターンにあてはめてあり、歌いやすく覚えやすかった。
修道士団は西ヨーロッパの習慣を借りて聖歌隊のバルコニーを教会に設けた。八調のメロディパターンを歌える少数の経験を積んだチャンター(聖歌先導者)がクリロス(イコノスタスの前の教衆席)に残り、調のメロディと奉事規程を監督し、合唱アンサンブルが西門の上のバルコニーで常に変わらない歌(通常部聖歌)*を歌った。伝統的な方法を退け、クリロスで奉仕する能力はないが声のよい若い歌い手の声と合唱技術を披露することになった。会衆唱に満ちていた聖堂は美しい合唱アンサンブルに取って代わられた。意図的にクリロスと会衆の間に音楽的な新しいレベルを挿入し奉神礼に不吉な影をもたらした。
*訳注:正教会の聖歌は枠組みとなる「常に変わらない歌」の間に、日替わりの歌を挿入して構成される。伝統的には、日替わりの歌はその日の特徴を表すので、より目立つ歌い方で歌われるべきだが、合唱アンサンブルが導入されたことで、常に変わらない歌の方が華やかな音楽付けとなり、奉神礼的効果が逆転してしまった。

ウラディミル・モロザンは次のように要約する。
聖歌者の位置の変化は伝統的な正教会聖歌の機能理解から大きく離反した。聖歌者が教会前方のクリロスにいる限り、聖歌は奉神礼を行う聖職者と共に働く機能を果たしていた。しかし合唱アンサンブルがバルコニーに上ると、単に祈祷に付随し装飾する音楽へと役割が変わってしまった。考え方の変化はまずローマ・カトリックの影響を受けた南西ロシア(ウクライナ)に始まり、後にロシア聖歌全体の性格を変えてしまった。“Choral Performance of Pre-revolutional Russia”, Vladimir Morosan Musica Russica

奉神礼の「公理」に従えば、選ばれた歌い手は至聖所の動きと意識的無意識的にリンクした方法で会衆に働きかけた。聖歌者の役割は祈祷文を歌の形に高めて会衆に運び、会衆からの応答を導き、常に変わらない歌をリードして会衆と一緒に歌うことにあった。理論的にも物質的にも、至聖所と会衆にも隣り合うことを意味する。逆に聖歌隊をバルコニーに上げて距離を作ることで聖歌は付加的なものとなり奉神礼の装飾になってしまった。経験ある聖歌者がクリロスで歌い、聖歌隊が常に変わらない歌、「聖にして福たる」「シメオン祝文」「天主経」などと大祭のトロパリなどを歌うようになり、クリロスからもっと効果的に導かれていた会衆唱の伝統は減少した。クリロスからの指示そのものが伝統であった。連祷や聖詠のアンティフォンで会衆が声を出して参加していたのは言うまでもない。教会の後ろで聖歌隊がミニコンサートを行うことは正教会本来の伝統ではない。バルコニーはいまや正教会の習慣になってしまったが、奉神礼の伝統としてその存在を正当化することはできない。

結論:三つの論点

結論として、次の三点を考える。
第一に「変化」は伝統の一つの要素である。奉神礼的な要請への応え、ある状況への反応として、ある実践が始まり、それは「変化」となる、その実践が奉神礼的な「公理」でありうれば、時を経て伝統となる。伝統は多くの教会や地域において実践され、その時代その地域の人に理解される形に変化する。応答的な聖詠唱(詩篇唱)は、聖詠の「句」とリフレインを会話的に歌うという伝統の手法を用いながら、様々な音楽的スタイルで歌うことができる。
第二に、伝統は「変化」を必要とする。「新たなる世界」は信徒が礼拝に集まるたびに実現するという神学的な理解から論を進めてきたが、「新たなる世界」には、とくにアメリカにおいては奉神礼音楽家にとってさらに実践的な意味がある。この国には様々な正教会の奉神礼の伝統が並立して存在する。これらの異なるコミュニティは一つの信仰にもとづいて、頻繁に交流するようになってきた。ロシアの四声の和声的合唱曲で礼拝してきた正教徒が、ビザンティンの旋法的チャントを、正教会の理に適った伝道力のあるものとして経験することができる。
この先例のない素晴らしい状況は困惑という面もあるかもしれない。各正教会のさまざまなスタイルは、今まで歌ってきたという歴史的価値だけだろうか。既に確立された習慣と、新しいスタイルのどちらを選択するか、どんな助言が得られるだろうか。教会が何らかの変化をするとき、今までのスタイルと違う音楽をレパートリーに加えようとするとき、どんな歌を選ぶかだけではなく、どんな歌い方をするか、たとえば、行進で、応答で、祭的に華やかに、速く、ゆっくり、力強く、優しくなどを考え、どのように進めていくかを考えるとき、正教の長い伝統に照らし合わせて見よう。

第三に、本当の奉神礼の伝統と呼びうるものは普遍的に変わらない「公理」であることを提言し強調する。その「伝統」がどのように行われ繰り返され実践されてきたかを検証することによって、そこには万民の認める明白な「原則」が見いだされ、私たちがどのように礼拝を形作り表現すべきかが導かれる。「公理」は生かされる。「公理」は動作や音楽と共鳴して現実化し、それが伝統を活かすことになる。たとえば、信者が「句」とリフレインを通して活発な会話を交わす会話的な歌い方は、行われて初めて礼拝の生きた次元を表現することができる。音楽的な内容は、その集まりのエートスや傾向によって多くの音楽スタイルや形式をとることができる。しかしこの誰でも歌えるリフレインをコンサート化した音楽付けにして、「句」がわからなくなるほどゴテゴテに飾り立てたら、「公理」は死んでしまう。

最後に、奉神礼の「伝統」において、音楽は礼拝の本質的かつ不可欠な要素で、奉神礼的動作と一体化して働き、耳に聞こえる表現を用いて信者の信仰宣言となる。礼拝は時代を越えて変わらぬ「原則」に照らされて、動作と儀式によって呼吸と表現を与えられ、いのちを得る。奉神礼は歌われるのでなく、歌そのものが奉神礼である。その真の意味をつかみ積極的に行う時、いのちを変容する奉神礼の場において、「新たなる世界」は力強く体験される。
聖三祝文の歌い方――現在との比較

聖三祝文は、主教と参祷者全員がコンスタンティノープル市中を練り歩いた後、聖堂に入ってゆくときの、文字通り「聖入」の歌だった。

聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ。
聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ。
聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ。

チャンターが3回繰り返す。
会衆が3回繰り返す。
聖詠が一句ずつ読まれ、そのたびに会衆はリフレイン「聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ」を繰り返す。
光栄は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々にアミン。
聖詠の終わりを表すために「光栄は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々にアミン」を歌う。
聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ。
会衆はリフレイン「聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ」
聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ、我等を憐れめよ。
もう一度チャンターが3回繰り返す。
会衆が3回繰り返す。
この時、主教はソレヤに上がり、聖書の読みのために立つ。
会衆は教会の中に集合する。

主教は会衆を祝福し、聖書の読みが始まる。

このページはウラディミル神学校の聖歌講師マーク・ベイリー氏のご厚意で翻訳の許可を頂きました。