初代「京都の主教」聖アンドロニク聖像完成
京都正教会・生神女福音聖堂成聖(献堂)百周年記念事業の一環として、2003年夏ロシアに製作依頼した「初代『京都の主教』・聖アンドロニク」の聖像が完成し、2004年2月に京都に到着した。
京都ハリストス正教会・生神女福音聖堂は、2003年5月で亜使徒・聖ニコライ司祷による聖堂成聖(献堂式)から満百周年を迎えた。京都正教会では、この聖堂成聖百周年を迎えるにあたり、1999年に聖堂修復工事、2002年には信徒会館修理工事を実施してきた。その百周年記念事業の一環として、1906年に初代「京都の主教」となった聖アンドロニクの聖像製作を、ロシア正教会・モスクワ神学アカデミヤ聖像専攻課程で講師を務めるワレンチナ・グラゾフスカヤ女史に依頼したもの。
聖アンドロニク主教は日本からロシアへ帰国して十年後、ロシア革命で宗教弾圧が激化する中にあって、教会財産の没収合法化に公然と抗議。軟禁生活の後、1918年6月、ボリシェヴィキの秘密警察(チェカー)によって森の中に連れ出され、自ら掘らされた墓穴に生き埋めにされ、その上から銃で撃たれて致命(殉教)した。
2000年8月のロシア正教会「救主降誕二千年記念公会」で、他の数百名と共に「新致命(殉教)者」として聖人の列に加えられた。(列聖時の正式な呼称は、「神品致命者・ペルミの大主教・聖アンドロニク」。)
通例は、この聖人列聖式に際して基本となる聖像と祈祷文が示される。しかし、新致命者は数百名に及ぶためか、列聖式では、多くの聖人が合同で描かれた「ハリストスの為に難を受けし、現るると現れざる『ロシアの新致命者・痛悔者』の会衆(かいしゅう)祭聖像」が用いられ、聖人一人一人の聖像は示されなかった。(その中でも、聖アンドロ ニク主教は、『生き埋め』という特徴的処刑方法であったためか、処刑の場面が会衆聖像外周の枡目に描かれている。)
今回聖像製作を依頼したグラゾフスカヤ女史が講師を務めるモスクワ神学アカデミヤは、ロシア正教会の聖人列聖式で用いる聖像も手掛ける、聖像製作については現在ロシア正教会で最高に権威あるところと言える上に、聖アンドロニク主教の母校でもある。
製作にあたっては、1907年に名古屋市の水谷写真館で撮影された肖像写真を基にするように依頼した。今回完成した聖像は、肖像写真を基にして面影を生かしながらも単なる肖像画ではない伝統的聖像の書法に則って描かれた素晴らしい出来栄えのものである。(木製板。エッグ・テンペラ。背景総金箔張。40×30cm)。
グラゾフスカヤ女史は、聖人ゆかりのペルミ教区にある女子修道院の依頼で以前に一度聖アンドロニク聖像を手掛けたことがあるとのこと。ロシア正教会ペルミ教区のウェブ・サイト(インターネット・ホームページ)に掲載されている聖アンドロニク聖像(
http://eparhia.permonline.ru/snts/nov.html )は、グラゾフスカヤ女史が描いたものと思われるが、祭服の柄が微妙に違い、京都教会のものの方が髪と髭が豊かに描かれており、共通の下絵を用いた訳ではない。
現在、京都正教会では、この聖アンドロニク主教聖像の絵葉書を製作中である。
【 聖アンドロニク主教 略歴 】 (1870.8.13〜†1918.6.20)
○1870年8月、ロシア・ヤロスラヴ県の輔祭家庭に生れる。俗名「ウラヂーミル・アレクサンドロヴィチ・ニコリスキー」。
○1893年、クロンシュタットのイオアン司祭(1990年列聖)の祝福で修道誓願剪髪、輔祭叙聖。○1895年、モスクワ神学アカデミヤ卒業、司祭叙聖(25歳)。
当時のアカデミヤ学長はアントニイ(フラポヴィツキイ。後の在外シノド派ロシア正教会首座の府主教)、舎監はセルギイ(ストラゴロツキー。後のモスクワ総主教)。カフカースの神学校講師として赴任。
○1897年、掌院セルギイ(ストラゴロツキー)と共に海路日本へ向かう。
○1898年1月〜12月、第1回日本滞在(27歳)。(5月〜10月、大阪正教会を拠点とする)。
○1899年、「日本での宣教滞在記」出版。 ○1900年、掌院昇叙。
○1906年11月、「京都の主教」として主教叙聖。
○1907年3月〜6月、第2回日本滞在(36歳)。
(4月下旬、大阪を常任地と決し東京発。聖枝祭から復活祭、大阪正教会で司祷)
○1908年3月、チフビンの主教に。
[この時、セルギイ(ティホミロフ)主教が京都の主教に任命される。]
○1917年ロシア正教会公会準備委員の七主教の一員となる。
○1917年8月〜1918年4月、ロシア正教会モスクワ公会(46歳)。同年4月、大主教昇叙。ペルミに戻る。
○6月20日、ペルミで生き埋め刑により致命(47歳)。
[日付は、グレゴリウス暦(新暦)で表記した]