克肖者 奇蹟者 聖セラフィム 
    列聖百年記念祭に参加して

                       司祭 パウェル 及川 信 

 いまから百年前の1903年8月1日、聖人の列に加えられた、聖セラフィム(1759〜1833年)の列聖百年記念祭が、ロシアのサーロフおよびディエーエヴォにおいて、7月30日〜8月1日にかけて挙行された。
 日本からの代表団は、セラフィム辻永主教座下(宮城県仙台市)を団長に、通訳のイオアン長屋神父(駐日ロシア正教会)、随行にパウエル及川神父の三名が出席した。キリスト教が少数派の日本では想像もつかないだろうが、文字通りに国家をあげての祝典・祭典であった。
 会場はモスクワから東へ約750キロ。モスクワからの特別列車による鉄道の旅行でも10時間かかる、辺鄙なロシアの農村である。
 聖セラフィムは、ロシアでは聖セルギイと人気を二分する有名な聖人である。長老(スターレッツ)としては、あの有名なオプチナの長老たちの先駆者にあたる。聖人の言行録は英語・仏語・独語・ギリシャ語等世界の各国語に翻訳・刊行されており、世界的にもよく知られている。
 このため、記念祭には、コンスタンティノープル・アレキサンドリア・アンティオケア・エルサレムの各総主教座はじめ、セルビアの総主教、アメリカの府主教、アルバニア、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、南アフリカ、キプロス、ポーランド、グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャンなど各地の主教や代表約70人。ロシアからは、アレクセイ二世総主教はじめ主教約30人、数えきれないほどの司祭・修道士・修道女。祭典の数日間には十万人をこえる信者が参祷した。
 記念祭は7月29日から執り行われていたが、私たちは30日から参加した。 
 日程の概略は次の通りである。

7月29日 
 聖セラフィムの不朽体を納めた聖櫃(ラーカ)をディエーエヴォからサーロフの新聖堂へ遷座(約19キロを十字行)。夕方には晩祷が行われた。

30日
 新装された聖セラフィム聖堂の成聖祈祷。聖体礼儀。聖堂内部には聖人の暮らしたケリ(小屋・庵)が再建されていた。晩祷。

31日
 聖体礼儀。聖人の不朽体をサーロフからディエーエヴォへ移す十字行が行われた。不朽体を納めた聖櫃はもともとディエーエヴォ女子修道院の聖堂に安置されている。十字行の冒頭、プーチン大統領の祝辞。夕方ディエーエヴォに聖櫃着、晩祷。

8月1日
 ディエーエヴォ女子修道院の特設ステージにおいて聖体礼儀。昨晩同様に境内は信者の人波に埋まり、境内に入りきれない人々が周辺の路上にあふれていた。

 祭典のプログラムは、百年前の列聖式を再現するかのような印象を受ける。ディエーエヴォ女子修道院の周囲には出店(屋台)もあり、縁日、お祭りのようであった。以下、印象に残った点をいくつかあげる。

一、各総主教座からの代表団の出席。主教たちばかりでなく、欧米からも多数の信者が参集した。世界各国の正教会の交流と親睦が深まったばかりでなく、ロシア正教会の立場を強固に押し上げる意味があったと思う。それにふさわしい接待・歓迎ぶりであり、非常に行き届いた配慮を感じた。
二、プーチン大統領の参列。かつて「宗教と無神論博物館(宗教史博物館)」で聖人の不朽体を調査させた共産主義政府時代とは異なり、政府と教会、国民と教会の親密さを感じさせた。また帝政時代のような聖務会院(宗務院)の管理・統制下に置かれた、国家機関としての教会ではないことも体験できた。
三、各地の聖堂、修道院復興の速さ。どこも美しく、清楚に整備されていた。聖像・聖器物もすばらしく、聖像画家や職人が順調に育っていることがわかる。
四、巡礼の町の復興へ向けて。ディエーエヴォ女子修道院では聖堂や居住棟、境内の整備が進んでいた。ソ連時代に女子修道院の敷地内には畑や家屋が建ち、修道院の往時の規模と面影は失われていた。その復興には目を見張るものがある。巡礼者のための宿舎などが整備され、巡礼の町が甦る日も近いだろう。
五、特別列車。アレクセイ二世総主教はじめロシアの主教・随行者、海外からの来賓の主教・随行者らが乗った特別列車(二十両編成)の側面には双頭の鷲の紋章や聖像(イコン)がはめこまれていた。うち一台は聖堂列車(内部が小聖堂)であった。
六、まさに御行幸のお召し列車。往復路のすべての駅や踏切には、駅員・警官・兵士・踏切の番人らが警備のために立っていた。そればかりではない。総主教乗車を知った信者たちが、列車の通過時間に合わせて、線路沿いに立ち見送っていた。総主教、そしてロシア正教会の占めている大きさが垣間見えた。
七、厳戒態勢。この数日間、警察・軍隊が警備のために総動員され、ニジニー・ノヴゴロド州は、史上空前の厳戒態勢を敷いた、とテレビで放送していた通りあった。サーロフでは厳しい検問があり、爆発物探知犬が活躍していた。
八、テレビでは連夜、この祭典の特別番組が放送されていた。
九、サーロフの町に正教会の関係者が多数入ったこと。ここ数十年、サーロフは関係者以外立ち入り禁止の町であった。なぜか。サーロフが軍事関連の町、一説では、ミサイル兵器・核兵器関連施設の町だからであった。聞くところによるとオプチナ近郊にもそういう軍事施設があるという。

 悲惨な戦争で使用され、たくさんの人を殺傷する大量殺戮兵器に関係する町に、生命を守り育て、愛と慈しみをもたらす聖人を記念する聖堂が建設された。これまで正教会の関係者がほとんど入れなかった軍事の町に、国内ばかりでなく海外の信仰者、マスコミがこれほどまでに数多く入ったことはなかったであろう。
 聖人は、たんなる象徴でも時代の記念品でもない。時空間を超越する存在なのだということを痛感した。聖セラフィムは、人々に神の存在を知らせ、生と死の意味を示唆し、生きることの素晴らしさ、生命の尊厳を身をもって伝えているのである。
 サーロフは、ある意味では、死の町から生命の町へと復活したのである。そしてひとりの聖人がもたらした波紋は、このちいさな町から全世界へと波及しつづけているのである。

 1917年のロシア革命・ソビエト連邦成立後、ロシア正教会は烈しい迫害を受け、サーロフそしてディエーエヴォの各修道院は閉鎖されたりした。そして今から約十二年前、共産主義国ソ連は、自由な資本主義国ロシアへと変貌した。ゴルバチョフ・エリツィン・プーチンといった歴代のロシアの指導者らは、正教会への信仰を明白に宣言して今日に至っている。
 こうした激動の百年のあとも、聖セラフィムの優しい笑顔は変わらずに、ロシアばかりでなく世界中の人々を慰撫し、魅了しつづけているのである。

 華やかな式典に向かう日、7月29日朝。辻永主教座下と共に、ダニーロフ修道院の聖体礼儀に参祷した。聖堂では、白髪で高齢のセルビアの総主教が、たった一人で聖体礼儀を執行していた。その姿に深い感銘を受けた。8月3日(日)には、同じくダニーロフ修道院の聖堂で修道司祭のニコライ神父と二人で主日聖体礼儀を行う機会に恵まれた。それは静謐な、心温まる祈祷であった。
 正教会の内蔵している「躍動」と「静寂」を体験できたことは、一生忘れられない記憶となることだろう。
 こうした世紀に架け橋をわたす歴史的な場に参加させていただき、心からの喜びと感動とを覚えます。ありがとうございました。〈参考書 『ロシア正教会と聖セラフィム』サンパウロ〉