第7章 聖使徒パウェルの神学
ハリストスが昇天し、五旬祭の日に教会に聖神が降ると、使徒たちの共同体は人数も、その霊的な活力も目に見えて成長を開始しました(聖使徒行実1-2章)。聖神に照らされた使徒たちはついに、彼らの主がこの世に対してなさった働きの意味を完全に把握しました。彼らは「聞く耳を持つ」人たちすべてに「思い切って大胆に」福音を伝え始めました。イエルサリムは教会生活とその活動の中心となり、イウデヤの権威者たちが「イイスス運動」が依然として存在し続けているのに気づき、再び警戒し始めるまでにさほどの時間はかかりませんでした(使徒3-4章)。このやっかいな異端者たちは、嫌がらせや脅しで追い払おうとしても効果がなく、イウデヤ議会はついに露骨な迫害方針に転換しました(使徒4-5章)。この迫害で、教会史における最初の輔祭の一人、(初召致命者)聖ステファンは捕らえられ、サンヘドリンの前に引き出されましたが、力強くまた挑戦的にクリスチャンの信仰を擁護しました。それを聞いて怒った群衆は事実上イウデヤ当局の黙認のもと、彼に石を投げつけて殺しました(使徒6-7章)。ステファンの致命を聞いて、クリスチャンの共同体は――使徒たちはイエルサリムにとどまりましたが――みな「イウデヤとサマリヤとの地方に散らされて」行きました。しかし結果的にこの迫害に端を発する離散により、聖都以外の地にも福音が伝えられることになったのです。
〔解説・補論〕ステファンの致命。石打は律法で定められた処刑方法。ただ、ステファンの場合は、黙認されたリンチと見るのが適当でしょう。ハリストスは、ローマ総督の命令によりローマへの犯罪者として処刑されたので、ローマ式の処刑方法十字架(ただし、非ローマ人に対して。市民権ある犯罪者は斬首)で殺されました。
クリスチャン迫害の中心人物の一人にタルソスのパウェルがいました(使徒8:1,3)。パレスティナ生まれではありませんでしたが(タルソスは小アジアのギリシャ植民都市)、彼は「イズライリの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、エウレイ人の中のエウレイ人、律法の上ではファリサイ人、熱心の点では教会の迫害者」(フィリップ3:5-6)でした。神の恵みによって、皮肉にもクリスチャンにとってきわめて手強い敵が教会の最も偉大な聖人の一人になったのです。手当たり次第にクリスチャンを捕縛しようとシリヤのダマスコへ勇んで出かけていったその途上で、サウルは直接にまた劇的に復活のハリストスに遭遇しました(使徒9:1-19、22:1-21、26:9-23)。この経験はサウルの人生を根底から変えました。彼は回心しハリストスを信じる者となり、洗礼を受け、迫害の目的だった当のダマスコ教会に受け入れられました(使徒9:10-31)。またその時、彼がイウデヤ人ばかりではなく異邦人の世界にも福音をもたらすために、ハリストスに「選ばれた器」であることが主に示されました(使徒9:15)。ギリシャ植民都市でローマ市民として成長したため、彼は当時のコスモポリタン的世界へ効果的に福音を伝えるのに必要な資質を備えていたことは確実です。かくして教会の迫害者がハリストスの使徒の一人――異邦人への使徒――となりました。多くの国々への伝道者のしるしとして、この改宗したファリセイ人はエウレイ語のサウロに代えて、サウロのギリシャ語での同義語パウェル(パウロス)を名乗るようになりました(使徒13:9)。
〔解説・補論〕コスモポリタン的世界とは、古代ギリシャの都市国家中心の体制が崩壊し、アレキサンダー大王の征服により垣根が取り払われ、ギリシャ化、ローマ化された地中海周辺地域、またその周辺世界のこと。民族意識や国家意識が薄れ、各人が個人として直接「世界市民」(コスモポリタン)を意識するようになりました。
もとはイウデヤの小さな宗派にすぎなかったキリスト教が、世界宗教にまで成長するのに果たしたパウェルの働きは決定的でした。回心(32年頃)後、およそ3年間にわたり彼はダマスコ地方に暮らし、その地に宣教しました(32-35頃、ガラティヤ1:15-19、使徒9:20-25)。35年にイエルサリムを訪れ使徒たちとの会議(使徒15章)を終えると、彼は出身地のタルソスに帰り、ほぼ九年間とどまりました。もちろんその地でイウデヤ人にも異邦人にも福音を宣べ伝えたことは疑いありません。その間にシリヤのアンティオケで、たくさんのギリシャ人の改宗者を含んだクリスチャンの共同体が生まれていました。イエルサリム教会はワルナワを送り、アンティオケの新たな仲間たちのために奉仕させました。そのワルナワはさらにパウェルに、イウデヤ人と異邦人によるアンティオケの「おおぜいの人々」を一緒に牧して欲しいと頼みました。アンティオケでのパウェルとワルナワの働きが一,二年続いたころ(45-46頃、使徒11:19-30)、彼らはアンティオケから出てゆき、グレコ・ローマン世界全体に福音を宣教せよという聖神の命じを受けました(使徒13:1-3)。特定の地域教会の牧者としてのパウェルの日々は終わりを告げ、神の意志に従い「異邦人への使徒」として世界のあらゆる所へ福音を伝える遍歴の伝道者として主に仕える生涯が始まりました。
パウェルは大伝道旅行を三回行っています。第一回伝道旅行(47-49頃)では、キプロスと小アジヤの幾つかの都市に使徒として救いの使信をもたらしました(使徒13-14)。第二と第三の伝道旅行(49-52頃、52-56頃)では小アジア、マケドニヤ、ギリシャを広範囲に旅しました(使徒15:38-18:21、18:22-21:16)。パウェルの努力は実を結び、たくさんの異邦人が改宗し、多くの地域に教会が設立されました。
もと「ファイリサイの中のファリサイ」パウェルの主イイススへの傾倒と、彼の異邦人世界にまでも及ぶ宣教の成功は、当時のイウデヤ人たちには極めて忌々しい事態でした。第三回伝道旅行の後、イエルサリム教会を訪問した彼はイウデヤ人の暴徒に襲われ、ほとんど殺されそうになりました。彼はローマ軍の分遣隊に救い出され、彼が引き起こした混乱のために逮捕拘束されました(使徒21-22)。サンヘドリンとローマ当局との法律的事情と政治的策略によって、パウェルは最初はイエルサリムで、次にカエサリアで二年以上にわたり監禁状態に置かれました(56-58頃、使徒23-24)。イウデヤ人たちからもローマの支配者たちからも公正な審問が受けられないと見極めたパウェルは、彼のローマ市民としての権利を行使し、ローマの皇帝のもとで裁判を受けることを要求しました(使徒25:1-12)。イウデヤのローマ当局はパウェルをローマに送りました(使徒27-28)。ローマ到着後パウェルは二年ほど軟禁されましたが(59-61頃、使徒28:17-30)、ついに彼に対する告発は取り下げられ釈放されました。彼はその後もハリストスのために働き続けました。ローマで福音を宣教し、伝承では彼はスペインにまでキリスト教の使信をもたらしました。しかしパウェルの自由はふたたび、クリスチャンに対して最初の大規模な迫害を加えた皇帝ネロ(在位54-58)によって奪われました。パウェルはローマで67年か68年まで監禁され、最後にはもう一人の教会の指導者ペトルとともに処刑されました*[1]。
〔解説・補論〕使徒行伝を読むと、パウェルの伝道の当時は、ローマ帝国は決してキリスト教徒への迫害の意図はなく、むしろ伝道先各地の狂信的イウデヤ人の襲撃から、パウェルたちを保護する役割を果たしていたことがわかります。ローマ帝国による迫害は64年のネロ帝の迫害が最初です。
聖使徒パウェルの著作
パウェルは元来、説教者、教師であり著作家ではありません。自分の神学的考え方を体系的な論文にまとめたこともなく、多くの情報を福音記者ルカに与えていたにもかかわらず、彼自身は福音書のような形に自分の伝えていることをまとめようとはしませんでした。しかし彼はその35年の伝道生活でたくさんの手紙(書簡、「書札」epistles)を書き、新約聖書に13通が収められています。14番目の手紙「エウレイ(ヘブル)人への手紙」(「エウレイ人に達する書」「エウレイ書」)は、彼のハリストスについての教えが展開されたもので、聖伝は彼の著作と見なしてきました。しかし「エウレイ書」は明らかに紀元70年以降の著作であり、67年か68年に致命したパウェルの直接の著作ではないことは確実です。聖書学者たちはその著者をパウェルに親しかった同労者、たとえばワルナワやルカやアポロではないかと推測しています。
パウェルの手紙の幾つかは特定のクリスチャンの共同体(教会)に向けて書かれています。ロマ書、コリンフ前書、コリンフ後書、ガラティヤ書、フィリップ書、コロサイ書、フェサロニケ前書、フェサロニケ後書です。他は個人宛で、ティモフェイ前書、ティモフェイ後書、ティト書、フィレモン書です。一つだけ教会全体に向けて書かれたと考えられる手紙があります。聖書学者たちがもともと地域教会間で回覧されるために書かれたと信じるエフェス書です。
エウレイ書は手紙と言うより説教ないし論文という性格が強いものですが、あきらかにローマ、イエルサリム、エフェスのイウデヤ教から改宗したイウデヤ人共同体に向けて書かれています。
これらの文書は体系的な神学論文ではありませんが、キリスト教会の形而上学的また倫理学的な教えの明快かつ深遠な説明を含んでいます。パウェルがこれらの手紙を書いた主要目的は、グレコ・ローマン世界に新たに成立してきた諸教会に向けて、ハリストスに従う者として神学的にも、道徳的にもゆるぎなく立ち続けるよう励ますことでした。パウェルはことに初代教会における異端の問題を憂慮していました。熱心ではあってもクリスチャンとして無教育な多くの人々が、使徒たちが伝えてきた教え(「使徒的伝統」apostlic tradition)に一致しない不健康な教えを受け入れてしまっていたからです。第1世紀の教会を汚染していた異端は、おもにイウデヤ化主義とグノーシス主義の二つでした。
イウデヤ化主義者たちは、キリスト教はイウデヤ教の一つのあり方であり、入信した異邦人たちはモイセイの律法の条項(割礼、食物規定、安息日の遵守など)をすべて守らなければならないと主張しました。
グノーシス主義者たちは物質的世界の善性を否定した一種の霊性主義(spiritualism)を唱えていました。彼らはイイススの肉体による藉身と肉体の復活を否定し、ハリストスを多くの半神的、天使的な救助者たちの一つにすぎないと見なし、神の真理はごく少数の「照らされた者」にのみ示されると主張しました*[2]。
パウェルはその手紙の多くの箇所でこのイウデヤ化主義とグノーシス主義の破壊的な影響と戦っています。彼はその手紙全体を通じて、イウデヤ人であろうと異邦人であろうと、もはやイウデヤ教の儀礼的律法から自由であること、また神は世界の創造者であり私たちの救いはハリストスとその教会に体現され、ハリストスを通じての救いという使徒たちの使信は全人類に向けて開かれていると主張しました。
パウェルの手紙はふつう、その書かれた年代によって四つに分類されます。
「初期書簡」フェサロニケ前書、後書は第二回伝道旅行中にギリシャのコリンフで書かれました。パウェルはマケドニアのフェサロニケ教会の創立者の一人でした。彼はフェサロニケのクリスチャンたちを神学的にも道徳的にも清く立ち続けるように励ましています。二つの手紙でパウェルはハリストスの再臨と最後の審判について語り、主の日を覚醒と忍耐の内に待ちなさいと警告しています(フェサロニケ前書4-5章、後書2章)。熱狂的なクリスチャンの常として、フェサロニケの人々は主の再臨への期待に熱くなるあまり、クリスチャンに求められる堅実で地に足のついた生活を無視しがちでした。それゆえパウェルは「終末への期待」に酔って、彼らが日々の道徳的、霊的な信仰生活の実践を怠ることがないように勧告しています。
「大書簡」は彼の第三回伝道旅行中のものです(52-56頃)。
ガラティヤ書はおそらくエフェスで52〜53年頃書かれました。ガラティヤは小アジアの大きなローマ帝国管区でした。ガラティヤ書がその地域の全教会に向けられたものであることは充分に考えられます。パウェルはこの手紙で自分の使徒としての権威を擁護し、ガラティヤ教会にあからさまに侵入してきたイウデヤ化主義者たちに強烈な批判を浴びせています。
コリンフ前書、後書はエフェス(小アジアの西海岸の都市)で55年に書かれています。コリンフは腐敗と不道徳で悪名高い、ギリシャの国際都市でした。パウェルはコリンフ教会の創立者としてこの教会に蔓延り始めた道徳的、霊的な無秩序に頭を痛めていました。コリンフ前書は、今日失われてしまった他の二つの手紙と同様にコリンフの教会生活をむしばむ不正、不品行を正すために書かれたものです。何ヶ月にも及んだ困難なたたかいの末に、パウェルはコリンフの人たちに彼らの過ちを理解させることができました。コリンフ後書ではコリンフの教会をきよめてくれた神に感謝を表明しています。
コリンフ後書を書いた後、パウェルは悔い改めたコリンフの人々のもとに赴き、そこに約三ヶ月滞在し(56年)、その間にローマのクリスチャン共同体へ手紙を書きました(ローマ人への手紙)。パウェルはその手紙の中でローマ訪問への熱望を表明し、ハリストスによる救いの本質(1-8章)、神の救済計画の中でのイウデヤ人と異邦人との関係(9-11章)、全クリスチャンの課題である聖なる実践生活(12-15章)について議論します。ローマ人への手紙はハリストスの福音に対するパウェルの神学的理解全体を最も幅広く体系立てて説明しています。
ローマでの最初の軟禁期間、パウェルは「獄中書簡」を書きました。59年に書かれたフィレモン書、コロサイ書、エフェス書と60年に書かれたフィリップ書です。
フィレモンは小アジヤのコロサイに住む裕福なクリスチャンでした。彼の奴隷だったオネシモがローマへ逃亡してきました。オネシモはフィレモンの友人であるパウェルをたよってきたのです。彼はやがてクリスチャンに改宗しました。フィレモンへの手紙の中でパウェルは、オネシモをクリスチャンの兄弟としてもう一度受け入れてやって欲しいと訴え、逃亡した奴隷オネシモがその主人フィレモンから盗んだものがあれば、何であれ返済するという約束さえしています。
〔解説・補論〕フィレモン書はきわめて美しい愛の手紙ですが、奴隷制度そのものを否定したり批判したりはしていません(コリンフ前書7章、ティモフェイ前書6:1等参照)。これは、国家の権威者に対して従うことをすすめる(ロマ13章)こととともに、パウェルや初代教会の時代に制約されたのものの考え方の限界を示すものであるとよくいわれますが、はたしてどうでしょうか。私たち現代のクリスチャンが失ってしまった、いつおとづれるかもわからない終末への緊張した意識、その中では、神の国での完全な解放こそが希望であり、この世での社会的不平等や不正をただすことへの関心は薄くならざるを得ないでしょう。隣人たちへの愛はクリスチャンの「新しい戒め」であり、小さなもの難儀するものへ献身的に奉仕しているクリスチャンの方たちに深い尊敬を表しますが、神の国の到来へ希望を託すことをせず、政府の打倒や、社会の改良や、革命によって人間の幸福が実現されなければならない、実現できるはずであると考えるのは、キリスト教の本来の信仰ではありません。
コロサイ人への手紙はコロサイ教会の内部に起こったグノーシス主義を反駁しています。そのためにパウェルはイイスス・ハリストスは唯一の世の救い主であること、ハリストスを通じて神は世界を創造し、ハリストスにこそ「満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いること(コロサイ2:9)を強調します。
「エフェス人への手紙」として知られる文書はおそらくパウェルからエフェス地方(小アジア西部)の諸教会に回覧されたものでしょう。エフェス書の中心主題はハリストスと教会の関係です。教会は聖神の働きの中で、この世に差し出された神の救いの機密「ハリストスの神秘的な体」として描写されます。
フィリップ(マケドニアのローマ植民都市)の教会はパウェルが設立したもう一つのクリスチャン共同体です。パウェルがローマで囚われの身になっていることを知って、彼を慰めようとフィリップの教会の人々は贈物を送りました。フィリップ書は彼らのパウェルに対する大きな心遣いへの抑えがたい感謝から発せられた返信です。パウェルは彼らのハリストスへの変わらない信仰を喜び、イウデヤ化主義者たちの異端的な教えに用心するように告げ、クリスチャンとしての人生の完成を追い求めよと勧め、彼らが送ってくれた贈物への厚い感謝を披瀝します。
「牧会書簡」はローマでの最初の軟禁後に書かれました。ティトとティモフェイ前書は61年から64年の間に書かれました。一方ティモフェイ後書はローマでの二度目の監禁の間(64-67/8)に書かれたものです。これらの手紙では、聖職という働きの本質と機能を論じ、パウェル自身によって福音に仕える聖職へと按手されたティトとティモフェイに、健全な教えとハリストスの教会の秩序のためにたゆみ無く働きなさいと勧告しています。
「エウレイ人への手紙」として知られる文書は実際は匿名の論文ないし説教であり、キリスト教のイウデヤ教に対する優位を論じた長大で一貫した議論を展開しています。迫害のために信仰を捨てイウデヤ教へ帰っていく瀬戸際にあったイウデヤ人クリスチャンに向けて書かれたのではないかと思われます。読者たちを背教から救うために(エウレイ6:1-12)、またキリスト教信仰へ立ち帰りゆるぎなく立てるようにと、エウレイ書の著者は三つの主要テーマを展開します。それは
(1)旧約の預言者たちに対する(1:1-3)、天使たちに対する(1:2-2:18)、そしてモイセイとイイスス・ナウィン(ヨシュア)に対する(3:1-4:13)ハリストスの優位性、
(2)レヴィ系の司祭に対するハリストスの大祭司性の優位性(4:14-7:28)、そして
(3)旧約に対する新約の優位性(8:1-10:18)です。
エウレイ書にはまた信仰生活への深遠な洞察が含まれており(10:19-12:29)、「さまざまな違った教えによって、迷わされてはならない」と結論づけます(13:1-15)。古代イズライリ人になされた旧約はイイスス・ハリストスの新約によって成就され、かつ凌駕され、ハリストスにあって、完全で最終的な神の救いのわざが差し出されている、これがエウレイ書のメッセージです。
パウェルの手紙のそれぞれの特定の内容について正確に述べるには、その複雑さと深遠さゆえに一冊の本が必要なほどです*[3]。それゆえこの章の残りの部分ではパウェルの文書への詳細な注解ではなく、むしろ新約聖書におけるパウェル文書全体の神学的使信に説明を集中したいと思います。
聖使徒パウェルの使信
神の救済計画
パウェルによればハリストスの福音はまず第一に、人間の条件と人間が救いを必要としていることの啓示でした(ロマ1:18-3:20参照)。第二は、神父が人と世界を救済するためにお立てになった計画の啓示です(エフェス1:3-14、3:4-12;コロサイ1:24-29)。パウェルが人間の条件をどのように分析したかについては次のセクションでお話しします。ここではパウェルが神の贖いの経綸をどうとらえているかを概観してみましょう。
罪は人類を神との親しい交わりとそのいのちの完全さから引き離してしまいました。しかし人類に対する神の愛は忍耐強いものでした。神はその愛ゆえに、人類を罪と死の支配と、悪魔の束縛から贖うことを決心されました。神の意志と目的はその御子イイスス・ハリストスを通じて、また聖神の力を通じて、人類ばかりではなく「すべてのものを」ご自身と和解させることでした。パウェルは「救済史」を次のような幾つかの段階に分けてとらえています。
(1)世界と人類の創造
(2)人類の神の恵みからの堕落
(3)古代イズライリ人への旧約とハリストスと聖神の新約による人間性と世界の贖い。神の人類に対する新しい契約はハリストスの地上での働きによって、また教会生活の中で、また神の国の到来を告げるハリストスの再臨によって実現します(ロマ8章、コリンフ前書1-2章、コリンフ後書3-5章、エフェス1-6章、フェサロニケ前4-5章、フェサロニケ後1-2章)。
パウェルは神の救いの経綸を「代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされた」「奥義」と語ります。神父は「ハリストスにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、……天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、…神の子たる身分を授けるようにと、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」(エフェス1:3-6)。世界をイイスス・ハリストスというお方とその働きによって贖うことは、神の最初からの目的でありご意志でした。そしてハリストスを神の子と認める者たちは神の子の光栄に入れられるように定められていました(ロマ8:14-17)。福音は神の秘められ隠されていた知恵の啓示でした(コリンフ前2:7)。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。…そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ロマ8:29-30)。
神のクリスチャンへの「予定」は決してクリスチャンの霊的な自由を否定するものではありません。正教会の見方では、私たちは聖神によってハリストスのもとへ導かれますが、神がハリストスによって差し出した救いを受け取るか受け取らないかは、依然として私たちの自由に委ねられています。神は永遠のかなたから、誰が福音を受け入れ誰が拒絶するかを知っていました。そして受け入れる者たちを神の子・ハリストスとともに「神の子たち」へと定め、拒絶する者を永遠に神を離れた者へと定めました。神は私たちがどのような選択をするのかを定めたのではありません。むしろ私たちの自由な選択の結果としての、私たちの霊的な定めをあらかじめ見通したのです。この世での私たちの生涯を一貫して、私たちは聖神の導きに従うか抵抗するかについて自由であり続けます。
〔解説・補論〕ここで述べられている予定についての考え方が、正統教会が守ってきた「予知予定論」です。それに対して、聖アウグスティンに源を有し、プロテスタントのカルバン主義が確立したのが、人間の自由意志をまったく否定し、神の専制的支配を強調する「予定論」です。これは正統派の「予知予定論」とはまったく異なるものです。信仰に至るのも、至らずに滅びるのも、「誰が」「いつ」に至るまで、神の意志による選びとして永遠の昔から定められているというのです。この予定論については、正教会は「予定論者であるよりイスラム教徒である方がマシだ」とさえ言い切って、キッパリ否定しました。
「神の聖定によって、神の栄光が現れるために、ある人間たちと御使いたちが、永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている」(ウェストミンスター信仰告白3章3項、カルヴァン派・改革派プロテスタントの基本綱領です)
救いは聖三者の働きです。しかしパウェルの「ハリストス中心主義」の救済論*[4]では、イイスス・ハリストスこそが神の救いのドラマの要です。私たちはハリストスの血を通じて救われました。ハリストスにあって全宇宙の意味と目的が明らかにされました。ハリストスは「ことごとく」のものの頂点であり、彼にあって天と地が神と結合し和解しました(エフェス1:7-10)。真の神であり真の人間であるハリストスは神と人間との唯一の「仲保者」です(ティモフェイ前2:5-6)。彼に対する信仰を通じて、私たちは「罪と死の法則」から解き放たれます(ロマ8:2)。これはパウェルが「ハリストスの奥義…、いまは、御霊(聖神)によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかった」(エフェス3:4-5)と言うところの「奥義(神秘)」です。ティモフェイへ宛てたある手紙のなかでパウェルは「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、『ハリストスは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた』」(ティモフェイ前3:16)と書いています*[5]。ハリストスというお方とそのわざによって、神父の永遠の救いが実現し、教会における聖神の働きが可能となりました。
人間の条件
聖書は、人は本来神との交わりに生きる者として創造されたと教えます(創世記1-2章)。人類と世界をご自身と完全に調和させ、その調和の中で、人に神のいのちを余すところなく享受させることが神の永遠のそして根元的な目的でした。しかし人は恵み深い創造者に愛と従順をもって応える代わりに、神に背を向け「自分自身」を指向するようになりました。悪魔の誘惑に屈し、悪の力の奴隷になってしまったのです*[6]。聖書は、人が神から隔てられているという「事実」を罪の結果であると宣言しますが、この人間の堕落について体系的な説明はしていません。人間の創造以前に起きた神に対する一部の天使の反乱(黙示録12:1-17、イサイヤ14:5-15、イエゼキイリ28:11-19)とアダムとエヴァへの悪魔の誘惑(創世記3章)については語りますが、なぜ神と直接に交わり罪によって腐敗していなかった天使たちと人が、彼らの創造主に背くことを選んだかについては正確な説明はしていません。パウェルも同様に、神に対する人間の最初の反抗という奥義(神秘)についての説明は試みません。代わりに彼は、人の堕落は所与の前提とみなし、堕落後に人が陥ってしまった「神との疎隔」という堕落後の人間の条件に関心を集中します。堕落からハリストスの到来に至るまでの期間、人は、神のいのちの臨在に近づくことができず、罪と死の力に従属していました。パウェルによれば「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ」(ロマ5:12)のです。そして「罪の支払う報酬は死」(ロマ6:23)でした。パウェルのこれらの言葉は、すべての人がアダムにおいて罪を犯し、私たちはみなアダムの罪の「罪責(guilty)を負って生まれてくる」という意味ではありません。正教会は、私たちはアダムの罪の結果(悪に浸潤された世界)は受け継いでいるが、アダムの罪責は受け継いではいないと教えます。堕落した世界に生きる限り、私たちはたえまなく罪に誘惑されます。私たちは誘惑に屈し、神の目から罪責ある者とされます。しかしこの罪責は私たち自身のものであり、アダムのものではありません。
正教会の神学者の多くは、罪と死の関係についてのパウェル分析にもとづいて、人間の可死性そのものが堕落後の時代における人の罪深さの主要な原因であると主張してきました*[7]。アダムの罪によって、人類は「いのちの木」――神の不可死性――から遠ざけられてしまい、死が人間存在の普遍的かつ永遠の構造となってしまいました。受け継がれてゆく可死性――死の呪い――の結果、アダム以降の人間は彼自身の情念と罪への傾きの奴隷となってしまいました。死とそれに伴う影響――たとえば、肉体的な弱さ、老化、病い――への不安に苦しみ、人は自己中心的で自分に甘くなり、神の善と知恵に希望を失い、神にではなく自分の快楽、安全、保証に究極的な関心を持つようになってしまいました。アダム以降の人間は束縛――罪と死の束縛――の中に生まれます。この死の専制への屈服が、罪の専制への屈服の深刻さをより深めているのです*[8]。
パウェルはしばしば人の罪と死への従属を「肉」への従属として描き出します(「肉」、ロマ書8:3-11;ガラティヤ5:16-24)。「肉」は「体」と同じではありません。人間の体は他の物質的被造物と同様、本質的に「善き」ものです(創世記1:31)。パウェルにとって「肉」とは「神の意志と存在に対立するものを指向する人間の諸傾向」を表す言葉です。「肉の欲するところ」と「霊の欲するところ」は「互いにあい逆らい」ます(ガラティヤ5:17)。「御霊に従って歩む」とは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」の生活に導かれることです(ガラティヤ5:22-23)。反対に肉の道を歩むとは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」にふけることです(ガラティヤ5:19-21)。堕落の結果、人は自らの情念、食欲、情欲の奴隷となりました。その精神と意志は「霊のこと」ではなくむしろ「肉のこと」に向かいます(ロマ8:5-6)。「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」からです。「霊に従う」のでなく「肉に従って」生きるとは、主の「いのちと平安」から遠ざかることです。
パウェルの主張するもう一つの堕落の結果は、人を神を知ることから引き離す精神の腐敗、霊的盲目性です。罪によって神を神として讃えることができなくなってしまったために、人は思いにおいて「むなしく」なり、「無知な心は暗く」なりました(ロマ1:21)。神以外に知恵を求め(創世記3章)、「自ら知者と称しながら愚か」となりました(ロマ1:22;コリンフ前1:18-2:16)。「だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである」(コリンフ前3:18-19)。
霊的な無知は、可死性と同様に人の罪の結果でありまた原因です。神とそのご意志を知ることがなければ人の理解力は「暗くなり」、人は「放縦」とあらゆる種類の「不潔な行ない」に引き渡されてしまいます(エフェス4:17-19)。人の精神は「不朽の神の光栄」との接触を失ってしまい(ロマ1:23)、光から闇に向かいました(エフェス5:8-14;コロサイ1:9-14)。パウェルは道徳的、霊的な不純さの多くは、堕落した人間の精神の暗さと無知から生じ、世界に浸透していったと言います(ロマ1:24-32;エフェス4:17-19;コロサイ3:5-10;フェサロニケ前4:3-6;ティト3:3)。すべての人がすべての罪を犯すのではなく、すべての人が神のために生きることに、「正しい道」(第22聖詠〔詩編23〕)を完璧に歩むことに、数限りない多様な形で失敗します。私たちの心がまず第一に神に向かわず、神ならぬものに向かうなら、私たちは偶像崇拝の重大な罪責を負い、この世をおおう罪深さに感染してゆきます。
古代のイウデヤ人、とりわけファリサイ派の人々は、神が彼らをご自身の律法の守り手に選んだことを誇っていました。彼らは律法によって救われると信じていました。なぜなら律法は神の意志の啓示であり、霊的盲目性という「呪い」から人を解放するものだからです。神とその意志への知識は――堕落によって失われてしまいましたが――、律法によってもう一度把握し得るものとなりました。モイセイを通じイズライリ人たちに律法を与えて、主はご自身の聖性と人が守るべき道徳的、宗教的な正しさの規範を宣言しました。そして、多くのイズライリ人がモイセイの律法が求める通りに自分は生きることができると信じました(ロマ2:17-20)。それに対してパウェルは「律法の行いによって」救われるという考えを繰り返し否定しています(ロマ2:17-8:2;ガラティヤ3-5章;フィリップ書3章)。
パウェルにとって律法の啓示は、人間の生きる条件と救いの必要性の照明でした。律法はそれ自体では人に救いをもたらしません。反対に律法は神の道徳的、霊的完全さと、人間の罪深さとの途方もなく大きな隔たりの暴露です。神の求める規範をまじめに考える者は誰でも、これらの規範を生き抜くことなどとてもできないことを悟るでしょう(ロマ2:21-23、7:7-25)。むしろ律法は人を罪に引き込むと言った方がふさわしいのです。なぜなら人の罪深い魂は、神からの命令や禁止になぜか自然に背いてしまうからです。「『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかった」(ロマ7:5、7、8、11)。律法はそれゆえに、救いをもたらすのは律法の遵守であると信じる者たちにとって「呪い」となります。なぜならパウェルが指摘するように、モイセイの律法は、律法の命じることを「完璧に」守れない者は「呪われる」ことを(ガラティヤ3:10)明確に規定しているからです(復伝律例27:26、ガラティヤ3:10)。ここからパウェルは次のように結論づけます。「律法によっては神のみまえに義とされる者は一人もいない」(ガラティヤ3:11)。律法は人間が陥ってしまっているきわめて絶望的な状況をあらわにしますが、その苦境から離脱するために必要な道徳的、霊的な力を私たちに与えてくれません。しかし律法は呪いであると同時に大いなる祝福でもあります。イウデヤ人たちが信じたように律法は神の本性の啓示であり、アダム以降の人々の霊的な無知の矯正でした。そして律法は人間の道徳的、霊的な荒廃の現実を余すところなく示すことで、人には救いが必要であることを明らかにし、またイイスス・ハリストスの救いのわざに人々を備えさせるのに役だったのです。
パウェルは同時代のイウデヤ人たちに向けて、律法は人々を教導するための大切な源泉であるには違いないが、救いへの鍵ではないと宣言しました(ロマ3:20)。律法が明らかにするのは、堕落という状態の中で、人は神の意志に従って生きることはできないということでした。イウデヤ人も異邦人も、人は誰も「罪のもとに」います(ロマ3:10)。第13聖詠(14詩編)1節から3節を引用してパウェルは告げます。「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」(ロマ3:10-12)。イウデヤ人も異邦人も共に神がハリストスを通じて差し出す救いなしに何の希望もありません。なぜなら「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(ロマ3:23)いるからです。律法の戒めを行うことではなくイイスス・ハリストスへの信仰によってのみ、人は神の目に正しいものとされます(ロマ3:21-30)。ハリストス、人となった神の子への完全な従順によって、律法の求めるところが満足されるのです。それゆえクリスチャンはイウデヤ教の祭儀的律法には拘束されません。浄化はいまやハリストスとその教会の機密によってもたらされるからです。旧約聖書に示された道徳的律法は依然として有効です。しかし正しく生きるための努力がもし私たちを悪から解放するなら、それはハリストスへの信仰と聖神の力によることを忘れてはなりません。
〔解説・補論〕旧約から新約への移行は、割礼と律法から洗礼と聖神の導きへの移行とも言えましょう。生後八日目の割礼は、やはり八日目の洗礼へ、律法による外面的な規制は聖神の恵みに内から応える自由へと置き換えられました。律法を与えられた記念日であったペンテコステ(五旬祭)は、聖神降臨の記念日として意味が変えられました。
人の堕落のもう一つの次元は、悪魔と他の様々な悪霊の専制への屈服です。悪魔は本来天使として地上の守護という役割を担っていたというイウデヤ人たちの伝承をふまえて*[9]、パウェルは悪魔を「この世の神」(コリンフ後4:4)と呼びました。原初の時、天使たちの一部(悪魔とその配下の者たち)が神の秩序に背いて以来も、神の救済計画の神秘とドラマの一部として、悪魔はこの世に存在し続けることを神に許されていました。アダムとエヴァは悪魔の誘いに乗せられ、その自由意志を誤用し、神に禁じられていたものに手をつけてしまいました(創世記3:1-6)。かくして人は「やみの力」悪魔の支配に服することになりました(コロサイ1:13)。神から遠く隔たってしまった人は、「この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」(エフェス2:2)いかなければならなくなりました。「悪魔のたくらみ」によって、人類は「やみの君」の命令を実行する「支配と権威」、「この世のもろもろの霊力」に従属してしまったのです(エフェス6:11-12;コロサイ2:15、20;ガラティヤ4:1-3、8-9)。神との関係を失った人は「本来神ではない神々」、神と人とに敵対するこの世界の諸力*[10]の奴隷になってしまいました(ガラティヤ4:8)。そして実際、堕落後の人の現実を支配する他の諸力――罪、死、「肉」、霊的盲目――は悪魔が人類に対して専制的な支配を布くための道具となったのです(エフェス2:1-3、5:3-14)。
堕落の結果、神のもとでの完全な霊的自由を失った人は神との親しい交わりといのちから隔てられ、悪魔の奴隷となってしまいました。悪魔の専制の下で、人は死を宣告され、罪に支配され、「肉の欲するところ」に翻弄され、道徳的、霊的な知恵を奪われてしまいました。堕落後の人間が生きなければならない条件はあまりにも絶望的で、イズライリ民族に啓示された神の律法それ自体が、呪いにみちた非難と有罪宣告となります。律法の要求を満たすことができる者は一人もいないからです。神との交わりから隔てられ霊的自由を失って、人は荒廃した人間性を生きることを余儀なくされ、本来与えられていた神のいのちをわかちあう可能性を実現できません。人は堕落の状態から、また悪魔への囚われから解放され、救われなければなりません。
ハリストスというお方とそのわざ
既にお示ししたように、パウェルの贖いの理論ないし救済論は、イイスス・ハリストスというお方とそのわざを中心にすえる「ハリストス中心主義」的なものです。初代教会の使徒的な伝統にもとづき、また新約聖書の他の著者たちとともにパウェルは、ナザレトのイイススをイズライリのメシヤであると同時に神の子であると表明します。イイススは、「膏そそがれた」ダヴィド王の子孫かつ後継者「ハリストス」であり、旧約の預言者たちを介して神がイズライリの人々に約束したお方でした。彼はまた神の子が人となり、人のかたちをもって神の力と知恵と光栄を顕したお方です(フィリップ2:6-11;コロサイ1:15-20、2:9;コリンフ前書1:24,2:8)。パウェルは繰り返しイイススを「主」(フィリップ2:11;ロマ5:1,10:9; コリンフ前書12:3、15:57; コリンフ後8:9)と呼びます。「主」はイウデヤ人たちが神にのみ用いた称号でした。パウェルによれば、永遠の先から存在していた神の子が人となったのがナザレトのイイススでした。彼は「おのれをむなしくし」(ないしは「おのれを捨て」)て神の権威を脱ぎ去り「僕のかたち」をとりました(フィリップ2:6-7)。パウェルはまた神の子を被造世界の秩序の源泉と維持者と呼びました。「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、…みな御子にあって造られた…。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ1:16-17)。この同じ神の子が「女から生まれ」(ガラティヤ4:4)、それによって彼の神としての本性はイイスス・ハリストスというお方のうちで人間としての本性と一つになりました。ハリストスは真の神です――「ハリストスの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」(コロサイ2:9、1:19、この箇所の和訳については新共同訳を採用・訳者)――。そして、同時にハリストスは真の人間、すなわち目に見えない神の完全な「像と肖」です(コロサイ1:15;コリンフ後4:4)。ハリストスの救いのわざ――とりわけその死と復活――において、またそれを通じて人類と世界は悪の力から救われました。
パウェルは、イイススを世の罪のために受難し死んだ「人となった神・救世主」であるという使徒たちのメッセージが、多くの人々にとって受け入れがたいものであることを認めていました。「わたしたちは、十字架につけられたハリストスを宣べ伝える。このハリストスは、イウデヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである」(コリンフ前1:23)。遅くとも紀元前第2世紀の初頭から、イウデヤ教はメシヤをイズライリ国家を諸敵への勝利に導き、神の王国の到来に世界を備えさせる「神に膏そそがれた王」、すなわち「偉大な人物」として描いてきました。よってほとんどのイウデヤ人たちにとって、神でありながら十字架に釘せられたメシヤなどと言うのは、言語道断な冒涜でした*[11]。一方パウェルの時代の異邦人たちにとって、とりわけ「教養ある」ギリシャ人やローマ人にとっては、キリスト教はイウデヤ教の特に迷信的で狂信的なセクト、「愚かさ」を売り物にする新興宗教以上の何ものでもありませんでした*[12]。パウェルはクリスチャンの信仰の「言語道断さ」と「愚かさ」こそが実際、まさに神の知恵(コリンフ前1:18-2:5)であると信じ、「ハリストスによる救い」という使徒の使信をイウデヤ人と異邦人の両者に伝えることを神の定めた彼の義務と見なしました(使徒9:15、25-12-23;ロマ1:1-3:20、9:1-11:36;ガラティヤ2:7-8;エフェス3:7-8)。
〔解説・補論〕キリスト教はいまや世界宗教となりました。キリスト教国では教会とその教えるところはゆるぎなき「権威」であり、日本のような異教の国でも一定の尊敬を得て遇されます。そのようなキリスト教の「成功」が、ここで言われるキリスト教の使信の「言語道断さ」「愚かさ」への感覚をクリスチャン自身から奪ってしまってはいないでしょうか。神が処女から生まれ人となったこと、そのお方の十字架の死が私たちの罪の赦しであり、三日目の肉体をとっての復活が人間の新生であること、人の知恵ではなく聖神の導きと鼓吹によって生きるのがクリスチャンであること、主の再臨と全死者の復活と審判、永遠のいのち、いずれも常識では受け入れがたい「言語道断な、愚かな」メッセージではないでしょうか。自らが信じていることの、この言語道断さへの新鮮な驚異の念を失い、つまづきさえせず、教職者たちは聖書に「合理的な解釈」をほどこし、使徒たちが命がけで証言した教えの要を「霊的な暗喩」としてしまい、一般信徒の大半は「イエス様大好き」、「教皇様大好き」、「聖堂の神秘的雰囲気大好き」、「巡礼大好き」、「聖歌大好き」、「イコン大好き」…とはしゃぐばかりで、使徒の教えにがっぷりと取り組むことなどまったく念頭になく、聖書すら読まないのが現代のクリスチャンではないでしょうか。「そんなこと信じられるわけないじゃないか」と冷笑する人々の方が、キリスト教が一人一人の人生にとって人類にとって「一大スキャンダル」であることを忘れ、つまずきさえもしない「クリスチャン」よりずっと誠実なのではないかという思いさえします。深夜の復活祭に溢れる光、そこにある喜びが証するように、正教の奉神礼が表現しているのは、この「スキャンダル」を心から喜ぶ「愚かな」全人格的、共同体的な受けとめなのです。
新約聖書は神の救いの計画は至聖三者によって実現されたと教えます。神父は世々の先からこの世の救いを目的として定め、時満ちるに及んでこの世に子と聖神を送り、悪からの救いを実現し、その「よき報せ」を宣言しました。新約聖書は父の経綸も、聖神の経綸もともに無視しませんが、その上で子の経綸に関心を集中し*[13]、イイスス・ハリストス、人となった神の働きを神の救済計画の鍵として示します。教会にあっての、また教会を通じての聖神の働きでさえ、この経綸のひとつの結果でした。なぜなら、教会は聖神の内在的な力といのちを、神父のもとに昇っていったハリストスを通じて受けたからです(イオアン15-26-27、16:5-11)。
ハリストスによる救いという使徒の使信を宣言するにあたって、古代教会の神学者たちはハリストスの働きの幾つかを特に強調しました。主のわざのうち最も頻繁に選ばれて考察されるのは藉身、受難と死、復活です。最も古代のキリスト教著作家たち――福音記者イオアン、聖使徒パウェルも含めて――は、復活を語るとき、そこに昇天と父の右への着座も一体のものと考えています。それらは一つの神のわざの三つの側面だったのです*[14]。神の子がイイスス・ハリストスに藉身して、人間性は神と結ばれ、変容され、神化されました。完全に義であるハリストスが受難し死に、人類は罪を解かれ、死の支配から抜け出しました。主が復活し、昇天し、父の右に着座し、死の呪いからの人類の解放が全世界に明らかに示されました*[15]。
ハリストスの救いの働きについて、パウェルはその受難、死、復活がどのように救いに関わっているのかを中心に説明します。パウェルはまずハリストスの救いのわざの大前提として藉身をとらえます。真の神であり真の人である者によってのみ、その死と復活が世の救いとなり得るからです。受難と死、そして復活を通して、ハリストスは罪の赦し、神の前での義化、悪の力からの贖い、神との和解を人にもたらしました。ハリストスのわざのもたらしたこれらの結果を分かち合うためには、人はイイススを救い主として認めなければなりません(コロサイ1:23)。堕落した人類は神との和解(reconciliation)ないし「贖い(at-one-ment、原義は、一つに結びつけること)」を必要とします。パウェルはハリストスがそのような和解を可能にしたことを証します。ハリストスへの信仰によって、人の罪は洗い流され、神への奉仕に再び献げられ、神の前に義なる者として立たされ、罪と死の悪魔的な力から解きはなたれ、神の「子たる身分がさずけられ」ます(ガラティヤ4:5)。
堕落の内にある私たち人間は、神と和解するためにまず悔い改めなければなりません。自己中心性を捨てて神中心の生き方に立ち帰らなければなりません。しかし人間はこの世、「肉」、悪魔に支配されているので、真の悔い改めができません。悔い改めとは自己中心性の死、神への無条件降伏、服従と献身です。人間はその罪深さにより神との交わりと神のいのちの現実性に直接触れる経験を持てず、この自己卑下をよろこんで耐えることができません。ですから真の完全な悔い改めには神の助けが必要です(説き、愛することにも神の助けが必要なように)。人間の悔い改めを助けるために神は人となりました。ハリストス(「神・人」)にあってはじめて人は完全に降服し、苦しみ、服従し、死ぬことができます。ハリストスは人が自分の力では決して払えない負債を払います。神への完全な愛と従順という(人が払えない)負債です(コロサイ2:14)。ハリストスを信じ、その受難と死に自分を一体化させることによって、私たちにも悔い改めが、そしてハリストスの復活、昇天、父の右への着座を通じての神との一致に入ることができます*[16]。「贖われ、義とされ、和解され、人は奴隷状態から神の子へと引き上げられ、約束された救いの『神による相続人』となる」*[17]のです。
〔解説・補論〕「ハリストスの愛の神秘」としか言いようがありません。まったく罪のないお方が私たちの罪を負い、罪の償いどころか、その悔い改めでさえ不徹底なものでしかあり得ない私たちのために、ご自分の罪ではないのに、ご自分の罪として私たちよりはるかに苦しみ、私たちよりはるかに悲しみ、私たちよりはるかに嘆いてくださいます。この主の苦しみ、悲しみ、嘆きを今度は私たちが分かち合うことによって、私たちに真の痛悔への道を開きます。愛する者が自分のために苦しみ悲しみ泣いてくれるのを見て、はじめて私たちは自分の罪の重大さに思い至るのです。
聖神の働きと教会生活
パウェルの聖神についての教え(「聖神論」)と教会についての教え(「教会論」)は互いに関連しあって展開されます。「聖神の経綸」と教会の働きの間には密接な関係があるからです。パウェルはこの関係を分析するにあたって次のようなテーマを取り上げています。「教会と救いの働き」「教会の一致」「教会の伝道」「教会と成聖の過程」「教会と人の栄化(神化)」。
教会と救いの働き
神がハリストスにあって差し出す救いを、人は教会の働きを通じて完全に我がものとします。教会の働きは五旬祭の日に使徒たちの集いに降臨した聖神の力がそこにあってこそ可能となります。パウェルにとって教会は聖神に満ちあふれた「ハリストスの神秘的な体」、世界を救う神の機密でした。悪のなわめから解き放たれ、至聖三者の神の臨在とそのいのちの内によみがえるためには、人はハリストスと「一つに」ならなければなりません。すなわち教会での祈りの生活、機密を中心にした生活、道徳的な生活を通じてハリストスに結合しなければなりません。私たち一人一人は救い主、主宰であるハリストスへの信仰と従順を通じて救いを自分のものにしなければなりません。しかしパウェルは「一人だけの救い」を教えているのではありません。反対に、「『ハリストスのうちにある』ということは、パウェルにとって、すべてのクリスチャンが互いに主を中心にして結びついているその連帯の中に入るということ、すなわち、ハリストスの体(コリンフ前12:12)であり、ハリストスをかしらとする教会の肢体となること」です*[18]。
〔解説・補論〕孤高のクリスチャン、孤独なクリスチャンというのは形容矛盾です。クリスチャンはたとえ、砂漠や深い森や絶壁の岩をうがってつくった孤独な修室で一人祈りに専念しているときにも、一人ではありません。この世的なしがらみを捨てることは大切なことです。しかし神がその人間に責任、課題としてあたえた「しがらみ」の重荷から逃避して修道院に入ろう、隠修者となろうとすることはゆるされません。
隠修士についてご質問がありました。彼らは、町の教会であろうと修道院生活であろうと目に見える具体的な交わりを捨て、砂漠や森の中でひたすら霊の救いを求め祈りの生活に専念しました。また、今日でも例外的な修道のかたちとして修道院長の祝福のもとでゆるされて行っている人がアトス山などにはいます。彼らはしかし、教会の交わりを捨てたのではありません。多くの隠修士は、復活祭や大きな祭日には修屋からでて修道院や町の教会に戻り領聖し再び修屋に帰ります。その領聖が彼らを教会に結びつけています。またサーロフの聖セラフィムのように何十年にも及ぶ孤独な隠修生活を終えて、人々の前に出てきたとき、彼をしたって集まる毎日数千人と言われる人々の悩みや困りごとに耳を傾け、解決に導いたという聖人もいます。彼の隠修は結局は人々のためであり、孤独への逃避ではなかったのです。
ただ、隠修は悪魔との戦いを自分ひとりで引き受けなければならないため(人の目のないところでは、私たちは罪の誘惑に陥りやすいのでは?)、大変な困難を伴います。多くの隠修士が戦いに敗れて廃人のようになったと言います。また、隣人との愛の交わりという主のお示しになった生き方を生きるチャンスがありません。そういう意味で聖大ワシリイは隠修の危険性を指摘し共住修道をすぐれた修道の形としてすすめています(「修道士大規定」中世思想原典集成2、平凡社、所収)。
もっとも、エジプトのマリヤのような、何十年砂漠で誰にも会わずもちろん領聖の機会もなく、ゾシマ神父に見いだされるまで一度もなく、ひたすら悔い改めの生活を送った人も正教は伝えています。彼らの存在をどうとらえるか難しい問題です。ただの狂人でしょうか。逃避者でしょうか。教会の交わりをさけた反抗者でしょうか…。ただ、正教会全体が一致して彼らを悔い改めの精神性の典型として受け入れ続けてきたことを忘れてはなりません。私たちの狭い理解で教会・ハリストスの体が受け入れてきた者を拒絶してはなりません。どんなに彼らの生活が孤独で理解しがたい者であっても彼らはあくまで教会の共同体のうちにある人々なのです。正教が教会と言うとき、そのような「例外者」たちも包容する、まさに宇宙的教会であるということでしょうか…
各人は聖神によってハリストスへの信仰に導かれます。その信仰を土台にして、聖神を自らのいのちの内側に受け入れます(「再生」)。「真理の言葉、すなわち、…救の福音」を聞き、信じる者は「約束された聖神の証印をおされ」ハリストスの教会にあって、ハリストスのいのちに入ります(エフェス1:13-14)。聖神の力によって各人は「新たなる創造物」となります。教会生活を通じてハリストスの内に置かれ(「教化」)、「よき行い」の実践によって聖なる者とされてゆき(「成聖」)、ついには至聖三者の永遠の神のいのちに結合します(「栄化」)。ハリストスの贖いと和解のわざによって、聖神の再生し、教化し、成聖し、栄化する働きによって、「すべての人々が神の栄光を分かち合い、神ご自身の聖性に与るものとなることができる」*[19]のです。
〔解説・補論〕栄化はglorification の訳。glorifyは神を栄光をたたえること、ギリシャ語でドクサゾー(オーソドックスのドクス)。しかし、ここでは人が神の栄光を分かち合うこと、すなわち後に正教の師父たちがテオシス(神化)と表現したものと同じ。
聖神のわざは実際にはハリストスのからだ、教会にあって成し遂げられます。教会は神の聖なる神殿であり、聖神の住まうところです(エフェス2:19-22)。教会における聖神の働きによって、私たちは「子たる身分が授けられ」、神の子としてハリストスが受け継いだものの共同相続人となります。かくして、信仰に基づいて教会生活に全面的に関与してゆくことこそが救いへの道となります。言いかえれば、信仰は主にすすんで応えてゆくこと、自己の一切をハリストスのいのちと聖神の力に「実存的」に投げかけていくことです。そして、それだからこそ、この実存的信仰はひとりひとりが教会生活に全面的に結合することを要求するのです。ハリストスとその教会にあって、人は神の子としての相続財産を完全に受け取り、ハリストスとともに父なる神の力と臨在の内によみがえらされます(エフェス2:4-7)。
〔解説・補論〕「実存的」はexistentialの訳。哲学上の概念としてはむずかしい内容を持っていますが、一般的には、抽象的な思弁の中ではなく否応のなく自らの置かれた具体的な状況のなかで、自己の全存在をかけて、習慣や、社会的強制ではなく「自由な決断」として何ごとかを選び取ってゆくこと、ないしは新しい自分のあり方へと「自己投企(自己を投げかけてゆく)」してゆくことです。そういう意味で、信仰ほど「実存的」なものはありません。幼児洗礼で習慣的な信仰生活を送ってきたものが、あるとき自分の人生を根底から生かすものとして福音をとらえ直すとき、はじめてその信仰は真の信仰、実存的なものとなります。その時が来るのがどんなに遅くなっても、ついに死の床につくとき、私たちは主が十字架と復活でお示しになった私たち一人一人の「復活」に希望をかけるか、死んだら無という「常識」に屈服するか、「実存的」な信仰を問われます。
教会の一致
パウェルは、すべての信徒はハリストスの分かたれざる体、すなわち唯一の、聖なる、公なる、使徒の教会に一致していることを宣言します。そして当時の信徒たちに「平和のきずなで結ばれて、聖神による一致を守り続けるように努めなさい」(エフェス4:3)とすすめています。「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エフェス4:4-6)。五旬節の日に教会が創造される以前は、異邦人の世界全体が「無割礼の者……イズライリの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁が」ありませんでした(エフェス2:11-12)。しかし、ハリストスとその教会を通じて、イウデヤ人も異邦人もともに神のイズライリに一体のものとされました。ハリストスを信じる者は皆「ひとりの新しい人」へと造りかえられ、「一つの聖神(御霊)の中にあって、父のみもとに」近づいたのです(エフェス2:13-18)。第1世紀中頃の異邦人のクリスチャンに向かって、パウェルは「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エフェス2:19)と宣言しました。ハリストスとその教会にあって、すべての信徒は信仰によって「神の子たち」として一つです。「あなたがたはみな、ハリストス・イイススにある信仰によって、神の子なのである。ハリストスに合う洗礼を受けたあなたがたは、皆ハリストスを着たのである。もはや、イウデヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、ハリストス・イイススにあって一つだからである。もしハリストスのものであるなら、あなたがたはアウラアムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラティヤ3:26-29)。
教会の一致を目に見えるように表すために、また「聖神による一致」を体験するために、クリスチャンは「平和のきずな」のうちに生きなければなりません。謙遜で、穏やかで、忍耐強く、慎み深く、愛に溢れていなければなりません。クリスチャンが「召されたその召しにふさわしく歩」かないなら、教会の一致は目に見えるものとなりません。そのために、私たちは常に聖神によって教えられ導かれていなければなりません(エフェス4:1-3参照)。
教会の一致をどのように実践的に表わすのかを論じる中で、パウェルはハリストスの体にまたハリストスの体を通じて働く聖神の働きについて洞察を深めてゆきました。ハリストスから教会へ送られた「贈り物(gift)」としての聖神は、同時に教会にある様々な賜物(gifts、ないしはカリスマといわれる特別な能力)の源泉でもあります。パウェルは、それによって教会の全メンバーが聖なる司祭へと変えられる聖神の普遍的な授与とともに、定められた霊的な指導者を生み出す聖神の特別な授与について述べています(エフェス4:7-12)*[20]。聖神の普遍的な授与(五旬節における、使徒2章)を通して、教会全体が「ハリストスの贈り物」を受けます。教会のメンバーはそれぞれに彼自身の「賜物のはかり」に従って彼がクリスチャンとしての人生を歩むことを可能にする(ないしは、力づけられる)恵みを受けます。ハリストスが「あらゆるものに満ちる」のは、教会の全メンバーを「成聖の恵み」で満たす聖神のこの普遍的な働きを通じてです(エフェス4:10)*[21]。聖神の特別な授与によって立てられる霊的な指導者たち(使徒、預言者、主教、司祭、輔祭、教師、福音記者)は、ハリストスと聖神によって、教会がこの世界に向かってその務めを充分に果たせるように賜物を「贈られ」、みもとに「召され」、その役職に「叙聖され」ます(エフェス4:11-12;イオアン20:21-23)。
ティモフェイとティトに宛てた手紙の中で、パウェルは教会生活とその働きにおける叙聖された指導者たちの役割について詳細に述べています。主教、司祭、輔祭に召された者たちに求められるいくつかの人格的、道徳的な資質をあげ(ティモフェイ前3:1-13;ティト1:5-9)、指導者たちは教会のつとめを遂行するのに必要な「力と愛と慎みの霊」を按手(手を頭に置く儀式)によって受けると強調します(ティモフェイ後書1:6-14)。クリスチャンの聖職者は、もし彼がハリストスにあって神のためにその務めを成し遂げようとするなら、神の約束に根拠をおく道徳的、教理的な不屈さが必要になります。
クリスチャンの指導者たちにとって最も大切な仕事は、教会の信仰を実践し、守ることです。信仰を実践するとは、希望を神のみにおいて、「信心」(エフセビア 信仰深さ、敬虔)に従って生きることです(ティモフェイ前4:7-10)。真剣な信仰を土台にして正しく生きなければなりません。彼は「清い心」と「正しい良心」を持っていなければなりません(ティモフェイ前1:5)。彼の行いは愛と忍耐と柔和さと堅固さによって導かれていなければなりません(ティモフェイ前6:11、ティモフェイ後4:10)。また使徒から伝えられた信仰の保証である「健全な教え」を守り、維持していかなければなりません(ティモフェイ前1:10、4:6、6:14)。信仰を守るためには使徒たちからの伝統を忠実に守り、聖書の教えへにゆるぎなく立つことが必要です(ティモフェイ後3:14-17)。「真理の言葉」である使徒の信仰は正しく扱われ、忠実に解釈され、説き明かされなければなりません(ティモフェイ後2:15)。とりわけ主教と司祭は奉神礼で聖書を読みあげることを通じて、信仰の規則を人々に教え(ティモフェイ前4:13)、確信を持って福音を告げ、真実の信仰に充分に従っていない人たちを叱り、勧告しなければなりません。これを忍耐強く、しかし同時に手遅れにならないように「時が良くても悪くても」――ちょうどよい時であろうとなかろうと――行わなければなりません(ティモフェイ後4:2)。このように、牧者たる者はハリストスの体の霊的なまた道徳的な一致を守るためにたゆみなく貢献しなければなりません。
教会の働き
教会の仕事は、神がハリストスを通じて行われる世界救済計画の奥義を告げ、真剣に探し求める人々にハリストスの体を分かち合うことを可能にすることです(エフェス3:1-21;コロサイ1:24-29)。教会は神の救済の機密であり、至聖三者の救いの恵みが人類に手の届くものにする目に見える手段です。教会の宣教と教えを通じて、またその慈愛のわざを通じて、さらにその奉神礼と機密を通じて、教会は世界全体に「神の言葉を告げ広め」(コロサイ1:25)ます。神は教会に「知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教え」ることを命じます。それはすべての信徒を、ハリストスにあって成熟に至らせるためです(コロサイ1:28)。
パウェルは教会の普遍的な働きについて定義し、その上で「ハリストスの体」の機密的性格について語ります。彼は、洗礼はハリストスの死に「沈む」ことであり、またハリストスの死からの復活に与ることだと言います。「わたしたちは、彼の死にあずかる洗礼を受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかる洗礼によって、彼と共に葬られたのである。それは、ハリストスが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」(ロマ6:3-11、コロサイ2:11-15参照)。「再生の洗いを受け、聖神により新たにされて」(ティト3:5)*[22]、私たちは悪の力の支配のもとにあった「古い人」を脱ぎ捨て、「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人」(エフェス4:22-24)を着るのです。
聖体機密についてのパウェルの教えはコリンフ前書の10章16節と11章17-34節に述べられています。使徒は最後の晩餐でのハリストスによる聖体機密の制定を語り(11:23-25)、聖体機密のパンとぶどう酒を受けることは主の体と血を受けることであると言います(10:16)。そしてコリンフ教会の人々に、痛悔の心のない状態で成聖されたパンとぶどう酒を受けることは自らへの断罪を飲み食いするのも同然であると警告します(11:27-29)。
〔解説・補論〕聖体機密の制定については、共観福音書も伝えていますが。コリンフ前書に伝えられているものが、最も古いものです。
パウェルはまた他の二つの機密についても述べています。婚配機密と叙聖(神品機密)です。エフェス書の5章21〜33節で、夫と妻の関係がハリストス(花婿)と教会(花嫁)の関係の象りとして描写されます(黙示録19:1-10、21:2,9;コリンフ後11:2)。ティモフェイ前書3章1-13節、ティモフェイ後書1章6-7節、ティト書1章5-9節では、パウェルは叙聖の儀式によって受ける「神の賜物」の意義について述べます。教会の指導者に叙聖されることは、大祭司ハリストスご自身にあずかることです(ティモフェイ後書2:1;エウレイ4:14-7:28参照)。
パウェルの機密神学の要点は、教会が宣べ伝える「真理の言葉」に応え、教会の機密的なわざに与り、各人がハリストスご自身、そして至聖三者のいのちに結合するということです。教会の務めは、福音をすべての国々に伝えること、また「神の子ハリストス」へすべて信じる者たちを機密的に一体とすることによって成し遂げられます。
教会と成聖の過程
ハリストスがもたらした救いに完全に与るためには、各人はその信仰をハリストスにおき、神の意志に従って生きる努力をしなければなりません。聖神に「共働」することによって、クリスチャンは「神をよろこばす」「よい行い」が可能となります(エフェス2:10、5:10)。言い換えれば、クリスチャンは「信仰を実践」しなければならないということです。教会の祈りの生活、奉神礼の生活、機密的生活にあずかり(ロマ12:3-8;コリンフ前11-14章;エフェス1:3-4:16;ティモフェイ前2:1-7)、ハリストスご自身にならって道徳的に正しい生活を生きる努力を惜しんではなりません(ロマ12:1-15:3;コリンフ前6:9-20;ガラティヤ5:13-6:10;エフェス4:17-6:9;コロサイ3:5-4:6)。聖神の恵みによってクリスチャンが「成聖」されるのは、信仰の実践的な表現、よき行いを通じてなのです。そして成聖の過程を歩むことによって、クリスチャンはついにハリストス「神の子」と一つになり、神の永遠のいのちに与る備えを整えてゆきます(フェサロニケ前4:3;フェサロニケ後2:13-14;ロマ15:16;コリンフ前6:11)。かくして成聖は、全生涯に及ぶ道徳的、霊的な成長です。「それによって、信徒は自己中心的で罪深い我をますます死んでゆき、ハリストスと義にますます生きて」ゆきます*[23]。
成聖の過程での「信仰と行い」の関係についてパウェルが教えるところは込み入っており、しばしば誤って解釈されてきました。パウェルは「人は律法の行いによってではなく、イイスス・ハリストスへの信仰によって義とされる」(ガラティヤ2:16;ロマ3:20-4:25参照)と主張する一方、繰り返しクリスチャンに「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」(フィリップ2:12)、またハリストスを主とし聖神の力と導きによって成聖と義を求めて奮闘せよと勧告します(ロマ12:9-21;コリンフ前6:9-11;ガラティヤ6:7-10;エフェス4:17-6:9;コロサイ3:5-17参照)。
パウェルの成聖の教えのこの二つの次元は矛盾しません。「律法の行い」によらず信仰によって義とされると主張することで、使徒は、クリスチャンもまた律法学者やファリセイらの解釈にしたがってモイセイの律法を守らなければならないと主張するイウデヤ化主義者たちを拒否します。パウェルによれば、律法はハリストスによって成就されかつ乗り越えられ(ロマ10:10)ました。クリスチャンは主の完全な義を通じてイウデヤ教の律法主義のなわめから解き放たれました(ロマ7:1-6;ガラティヤ2-5章;コロサイ2:20-23)。しかし彼はイウデヤ化主義者たちとの論争の中で、神の前で「真の義と聖」を生きる努力を怠ってはならないことは決して否定しませんでした(エフェス4:24)。クリスチャンは「神の律法の外」にいるのではありません(コリンフ前9:21)。クリスチャンは煩わしい律法の規則や規定からは自由ですが、ハリストスが言明し、聖神の溢れる教会のいのちに明らかにされている「新しい戒め」、「ハリストス・イイススにおけるいのちの御霊の法則」のもとに生き始めました(ロマ8:2、コリンフ前9:21)。クリスチャンはたんにハリストスを信じるのではなくハリストスを生きることを求められます。真正な信仰は神の御心である「よき行い」に表現されます。誰もまったく彼自身の努力によって聖性と義を達成することはできません。人は神の恵みとハリストスへの信仰によってのみ、「信仰と行い」が分かちがたく結ばれている成聖の困難な過程に、聖神の賜物に助けられて歩みだすことができます。クリスチャンの生活は「愛において働く信仰」(ガラティヤ6:5)の生活です。
パウェルが成聖の過程について説くところは、正教神学とりわけ人間神化の教えの展開に重要な役割を演じました*[24]。聖神の鼓吹と導きによって教会が宣教する福音に人は応えます。しかし完全な回心に至る以前は、各人への聖神の働きは外からのもので、内面化されたものではありません。「みことばは私たちが聖神をうけられるように肉体をとった」*[25]というのはこのような意味においてです。聖神の経綸によって、神の意志に一致したいという私たちの欲求は内面的な力に変えられてゆき、神の意志は「もはや私たちの外側にあるのではなく」、聖神の働きによって「私たちの人格の内に」あるものとなります。この聖神の内在(あふれ)が成聖の過程の基礎にあるものです*[26]。
成聖の過程を通じて、「腐敗堕落した人間本性」は変容され、永遠のいのちにふさわしいものとされます*[27]。信徒のこの変容は自動的なものでも強いられたものでもありません。信徒は「聖とされる」ために、すすんで聖神と共に働かねばなりません。神の恵みと人間の自由との間には矛盾はありません。人となった神の子ハリストスにあって、神の意志と人の意志は結びつけられ、協力関係にあるものとなりました。かくして恵みと自由意志はハリストスにあって生きる者の内にあって調和して共に働きます。神の意志と人間の意志が協力し、神の主権と人間の自由が一致します。この「共働」、神への自由な協力が「よき行い」の形而上学的な基礎であり前提です。このように、恵みと自由のあやまった対極化によって生じた信仰と行いの区別は、何の意味もありません*[28]。
〔解説・補論〕「恵み」か「自由意志」かという問題は、アウグスティン以来西方の神学の論争点となってきました。プロテスタントの内部でも、自由意志をまったく否定する人たちと自由意志を肯定する人たちが対立してきました。正教会ではついにこの対立は問題となることはありませんでした。恵みが豊かにあればあるほど人はいっそう自由であり、人が自由であればあるほどそこにある神の恵みはいや増しに輝くのです。
内面化された聖神の恵みによって、クリスチャンは「信仰、希望、愛」(コリンフ前13章)に生きる力を与えられます。成聖されるためにはクリスチャンは聖神に協力しなければなりません。そのような協力(共働)は、既に見たように、信仰と教会の一員であるということによって、人がハリストスに組み込まれてはじめて可能となります。なぜならハリストスと一体となってこそ、信徒は、神父の意志に自由にかつ完全に従ったハリストスの人間性を分かち合うことができるからです。これによって、クリスチャンは、聖神の恵みのなかで示される神の意志に、自由に完全に従うことができます。聖神の恵みに協力するかぎり、クリスチャンは成聖されます。すなわち、ハリストスへの信仰に基づくよき行いによって「恵みの内に成長」します。そして、この道徳的霊的な成長によって、クリスチャンは神との交わりにより深く入ってゆくのです。機密的な用語を用いれば、成聖の働きを通じて、「洗礼と傅膏」(再生)の機密で可能性として与えられた神との関係が実現します。成聖の働きを通じて、神との結合という事実が現実化され体験されるのです。かくして神は藉身したハリストスにあって人と一つになり、人は聖神の成聖の働きによって神と一つになります。この成聖の過程がクリスチャンにハリストスの変容、復活、昇天、父の右への着座に与ることを可能にします*[29]。
人が聖神の導きを意図的に拒絶するなら、ハリストスを信じていると言っても無意味であり、信徒とは呼べません。ハリストスをほんとうに信じている限り、人は成聖の過程でしくじることはあり得ません。ハリストスを信じる者は、聖性と義に向かって努力しなければならないし、また努力するに違いないということです。悪に対する、この世に対する、そして自分自身に対する戦いに携わるということは、成聖の働きをなす聖神に協力するということであり、よき行いとして示されるその協力はハリストスへの信仰が内からあふれ出てきた結果です。聖神の恵みを受け入れ、それに協力するということは、実際、キリスト教の信仰生活に必要不可欠です。「行いのない信仰」は意味のない言葉です。聖イアコフは、譬えとしてではなく文字通り「行いのない信仰は死んでいる」(イアコフ2:26)と言っています。よき行いのないところには信仰はありません。
マルティン・ルターとその追随者たちのいうところに反し、「信仰のみ」によっては神の目に義とはされません*[30]。私たちはよき行いによって表現される信仰によって救われます。よき行いと徳は「クリスチャンの生活の特徴でありその外面的な顕れ」*[31]です。
聖使徒パウェルの教えに従って、正教会は、人間は聖性にむかって努力することを通じて聖神に協力しなければならないと宣言します。私たちが聖神の導きに自由に心から応えるなら、聖神は成聖の過程によって私たちに罪と死に対する勝利をもたらし、至聖三者のいのちへと私たちを引き上げてくれます。よき行いによって私たちは救いに値するとされるのではありません。心をつくし、思いをつくし、精神をつくして「ハリストスの経綸」と「聖神の経綸」のうちに神が私たちに与えた「第二のチャンス」に応え、救いを自らのものとするのです。
教会と人の栄化
教会における聖神の教化、成聖の最終的な目的は、ハリストスの体のすべてのメンバーが、「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、ハリストスの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エフェス4:13)ことです*[32]。聖神の働きの内において、またそれを通じて、ハリストスを信じる者は「神の子への信仰による一致」*[33]を実現します。私たちがなすべきことは、パウェルによれば、不安定で混乱していて、影響されやすい子供であることを――信仰が未熟で、人生の嵐にもてあそばされ、様々な「教えの嵐」の異端にまどわされることを――やめることです。そして真理を告白し堅く守ることを通じて、愛の実践を通じて「成長」し、ハリストスのあらわす「完全な人間のあり方」に到達することです(エフェス4:13-15)*[34]。私たちは「ハリストスに見いだされる人間の完全な高さ」*[35]に達することを求められます。そしてハリストスが送って下さる聖神の賜物によってそれを成し遂げることができます(エフェス4:7-10)。私たちは教会――ハリストスのからだ――の中で、教会を通じて、「ハリストスへと成長」しなければなりません。教会は「それをもたらす源泉」としてのハリストスに依存し、そのかしらであるハリストスに向かって成長します(エフェス4:15-16)*[36]。ハリストスは教会の霊的成長の源泉でありまた同時に目的地でもあるのです。
成聖の過程は最後にはハリストスにおける人間の栄化(「神化」)に達します。信仰によって、「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イイスス・ハリストスにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(ロマ5:1-2)。成聖の過程を通じて「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリンフ後3:18、同4:6参照)。聖神に力づけられて、私たちは「神の右に」「ハリストスとともに上げられ」ます。なぜなら真のクリスチャンはこの世に対して、「肉」に対して、悪魔に対して死んでいるからです。その全生涯は「神のうちに隠されて」おり、「わたしたちのいのちなるハリストスが(再臨して)現れる時には、あなたがた(真のクリスチャン)も、ハリストスと共に栄光のうちに現れる」のです(コロサイ3:1-4)。
〔解説・補論〕「栄光から栄光へ」は、かぎりなく、とどまることなく、この世を去った後も、神の国に復活して後でさえ無限に神に接近してゆくという正教のダイナミックな救済論の本質を最も的確に言い表すことばです。
教会を通じて、信仰で結ばれた信徒はハリストスにあって一体です。ハリストスは聖神を通じて、すべての信徒を「ハリストスの体」の教化に、ハリストスの体を打ち立てるための働きに熟達させようと聖職者の組織を教会に設けました。この訓練と教化のめざすところは、教会全体(「体」)によって、唯一の「神の子についての知識」にもとづく一致した信仰に達することです。この信仰の一致が達せられたとき、教会のすべてのメンバーは、それぞれが「ハリストスに見いだされる人間の完全な高さに達し」、ハリストスの完全な人間性へと「成長」するでしょう。これは、ハリストスにあって完全な成長に達するためには教会を離れてはならないということです。また教会にあってのまた教会を通じての信徒の一致は、より高い一致の達成に先行する段階、またそのための手段であると言えるでしょう。そのより高い一致とは、教会のハリストスへの一致、ハリストスに見いだされる完全な人間のあり方への一致です。私たちはハリストスとして作り上げられるために、「教会」に作り上げなければなりません。そしてハリストスに作り上げられるということは、至聖三者の神的な永遠のいのちに完全に結合すること、すなわち神との交わりに入ることです。教会にある至聖三者のいのちによって、神の言葉が藉身したときに始まった人間の神化が、完成へと向かいます*[37]。
ハリストスの再臨と全死者の復活
ハリストスの救いについての使徒たちのメッセージは、基本的に、神の救いの計画を完成させる「最後のこと」を指し示す「終末論的な」ものです。聖書の教える終末論の中心は神の国の到来です。旧約の預言者たちは、「最後の日々」に神はイズライリとこの世を天の王国で行われる偉大なる審判の日に備えさせるために、メシヤを遣わすだろうと預言しました*[38]。新約聖書記者たちはナザレトのイイススをイズライリが待望してきたメシヤの到来として理解しました。ハリストスの最初の来臨、すなわちその生涯、死、復活そして昇天により、神の国はすでに到来しました。世界史における「最後の日々」――教会の時代――、ハリストスに従う者たちを神の経綸の大詰めに備えさせるため、聖神が彼らに注がれました(イオイル2:28-32、イエゼキイリ36:24-28、使徒2章参照)。ハリストスは二度目の来臨の時には、すべてを結実させるでしょう。主の再臨に引き続き、全死者が復活され、最後の審判がなされ、神の国が打ち立てられます。
新約聖書の他の文書同様、パウェルの手紙には、初代教会の使徒たちの共同体に溢れていた終末的な精神が浸透しています。パウェルはハリストスの昇天と再臨との間の期間を、緊張と葛藤の期間として位置づけます。そこで神の民は、悪魔とその配下の悪霊たちとの戦いに四つに取り組まなければなりません(ロマ12:12; コリンフ後4:4、11:14、12:7; )。教会は悪の支配から解放されましたが、その闇の力との戦いは「我らの主イイスス・ハリストスの日」まで続きます(エフェス6:10-20、コリンフ前1:8)。
〔解説・補論〕次のパウェルの言葉は、忘れることはできません。
「わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(エウレイ12:1-4)
「教会の時代」が終わるまで、サタンはハリストスの弟子たちに対して死にものぐるいの戦いを続けるでしょう。一人の「不法の者」「滅びの子」が現れ、「偽りと惑わし」のために悪魔に力づけられるでしょう(フェサロニケ後2:3,9)。この「反ハリストス」(1イオアン2:18,22)が世を支配し自らを神と名乗るでしょう(フェサロニケ後2:4,9)。悪魔的な世の支配者――「滅びの子」――の「不義の惑わし」によって、教会の内外を問わず多くの者が惑わされて、間違ったことを信じ不義を喜ぶようになります(フェサロニケ後2:10-12)。この欺かれた人たちは「救いとなるべき真理」を拒絶し神を離れ、断罪されるでしょう(フェサロニケ後2:10-11)。パウェルはまた、この期間ハリストスに忠実であり続ける人々は厳しい迫害と艱難をうけるであろうと言います(ロマ8:35;マトフェイ24:15-28)。
ハリストスの再臨は悪の支配に終止符を打ちます。パウェルは「主の日」を突然の「到来」(ギリシャ語で「パルーシア」)、「覆いをとること」「暴露」、また「啓示」(ギリシャ語でアポカリプシス)、そして「顕現」(ギリシャ語でエピファネイア)と呼びます(フェサロニケ前3:13;フェサロニケ後1:7;ティモフェイ前6:14)。「主の日は盗人が夜来るように来る」(フェサロニケ前5:2;フェサロニケ後2:8;フェサロニケ後1:7-10)。予期せぬ時に突然、反ハリストスと彼に従う者たちは完全に滅ぼされてしまいます。「その日」が突然に来ることから、パウェルは信徒の指導者たちに主が戻ってくるときに備えて、信仰をしっかり保ちいつも目覚めているようにすすめます(フェサロニケ前5:1-11)。
ハリストスが再臨するとまず全ての死者が復活させられます。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、ハリストスにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(フェサロニケ前4:16-17)。はっきりとは言っていませんが、パウェルは「ハリストスにあって死んだ者」のみならずすべての死者がハリストスの再臨の時復活させられると考えていました。なぜなら彼はしばしば最後の審判に言及しているからです(ロマ2:1-16、14:10-12;コリンフ前4:5;コリンフ後5:10;ガラティヤ6:7-10;フェサロニケ後1:9;ティモフェイ後4:8)。最後の審判では、ハリストスに忠実であった者は光栄に入れられ(コロサイ3:1-3)、背教や公然たる福音の拒絶によってハリストスに従わなかった者たちは神の臨在と光栄から永遠に切り離されて苦しむことになります(ロマ2:8;フェサロニケ1:8-9)*[39]。
パウェルは死者の復活について、コリンフ前書15章で最も踏み込んで論じています。*[40]そこではパウェルは不信者の復活については述べず、代わりに救いを得た者たちの復活に注意を集中します。全死者の復活についてのクリスチャンの信仰の基礎は、ハリストスご自身の復活にあります。使徒たちの証言は「ハリストスが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリンフ前15:3-4)です。この古くからの信仰告白定式文を引用するに際し、パウェルは使徒たちや弟子たちの、またダマスコへ向かう途上よみがえりの主と出会ったパウェル自身を含めた復活の主との出会いについても言及しています(コリンフ前15:5-11)。
ハリストスの復活によって、全人類は「墓」から解放されました。パウェルは「もしハリストスがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(コリンフ前15:14)と主張します。その復活によって証されたハリストスの罪と死の力への勝利なくしては、人類は神の愛といのちから切り離されたままであり、罪と死のくびきのもとに組み敷かれ続けたであろうからです(コリンフ前15:17-19)。もしハリストスに対する私たちの希望が自然的生活(この世)の平安と繁栄にすぎなければ、私たちは「すべての人の中で最もあわれむべき存在」となります。なぜなら、この世でのよきことはいつでも悪によって腐敗させられ、私たちの自然的生活はたえず死の必然とそれに伴う徴候(肉体的弱さ、病、老い、――コリンフ前15:18-19参照)につきまとわれているからです。パウェルにとって、主の復活はクリスチャンの信仰の中心であり私たちが悪の力から究極的に解放される希望にとって不可欠のよりどころなのです。もし、その信仰と希望が実体のないものであれば、私たちはその時々の快楽に身を委ねて生きるほかないでしょう。「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」(コリンフ前15:32)。
パウェルはさらに、ハリストスの復活、全死者の復活と神の国の到来の関係について論じます。アダムの罪によって、可死性が人間存在の永久の条件となってしまいました。しかし、ハリストスにあって、人類は可死性の呪いから解き放たれました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、ハリストスにあってすべての人が生かされるのである」(コリンフ前15:20-22、ロマ5:12-21参照)。ハリストスを信じ、ハリストスの教会に結ばれた人たちにとっては、全死者の復活は神の国の永遠のいのちの光栄に入れられることです。主の再臨にあたって「ハリストスに属する者たち」は神父の力と臨在の中に主と共に復活させられます(コリンフ前15:23-28)。最後の審判に続いて、神の国が神の民の永遠の住まいとして打ち立てられます。神とその被造物はついに完全に再結合するのです(コリンフ前15:24-28)。
パウェルはまた、復活した私たちの体についても論じています。全死者の復活の時、ハリストスにあって死んだ者たちの体は変容されます。自然の体が復活の体へと、ちょうど植物の種とその芽生えて成長した姿との関係のように、変えられます。「種と植物には連続性がある。しかし少しも似ていない」*[41]。「まかれたものは滅びるが、よみがえったものは滅びない」のです。自然の肉体は人間の神からの乖離のしるしとして「卑しいものとしてまかれ」ますが、それは「光栄あるものとしてよみがえる」のです。「弱いものでまかれ、強いものによみがえる」「肉の体でまかれ、霊の体によみがえる」(コリンフ前15:36-37、42-44)のです。ハリストスにあって、私たちはアダムから受け継いだ可死性から解き放たれ、神の臨在の内によみがえり、私たちが今知っているのとは根本的に異なった存在の地平に生きるようになります。「わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとる」のです(コリンフ前15:45-49)。ハリストスにあって、私たちの人間性は変容され神化され、私たちの体は造りかえられ神の聖神に満たされたのです。
〔解説・補論〕アダムはエウレイ語で「土」を表す「アダマー」から派生した名前です。
ハリストスの再臨の時、死者はよみがえり、信じる者たちは新しい存在の水準に移されるでしょう。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
〔解説・補論〕正教徒になじみ深い復活祭で読み上げられる金口イオアンの説教がこのパウェルの言葉をふまえていることをもう一度想起してください。
「…死よ、爾の刺は安にか在る、地獄よ、爾の勝は安にか在る。
ハリストス復活して、爾は墜ちたり。ハリストス復活して、悪魔は仆れたり。
ハリストス復活して、天使等は歓ぶ。ハリストス復活して、生命は凱旋す。
ハリストス復活して、死者は一も墓に在らず、
蓋しハリストス死より復活して、死せし者の中に初実と為れり。
彼に光栄及び権柄は世々に帰す、アミン」
ハリストスの勝利によって、すべて信じるものは罪と死のさだめから解放されました(コリンフ前15:56-58)。ローマ人への手紙の中でパウェルは「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ロマ8:18)と書いています。再臨の時、教会が神の子ハリストスの内によみがえるとき、「ともにうめき」「切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んで」いた全被造物は「虚無」と「滅びのなわめ」から解き放たれるでしょう。「イイスス・ハリストスの日」、世界それ自体が変容されます。その日以来、ハリストスを信じる者たちは永遠に神の内に生きます。「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主ハリストス・イイススにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはでき」(ロマ8:38-39)ないのです。
この章では、聖使徒パウェルの手紙の主要な主題についてみてきました。パウェルは人類と世界に対して至聖三者の三つのペルソナによって実現される神の救いの計画について教えています。人間は根本的に救われなければなりません。それは、堕落状態の中で、罪と死の力、霊的無知、悪魔の専制の下に人は服さなければならないからです。神の子がイイスス・ハリストスに藉身したこと、ハリストスの働きを通じて、悪の力からの贖い、罪の赦し、神との和解がさしだされました。そして「ハリストスの体」教会の中で、また教会を通じて聖神が働くことによって、人は教化、成聖、神化(栄化)の賜物を受けることができるようになりました。ハリストスにある、教会にある、聖神の力の内にある生活を生きることによって、人は最後の日、死からよみがえり、完全な神の像と肖へと変容されるのです。
*[7] John Meyendorf, Byzantine Theology : Historical
Trends and Doctrinal Themes(Fordham
University Press,1976) 143-6
*[12] 彼ら自身の祭儀的密儀宗教から、初代教会時代の異教の文化は「死んでよみがえる神」の主題については精通していた。異教世界に不快感を与えたのはキリスト教の神秘主義ではなく、むしろ「イイスス教団」のイウデヤ教的色彩であった。密儀宗教とキリスト教の関係については Kesich, The First day of the New Creation,38を参照
*[28] 参照 Henry Bettenson ed, TheEaly Christian Farther(Oxford University Press, 1963),98-9; The Later Christian Farthers(Oxford University Press, 1974) 35,60-2,101-2,145-6
*[29]
正教会の見方では、「よき行い」はキリスト教に特有のある信仰の中でのみ可能です。サーロフの聖セラフィム(1759-1833)の言葉に「ハリストスの名によって行われない行いは私たちを来るべき世のいのちにふさわしいものにすることもないし、この世の生活の中で神の恵みを獲得させることもない」。ロスキーによればクリスチャンにとっては自律的な善などというものはない。行いは私たちの神との結びつきを深めるものである限りにおいて、恵みを私たちのものとする限りにおいて善である。(前掲書197;ロマ14:23)