第5章 共観福音書のメッセージ マトフェイ、マルコ、ルカ
新約聖書は七十人訳旧約聖書と同じくギリシャ語で書かれています。「約(テスタメント)という語は、ギリシャ語で「契約」を意味するdiathekeの訳です(ラテン語ではtestamentum)。旧約聖書が神と古代イズライリとの間の旧い契約について語るのに対し、新約聖書は神と新しいイズライリ――キリスト教会――との間の「新しい契約」について語ります。古代イズライリの預言者たちは既に見たように、メシヤの到来と、神とその忠実な民との間に新しい契約が打ち立てられることを待ち望んでいました。そして新約聖書によれば、ナザレのイイススがそのメシヤ(ハリストス)でした。イイススこそ旧約の約束と預言が「総括され、固められ、超えられた」*[1]神であると同時に人である王でした。
この新しい契約は、イイススをハリストス・救い主と認め、自らの人生の主としてイイススに従う者に救いを約束します。「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」(エウレイ〔ヘブライ〕1:3)であるハリストスにあって、まず最初に旧約に示された神の救いの約束が成就しました。ハリストスは藉身した神の子であり、世界に救いをもたらす「新しい契約の仲保者」(エウレイ9:15)です。そして人類は神の恵みによって、信仰と従順さを持ってハリストスに応えるように呼び掛けられています。その呼び掛けに応える者こそが「救いの相続者、契約の民、…新しいイズライリ」*[2]です。これこそ新約聖書の中心的なメッセージです。
新約聖書の成り立ち
新約聖書は27の文書によって構成されています。すなわち、聖マトフェイ、聖マルコ、聖ルカそして聖イオアンによる福音書、ルカによって初代教会の歴史がつづられた「聖使徒行実」、聖パウェルと他の使徒たちによる21の書簡(書札)、世界に対する神のわざの最終的成就についての幻像を述べるイオアンの黙示録(Apocalypse ないし Revelation)です。これらはみな古典期のギリシャ語ではなくヘレニズム時代に共通語として用いられたコイネーというギリシャ語で書かれています。福音書は書簡の大部分が書かれたのより後の時代にまとめられました。パウェルの書簡の大半――おそらくイアコフ書、ペトル書、イウダ書も*[3]――が紀元65年までに書かれています。一方、4福音書は65年から90年の間、聖使徒行実は第2世紀においては、福音書が「ハリストスの生涯についての4つの記録としてまとめられていったのに対し、切り離されて単独の書として扱われていた」*[4]のです。イオアンの書簡と黙示録は90年から95年にかけて書かれました。
〔解説・補論〕福音書が今日のように一冊の本にまとめられるようになったのは3世紀初め頃ではないかといわれています。それまでは、書物が巻物であったということもあり、それぞれ別々の本でした。ただ「重要性」その他の理由でかなり早い時期から、福音書に言及するときマトフェイ、マルコ、ルカ、イオアンの順番が定まっていたようです。たとえば共観福音書の中では使徒が書いた「マトフェイ」を第一に、使徒の直接の弟子が書いたマルコ、ルカを第二に、そして使徒が書いたものであるが、共観福音書の補足的な内容、また出来事の霊的な意味を説いたものとして性格の異なるイオアンは最後におかれたのだというような理由付けもあったようです(田川健三「書物としての新約聖書」勁草書房、田川建造氏は正統的キリスト教には真っ向から対立する方ですので、一定の留保を以て読まねばなりませんが、この「書物としての新約聖書」は新約聖書に関する具体的な歴史や事実について網羅的に非常に詳しく説かれています)。現代の聖書学者の意見では「旧約との関連性が最も強く打ち出されているマトフェイ」を第一に持ってきたという見解(オスカー・クルマン「新約聖書」白水社)が目につきました。
使徒たちと他のハリストスの直接の弟子たちが生きていた頃に、聖書といえばギリシャ語訳の旧約聖書(LXX)を意味しました。教会は、旧約聖書の啓示を使徒たちの伝えたハリストスの人格とみわざについてのメッセージに基づいて解釈しました。使徒たちが記憶していたハリストスの生涯での主要な出来事は、その教えとともに第一世紀の半ばには彼らの説教に組み込まれていました。この口承伝承は「主から使徒たちに、使徒たちからその使信を受けて改宗した人々に」*[5]受け継がれてゆきました。やがて、「使徒たちからの伝承」(Apostlic
Tradition)は、早い時期から集められていた「イイススの言葉集」、教えのための啓蒙文書、教会の礼拝で用いられる奉神礼のテキスト、そして教会の主要な人々が書いた手紙などの中に書き留められるようになってゆきました。使徒たちが年老い、また永眠していくにつれて、彼らの証言を文書にして残すことがますます必要になってきました。この必要性をはずみとして、四つの福音書とその他の文書が第一世紀の後半に書かれ、残されていたパウェルの手紙(エウレイ書を除く)が80年から85年の間に集められました。
使徒たちからの伝承を文書化するに当たって、当初教会は聖典とみなすための特別のカノン(基準)を設けませんでした。しかし1世紀の終わり頃から2世紀初頭にかけて、キリスト教とキリスト教まがいの文書が急増し、使徒的な権威を持っていると自称する異端的な運動が起きてくるようになり*[6]、初代教会の多くの師父たちは「新約聖書」として集成されたカノン(正典)を定めることを模索し始めました。その際、ある文書が正典であると認められるためには次の三つの要件を満たす必要があるとされました。
(1)使徒か使徒の直接の弟子によって書かれたものであること。
(2)少なくとも一つの、初代からの指導的な教会共同体によって、真正なものと認められていること。
(3)使徒たちの教え――教会の生きた伝承の中で保ち続けられてきた信仰の規則――に一致していること。
2世紀から3世紀にかけて、リヨンの聖イリネイ、ローマのヒッポリタス、テルトリアン、アレクサンドリヤのクレメンス、オリゲンらによって新約聖書正典という考え方が確立してゆきました。しかし、その正典にどの文書を含めるのかについては議論が続きました。4福音書、聖使徒行実、パウェルの書簡、ペトル前書、イオアン第一公書が正典であることについては一致していましたが、エウレイ書、イアコフ書、イオアン第二公書、イオアン第三公書、イウダ書、黙示録については正典性を疑う人たちがいました。また教会著作家たちの中には最終的には正典から排除された文書――たとえば、「ヘルマスの牧者」、「ワルナワの手紙」、「ペトルの黙示録」――を正典と見なす人たちもいました。*[7]
しかし、4世紀までに教会は新約聖書の構成についての議論に決着をつけ、正典確立の過程に終止符を打ちました。アレクサンドリヤの聖アファナシイは彼の復活祭書簡(367年)で、今日私たちが知る新約聖書の27の文書を「これらの他には正典はない」と宣言しました*[8]。またヒッポの聖アウグスティンの主張により、397年カルタゴの公会議はアファナシイの宣言に一致した布告を出しました。その時以来、神の霊感を受け使徒の証言にもとづいて書かれたものとして、新約聖書はすべての正統的なクリスチャンに教会の聖伝の中心的かつ規範的表現として受け入れられてきました。
四福音書
新約聖書の最初の部分は四つの福音書です。「福音」を表す英語のゴスペルGospelという言葉は「よい物語」「よいニュース」をあらわす古代英語が現代語化したもので、ギリシャ語で「喜ばしい知らせ」を意味するエヴァンゲリオンの翻訳です。エヴァンゲリオンはイイスス・ハリストスによる救いについての「喜ばしい知らせ」、使徒たちと他のハリストスの弟子たちの説教で宣言される「うれしい報知」をさし示すものとして新約聖書全体で用いられています。
新約聖書は「福音」(エヴァンゲリオン)という言葉を一度も複数形(エヴァンゲリア)で用いていません。なぜなら、救いのメッセージはたった一つしかないからです。しかし、使徒たちがハリストスの教えやみわざについて書き残した救いのメーッセージは、エヴァンゲリア、またGospels と呼ばれるようになっていきました。新約聖書には「聖マトフェイによる福音書」「聖マルコによる福音書」「聖ルカによる福音書」「聖イオアンによる福音書」が含まれています。一つの使徒的な信仰にもとづいて四つの異なった書に宣言された一つの福音です。福音書の記者たちは「取り上げ方や表現は互いに異なるが、教会の伝統を分かち合い、一つの『教会の信仰』に結ばれている点で完全に一致している。教会の信仰とそこで分かち合われている生活は彼らがどの資料を取り上げ、どう編集するかについての基本原則を提供」しています*[9]。
「福音書が伝えるハリストスのイメージ」(“The Gospel Image of Christ”)で 著者ヴェセリン・ケッセージ教授は「福音書の成立過程における三つの段階」について次のように述べています。
まず最初は、ハリストスの生涯とそのみわざ、「わたしたちの間に成就された出来事」(ルカ1:1)そのものです。第二の段階は「親しく見た人々」「御言葉に仕えた人々」(ルカ1:1-2)によってこれらの「出来事」が受け渡され伝達されてゆく段階です。これはハリストスの復活後の使徒たちの働きです。…最後が福音記者たちによって福音書が書かれる段階です。*[10]
ケッセージはさらに古代教会はためらいなく第一と第四福音書が聖使徒であったマトフェイとイオアンの手になると見なしていたこと、第二と第三の福音書の記者が聖使徒ペトルの弟子マルコと聖使徒パウェルとともに伝道に携わったギリシャ語を話す医者ルカに帰されていたことを指摘します*[11]。リヨンの聖イリネイ(†200)は、マルコによる福音書は聖使徒ペトルのハリストスについての説教の要旨を含み、ルカによる福音書はパウェルによって宣言された救いのメッセージの表現であったと言います*[12]。このように教会の伝統の中で四福音書の使徒的な起源と権威が疑問視されたことはありませんでした。
マルコによる福音書は65年頃ローマで書かれました。この書は、旧約聖書への言及がかなりあるとは言え、明らかに異邦人からの改宗者たちに向けて書かれました。マルコ福音書の主要な目的は、イイススを十字架にかけられた救い主「イズライリの希望の成就者」*[13]として示すことでした。マトフェイとルカによる福音書は第1世紀の70年代の早い時期に書かれました。マトフェイの福音書はシリヤのアンティオキヤでユダヤ人からの改宗者たちに向けて書かれました。その中心的な主題はイズライリが待望したメシヤの到来が、イイススというお方とそのみわざに実現したことです。ルカは一つの書の二つの部分として福音書と「聖使徒行実」を書き、イイススの伝道と、使徒たちに導かれた初代教会の歴史を伝えました。ギリシャの南部地方で、基本的にはキリスト教に改宗したギリシャ人に向けて執筆され、ハリストスにおいて救いはイウデヤ人のみならず全人類に可能になったと、キリスト教の福音の普遍的な意義を強調しました。イオアンの福音書は小アジヤのエフェスで第1世紀の遅い時期(85-90)に書かれました。彼の福音書の中でイオアンは私たちに「ハリストスとは誰であるか、世界にとって、教会にとって、そして私たち一人一人にとってハリストスはどんな意味を持つのか」*[14]について教えています。
福音書は使徒によるハリストスの救いのメッセージが記録されたものです。四福音書には使徒たちからいくつかの異なった流れによって伝承されてきた内容が複合されています。第一、第二、第三福音書は共通の伝承資料に基づいているように思われます。一方、イオアンによる福音書はマトフェイ、マルコ、ルカが用いなかった伝承を基礎とし、構造も内容も他の三福音書と異なります。マトフェイ、マルコ、ルカの福音書を総称して「共観福音書(synoptic Gospels)」と呼びます。「その内容を三つの覧に平行して並べて見ると、それら三つはハリストスの出来事を描写しその御言葉を記録するのに同じ様式と、しばしばまったく同じ言葉を用いていることに気づく」*[15]からです。この章では、三つの共観福音書の内容と神学的な意義について論じ、次の章でイオアン福音書を見てゆきます。
〔解説・補論〕教会美術には四つの福音書ないし福音記者を四つの生き物になぞられる伝統があります。このなぞらえについての最も古い言及は二世紀のリヨンの聖イリネイによるものです。すなわち、獅子がマルコ、牛がルカ、人間の姿がマトフェイ、鷲がイオアンです。
共観福音書の共通の構造
現代の聖書学者の大多数は四福音書のうち最も古いのはマルコによる福音書であるという点で一致しています。またマルコによる福音書がマトフェイとルカの福音書がまとめられるとき一つの資料として用いられたことも広く認められています。マトフェイの福音書には1068節ありますが、このうちの500節は673節あるマルコ福音の606節に対応しています。ルカの福音書の1149節のうち、380節がマルコ福音から言葉通りに受け取られています。マルコの福音書でマトフェイにもルカにも取られていないのはたった31節だけです。
またマトフェイとルカには、ほぼ250節に及ぶマルコにはない共通の部分があります。「しばしばこの共通の部分は実際に同じ言葉で表現されているが、また一方でかなり異なった表現になっている場合もある」*[16]。ほとんどの聖書研究者たちは、マトフェイとルカに共通しマルコにはない諸節は以前から存在した「Q」と呼ばれる文書からとられたと結論づけています。Qはドイツ語で「源泉」を意味するQuelleの頭文字です。これは、おそらくマトフェイが彼の福音書をまとめる前に集めた、イウデヤ、シリヤ、小アジア、ギリシャの各地の教会で一般に流布していた「イイススの言葉」の集成です*[17]。マトフェイとルカは別々に働きましたが、彼らはともに、それぞれの福音書に「Q」に含まれる材料を編入しました。
さらに、マトフェイの福音書には他の福音書にはないほぼ300節が、またルカにはルカ独自の520節が含まれています。これらの独自の材料はそれぞれ「M」と「L」と呼ばれます。その由来は不明です。しかし多くの学者は「M」はイウデヤの教会に伝えられてきたイイススについての伝承であり、「L」はカエサリアの教会に保たれてきた伝承ではないかと考えています。「M」と「L」が口承伝承であったか文書化されていたかについては、現在の所、聖書学者たちの間でも未解決です。
共観福音書は伝記的なスタイルで書かれています。すなわち、使徒たちによる救いのメッセージは、イイススの生涯の主要な出来事を時を追って説明することによって示されます。しかしそれらは、実際には、完全で学問的なハリストスについての伝記ではありません。そこでは主の三十才までのことについてはほとんど語られていません。また主の外見的特徴も、教育の過程も、精神的な成長についても描かれていません。もっぱら、主の生涯の中から人類と世界の救済に決定的であったできごとに集中して述べています。共観福音書はイイススとは誰であり、何を言い、何を行ったのかを語り、その人格と教えと行為によって人類の悪と死からの救いがどのように現実になっていったのかを明らかにしようとします。ケッセージ教授は次のように言っています。
福音書は正確な描写ではなくイイススのイメージを、また写真ではなく肖像画を提供しようと意図している。…福音書はしばしばイコンに比較され、言葉によるハリストスのイコンと呼ばれてきた。このイコンないしイメージは福音記者たちの非凡な創造的才能の産物ではない。むしろ、彼らが依拠し、彼らが分かち合い、彼らがそこに材料を求めた「伝承」から生まれたのである。*[18]
ですから、共観福音書はイイススのこの地上での働きの神学的な解釈、使徒たちの救いの宣言を文書にしたものなのです。その究極的な目的は、主の生涯についての伝記的な研究ではなく、神のあがないのご計画がハリストスというお方とそのみわざに成就したことを証しすることです。
共観福音書はイイススの生涯のうち二つの期間だけを語ります。マトフェイとルカは主の誕生と幼年時代についてのまとまった記録を提供してくれます。また、三つの福音書のすべてがハリストスの地上での生活の、伝承によれば最後の三年間にわたる公けの伝道(「公生涯」)について詳しく伝えます。共観福音書は全体として、主の幼年時代について述べると、その後公生涯の開始に至る間のことについては実質的に何も語っていません。唯一の例外がルカ2:41-51に見られる、主が十二才の時イエルサリムの神殿でラビたちと議論をした記録です。この話を別にすれば、私たちが知り得るのは「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)ことと、やがて若者となった「イイススはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカ2:52)ことだけです。
伝承によれば、主が十字架にかけられたのは三十三才の時のことでした。それならば、共観福音書は主の生涯のおよそ三十年間については、実際上何も語っていないことになります。これらの「語られざる歳月」また「準備のための歳月」に、疑いもなく神の子は「父」と聖神とともにご自身の公的な伝道に準備していたはずです。しかし、これらの年月の間に実際に何があったのかについては明らかにはされませんでした。確かに、古代の外典文書にはハリストスの子供時代や青年時代の出来事が記されたものがあります*[19]。しかし教会はそれらの書を霊的に危険で異端的な文書であると繰り返し排除してきました。正教会の立場からいえば、罪と死のなわめから救われるためには、ルカとマトフェイが伝えているハリストスの幼年時代の物語で充分なのです。
〔解説・補論〕新約外典文書のなかには「イアコフの原福音書」のように、そこで述べられている出来事が生神女の諸祭日などの根拠を提供する聖伝として大切にされてきたものもありますが、当時の異端派であったグノーシス主義者たちが自説を裏付けるためにこしらえあげた文書がたくさん含まれています。たとえば「トマスによるイイススの幼時物語」では、イイススの超自然的能力がひたすら強調され、ほとんど奇跡物語集となっています。イイススの救いの本質はその超自然的能力による奇跡にはありません。初代教会は、そのような誤解を避けるためにも、これらの荒唐無稽な文書を排斥してきました。
ハリストスの誕生と幼年時代
紀元前63年以来、中近東は実質的にローマの支配のもとにありました。ローマを後ろ盾にして、イドメヤ人の子孫であって名目的にイウデヤ人であるにすぎない*[20]イロド大王が紀元前37年から紀元前4年の死までパレスティナを「イウデヤの王」として支配していました。イイススは「ダヴィドの町」、イウデヤのヴィフレエム(ベツレヘム)で、イロド大王の晩年に生まれました(マトフェイ2:1、19)*[21]。
ハリストスの奇跡的な誕生についてはマトフェイ1-2章とルカ伝1-2章に伝えられています。マトフェイとルカはともに処女からの誕生を証言しています。ルカ1:26-38には天使ガウリイルによるイイススの母マリヤへの救世主誕生の告知が記録されています。正教会は、このマリヤの神の意志への自発的な同意――天使に告げられた神のご計画への自由意志による同意――こそ、ハリストスにあって神と人とが結び直されるための基本的で不可欠な条件だったと教えます。「藉身は父とその力と、神聖神のわざであるばかりではなかった。それはまた童貞女マリヤの意志と信仰のわざでもあった」*[22]。マリヤが告知に対して肯定的に応じたからこそ、その子、イイスス・ハリストスによる私たちの救いは可能となったのです。正教会が「神の母を讃えるのは、神が彼女を選んだからというばかりではなく、彼女自身が間違いのない選択をしたから」です*[23]。
〔解説・補論〕彼女が特別に神から選ばれた「例外」的存在であるとして生神女を讃えるのはローマ・カトリック教会のとらえ方です。ローマ教会では近代になってから「マリヤ無原罪懐胎」という教理を打ち出しました。
この教理は1854年12月8日、ピウス9世の教理決定大教書でエクスカテドラ(聖座から)の布告として宣言されました。1870年の第一ヴァティカン公会議でこれも新たに教理化された「教皇の不可誤謬性」の教理を打ち立ててしまったローマ教会にとっては撤回できない教理となってしまったわけです。この教理は次のようなものです。
「マリヤがその懐胎の最初の瞬間に於いて、キリストの功徳を顧みて特別な聖寵と特典とによって原罪のすべての汚れから守られた天主から啓示されたものである」(カトリック大辞典 昭和35年発刊)。
カトリック大辞典はおおむね次のように解説しています。
聖書には明示的な根拠はない。東方教会から始まったマリヤへの尊崇の精神性やマリヤを讃える祝日が西方に伝わり、次第にこの教えが民衆に浸透していった。8世紀に西方で「無原罪の懐胎」についてのかなり明示的表現が現れた。やがて12世紀にかけて西ヨーロッパでは「無原罪のお宿りの祝日」が盛んに祝われるようになった。12世紀頃から一部に理論化が試みられたが、聖アンセルムスは躊躇、聖ベルナルドスは断然反対の態度を取った。「マリヤを、すべての被造物が必要とするキリストのあがないを必要としない者にしてしまう」というのである。トマス・アキナスらスコラ神学時代の他の大神学者たちもおおむね否定的な結論に傾いた。その後、熱狂的な信徒大衆と学者たちの中で「敬虔な意見」の段階にまで高められ、1476年シクストス4世がこの教えを公認。バーゼル公会議は「承認」、トリエント公会議はやや消極的ながら「確認」。近世に入って何人かの教皇が、民衆の熱狂的な支持とイエズス会の圧力によって実質的に、教理化してゆき、1854年のエクス・カテドラの「教理決定」を迎える。1858年にルルドでマリヤがベルナデッド・スピルーに現れ「我は無原罪の宿りなり」と宣言したという奇跡が、教皇の決定への神の賛意表明であったとされる。
ここで東方教会の影響とあるのは確かです。生神女マリヤへの熱い尊崇は「生神女」のタイトルを守るために東方の主教たちがエフェス公会で大論争を繰り広げたことでもわかります。しかしその尊崇の中には「無原罪」などという意識は毛頭ありません。むしろ私たちと同じ元祖の陥罪に由来する人間性の病を負って生まれたにもかかわらず、神のご意志と恵みへの従順によって、神がかくあれとお望みになった生き方を実現し、私たちに模範と希望を与えたことによる尊敬なのです。
やがて童貞女マリヤは「聖神によって身重」になりました(マトフェイ1:18)。マリヤの婚約者イオシフは彼女の妊娠を知って「ひそかに離縁しようと決心」しました(1:19)*[24]。しかし、彼の夢の中に主の御使いが現れて「その胎内に宿っているものは聖神によるのである」から、マリヤをめとりなさいと告げました。天使はまたイオシフに、その子は男の子であるからイイスス(「主は救う」という意味)と名付けなさいと言いました。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるから」でした(マトフェイ1:20-21)。
かくしてイオシフとマリヤはイウデヤの法にのっとって結婚しました。二人が皇帝アウグストの時に行われた人口調査に登録するためヴィフレエムへ行き、そこで滞在している間にマリヤは神の働きで孕まれた子を産みました(ルカ2:1-7)。マトフェイはこの奇跡的な妊娠とハリストスの誕生を預言者イサイヤの次の預言の成就であると解釈しています。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう(これは、「神われらと共にいます」という意味である)」(マトフェイ1:22-23、イサイヤ7:14)。
〔解説・補論〕正教会は嬰児ハリストスが飼い葉桶に寝かされたことも、旧約聖書の預言の成就としてとらえます。イサイヤ書1章3節の「牛はその飼い主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイズライリは知らず、わが民は悟らない」です。人々には一部の例外を除いて知られることなくひっそりと生まれ、家畜たちに見守られた主の姿は、降誕祭の聖像に描かれています。
マトフェイとルカはハリストス誕生直後の出来事について二つの異なった伝承を伝えます。ルカによれば、救い主の誕生は「野宿して」羊の群れの世話をしていた羊飼いたちのもとに天使たちによって告げられました。羊飼いたちはメシヤ誕生の喜ばしい知らせを聞いて、「主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」とヴィフレエムの聖家族のもとを訪れました(ルカ2:8-20)。ルカはさらに8日後ハリストスは割礼を受けイイススと名付けられ、割礼のさらに33日後にイエルサリムの神殿に清めの儀式のためにのぼり「主の律法に『母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない』と書いてあるとおり」神に献げられました(ルカ2:21-27、レヴィ12章、出エギペト13:2、12;民数記3:13)。
ローマ・カトリック教会といくつかのプロテスタント教派は毎年「ハリストスの神殿奉献」または「福たる処女マリヤのお清め」を記憶する祭りを祝いますが、正教会はこの祭りを「主の迎接祭(Meeting of Our Lord)」と呼び、ハリストス救世主がその民と出会った出来事として記憶します*[25]。なぜならルカも伝えているように、イイススが神殿に奉献されたとき、聖なるシメオンと預言女アンナによってイイススが待望のメシヤであることが確かめられ宣言されたからです(ルカ2:25-38)。「私たちの主は、その母とイオシフによって神殿に連れていかれ、そこで老シメオンと預言女アンナを代表として、ご自身の民と出会った」*[26]のです。聖神はかつてシメオンに「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはない」(ルカ2:26)と啓示しました。そこで彼はイイススを見いだしたとき、聖神にうながされて叫びました。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます…」(ルカ2:29-32)。この言葉は「シメオンの歌(祝文)」として有名であり、世界中の正教会で晩課に歌われています。シメオンはマリヤに対しても「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」(ルカ2:34-35)と告げました。シメオンの証しを聞いて預言女アンナもまた「神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、イエルサリムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた」(ルカ2:38)のです。
ルカによれば、この主とその民の出会いの後、イオシフとマリヤはイイススを連れて「ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰り」ました(ルカ2:39)。
マトフェイが伝える主の誕生後の出来事はルカのものとかなり異なります。マトフェイによれば主の誕生の後「博士たち」(Magiないしmagoi, 予見者、占星学者、魔法使い)が「東」(おそらくペルシャ)からイエルサリムにやって来て尋ねました。「イウデヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マトフェイ2:1-2)。一般によく流布している伝承では博士たちの一行は3人でした。しかも彼らは単なる幻視家ではなく王でした。「イウデヤ人の王」と自任し、メシヤはヴィフレエムで生まれる預言されていると聞いたイロド王は博士たちをヴィフレエムに遣わし、「わたしも拝みに行くから」と新しく生まれたその子供を捜し出して欲しいと頼みました(マトフェイ2:3-8)。イロドの真の狙いは、もちろんハリストスを見つけ出し殺すことでした。「ヴィフレエムの星」に導かれて、博士たちは聖家族を見つけ出し、嬰児ハリストスを「ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました(マトフェイ2:9-11)。これらの贈り物はそれぞれイイススが王であること、神であること、人であることを象徴していると解釈されてきました。中近東の伝統では、金は王のものであり、乳香は神への献げ物であり、没薬(化粧品や医薬として用いられる香料)は人間の肉体を連想させるものでした。
幼子イイススを拝した後、博士たちは神のお告げによってイロドの真の狙いを知り、邪悪な王にはメシヤの居所は何も告げず自国に帰って行きました。イオシフもまたイロド王の計画を天使から告げられ、妻とイイススを連れてエギペトへ避難しました。イロドは博士たちにだまされたことを知って「非常に立腹」し、「ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子」を皆殺しにしました。この「無実の子供たちの大虐殺」*[27]からほどなくしてイロド王は死に(紀元前4年)、聖家族はかつてのイズライリ人たちと同様、エギペトからパレスティナへ帰ってきました。イオシフ、その妻、そして彼の養い子はガリラヤの北方の小さな町ナザレト(ナザレ)に暮らしました。(マトフェイ2:13-23)
主の降誕後のマトフェイとルカの伝えるところは異なっていますが、必ずしも互いに矛盾していません。マトフェイとルカがそれぞれ用いた伝承は、主の幼年時代についての真実ではあるが断片的な言い伝えを集めたものだったことは充分にあり得ることです。実際、博士たちの訪問がハリストスの降誕の直後だったとは思えません。なぜならマトフェイ伝のテキストでは、博士たちは彼らの訪問に先立つこと一年か二年前に降誕の出来事が起きたと推定していたようだからです(マトフェイ2:7,16)。これらの出来事は主の神殿への奉献(「迎接」ルカ2:21-38)以後、ルカ伝の2:39に伝えられる聖家族のナザレトへの帰還まで間のどこかで起きたという考え方も可能でしょう。従ってマトフェイとルカの降誕後の記事は、それぞれにハリストスのイウデヤ人と異邦人に対する救いの使命を表していると言うこともできます。なぜならルカの記事は、メシヤの到来がイウデヤ人(羊飼いたち)に最初に明らかにされ、次に8日目の割礼、40日目の神殿への奉献などすべてがモイセイの律法通りに行われたことを強調しています。対照的にマトフェイは、博士たちの物語によってハリストスの異邦人世界との関係を示し、博士たちのハリストスへの礼拝を、民族的な系譜ではなく信仰が人々を結びつける「教会」、「新たなるイズライリ」の象徴としています。かくして、降誕祭の日、正教会は次のように歌います。
「主宰よ、爾はイアコフより出づる星として光り、……星を学ぶ知者、異邦民の初物として爾に導かれたる者を悦に充てて、明に彼等を受け給へり」*[28](降誕祭早課カノン第四歌頌)
マトフェイの福音書はイイススの祖先をたどる詳細な系図から始まります(1:1-18)。ルカの福音書にもイイススの系図が出ています(3:23-38)。この二つの系図はいろいろな点で異なります。この違いについて明確に説明されたことは未だかつてありません*[29]。しかしいくつかの重要な神学的なポイントは指摘できるでしょう。二つの系図はともに、イイススが、養父イオシフとの関係によって、イズライリのメシヤの理想像としてしばしば回顧されたダヴィド王の子孫であることを確証しようとしています*[30]。旧約の預言者たちによると、メシヤはダヴィドの血統から出現するはずでした。
マトフェイの系図はイズライリ国家の父であるアウラアムからイイススへとたどられ、それによってハリストスと神の選民・旧約の民イズライリとの関連が強調されます。対照的に、ルカの系図はイイススから始まり、アウラアムを飛び越えて「神の子」(ルカ3:38、新改訳、NKJV, TEV)であったアダムへとさかのぼります。ルカの師であった聖使徒パウェルは、ハリストスは私たちが結びつくことによって「神の養子」とされる「新しいアダム」であると考えました(コリンフ前15:22、45-49 ロマ8:14-17)。このパウェルの教えがルカの系図に反映しているとも考えられます。すなわちルカの系図の目的は、ハリストスの先祖をアダムにまでたどることによって主の全人類との一致を際だたせ、ハリストスに結びつくすべての人々が「神の子」たり得ることを強調することだったと。*[31]
したがって、マトフェイとルカの福音書にあるハリストスの系図は全体として、ハリストスは「ダヴィドの子」であり」「アウラアムの子であり」、そして「神の子」であることを宣言しているのです。
授洗イオアンの宣教
イイススの系図、そして誕生と幼年時代についてはマトフェイとルカだけが伝えている一方、三つの共観福音書すべてがハリストスの公生涯(公的な伝道生活)を詳細に述べています。そのいずれもがまず授洗イオアンの宣教活動とハリストスの活動との関係についてふれています。
授洗イオアンは「救済史」の二つの帰還をつなぐ人物です。すなわち旧約の最後の、そして新約の最初の預言者です。彼はその宣教活動に先立つ何年もの間イウデヤの砂漠で苦行生活を送りました。共観福音書記者たちは彼を、イイススのために道を用意するため神から遣わされた預言者的な「前駆」――さきがけ――として描きます(マトフェイ3:1-6、マルコ1:1-6、ルカ3:1-6)。イイススの時代のイウデヤの人たちはメシヤの到来に先駆けて預言者イリヤがこの地上に戻って来て、「主の大いなる恐るべき日」(マラヒヤ4:4-6参照)の到来を告げると期待していました。そこで共観福音書では授洗イオアンはイリヤの末の日の宣教に関連づけて描かれます。マトフェイ3:4、マルコ3:6によると、イオアンはらくだの毛衣で作られた着物をまとい、皮の帯を腰に締めています。これはまさに列王記U(列王記下)1:8で描き出されるイリヤの姿です。またルカは「イリヤの霊と力とをもって」イススの先駆けとなったと伝えています(ルカ1:17、マトフェイ11:14も参照)。
イオアンの宣教活動は紀元1世紀の20年代後半から始まりました。彼は神の国の到来に先立つ審判の日について警告し、イウデヤ人同胞たちに悔い改め、すなわち悪から立ち帰り神に向かうことを勧告しました(マトフェイ1:2、7-10; マルコ1:4;ルカ3:3、7-9)。来るべき審判と悔い改めを呼びかけたイオアンは同時に、彼の呼びかけを聞いて罪の赦しを求めてやってくる人々に洗礼を授けました(マトフェイ1:5-6;マルコ1:4-5;ルカ1:3、7-14)。福音書はイオアンの洗礼がどのようにして始まったのか、またイオアンが実際にどのように洗礼を授けていたのかは伝えていません。「それはイオアンが初めて導入したものではなく、すでに…罪の洗い流しと浄化のしるしとして一般に行われていた」*[32]ということは充分にあり得ることでしょう。
イオアンはまたメシヤの到来も布告しました。
「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、このかたは、聖神(聖霊)によって洗礼をお授けになるであろう」(マルコ1:7-8、またマトフェイ1:11-12、ルカ3:15-18参照)。
そして共観福音書記者たちは、ナザレトのイイススこそが、この授洗イオアンと当時の敬虔なイウデヤ人たちが待望していた神が約束したメシヤであると宣言します(マトフェイ11:2-19と7:8-35を参照)。
イイススが伝道を公けに開始された後、授洗イオアンはイロド大王の息子であり後継者であったイロド・アンティパスによって逮捕され処刑されてしまいます。イオアンがはなはだ不道徳だったイロドの邪悪な行為をあからさまに非難したためでした(ルカ3:19-20、マトフェイ14:1-12)。
ハリストスの洗礼と荒野での試み
イイススの公的な伝道は洗礼者イオアンの手による洗礼に始まります。
「そのころ、イイススはガリラヤのナザレトから出てきて、イオルダン川で、イオアンから洗礼をお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖神がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(マルコ1:9-11、またマトフェイ3:13-17、ルカ3:21-22参照)
正教会はハリストスの洗礼を、「主の神現祭」で祝います(1月6日、通常の゙グレゴリウス歴上では今世紀は1月19日)。神現 は神の顕現を意味します。ハリストスの洗礼は主の公的伝道の開始を告げるもの、また至聖三者の神の啓示であるという意味で、この世への「神の顕現」でした。「神の三つの位格がすべてともに顕れた。天から父である神がイイススが神の子であることを証しし、子は父の証しを受けとめ、聖神は鳩のかたちで父から降り、子の上にとどまった」*[33] 。
〔解説・補論〕旧約の創世記冒頭で、神が「〜あれ」と言葉を発したことは、至聖三者のうちの「御言葉・ロゴス・神子」が創造に参加していることの暗示と受けとめられますが、ここで「わたしの愛する子」と声があったこととそれを関連づけて考えてしまうと、神子(「御言葉」)が「神子」をさして声を発しているという、おかしなことになります。特に、関連づける必要はないでしょう。(ご質問への答え)
既に見たように、イオアンによる洗礼は悔い改めの洗礼でした。ではなぜ、罪のないハリストスがイオアンから洗礼を受けなければならなかったのでしょう。この問に対して、正教会は、私たちの主は藉身によって人となり、「新しいアダムとしてご自身の内に全人類を統合した。それはちょうど、最初のアダムが堕罪の時に全人類を自らの内に引きずり込んでもろともに堕ちたのに対応する」*[34]。その洗礼で主はすべての人々の罪のために洗われました。ご自身が私たちの罪深い条件と堕落した全世界をお引き受けになり、ハリストスは人類と世界を悪のなわめから救いました。主の洗礼はその光栄なるあがないのしるしです。ハリストスはご自身のためではなく私たちのため、また全宇宙の秩序のために洗礼を受けたのです*[35]。
洗礼に引き続いて、イイススは「御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるため」でした(マトフェイ4:1-11、マルコ1:12-13、ルカ4:1-13)。旧約時代の出エギペトの出来事が示す預象は、ハリストスというお方とそのみわざに完成しました。「荒れ野の誘惑」の出来事はその一つです。いにしえのイズライリ人たちは紅海で「洗礼」を受けた後も、ただちにハナアンの地に入れたわけではありませんでした。彼らはシナイの荒野で四十年間の試みの期間を過ごしました*[36]。同様に、イオルダン川の洗礼後、伝道生活のまっただ中に入っていく前に、主は荒野で悪魔から四十日間試みられました。このハリストス、そして信仰と従順によってハリストスと一つになった人々は「新しいイズライリ」となります。「古きイズライリ」が約束の地・ハナアンに入ったように、新しいイズライリは真の約束の地・神の国に入ります。ハリストスの出エギペトは「新たなる救いの出エギペト」なのです*[37]。
ハリストスへの試みはまた創世記三章に描かれているアダムとエヴァへの誘惑の出来事の「再統合」です。ハリストスが悪魔の誘惑を甘んじて受けたことはハリストスが、人間の条件を引き受け、アダムの息子・エヴァの娘たちとご自身を同一化したことの一層明瞭なしるしです。イウデヤの荒野で悪魔を打ち負かし、ハリストスはアダムがエデンの園でし損じたことをやり遂げました。第一のアダムにおいて人は悪魔の欺きに乗せられて神を離れました。しかしハリストス、新たなるアダムにおいて人は悪魔の束縛から解かれ神との和解への道が開かれました。
〔解説・補論〕「再統合」はrecapturationの訳です。この言葉はリヨンのイリネイが用いたもので、ハリストスが第2のアダムとして、第1のアダムがし損じたことをやり直していくことを通じて、あらゆるものをご自身に統合し直していくことと言ってよいでしょう。
ハリストスへの悪魔の三つの試み*[38]は主の人間性に働きかけ、主自身に自らが神の子であることを疑わせ否定させようというものでした。人間は悪魔から、霊的な事柄より物質的な事柄の方が重要だと思わせようと、また神の存在と神の善性についての疑いを晴らしてくれる奇跡的なしるしを欲しがるようにと、たえず誘惑され続けています。聖書によると、断食によってイイススは空腹――イイススの人間性を示すもう一つの徴候――を覚えました。悪魔は空腹の主に近づいて、ハリストスの関心をパン――すなわち物質的な必要――に向けさせようとし、霊的な目的から目を転じさせようとします。しかしハリストスは人間が求めている「いのち」の完全性は物質的な満足にではなく、啓示された「神の言葉」にあると宣言します。このようにハリストスへの最初の誘惑は私たちに、「腹を制することのできないこと」から来る霊的な危険とその他の物質的欲望に警戒せよと教えているのです*[39]。
第一と第二の誘惑の時に悪魔が発する「もし、あなたが神の子ならば」という句もまた重要な意味を持ちます。悪魔はこの言葉によってハリストスの心に、父である神との関係について疑いを生じさせようとしているのです。悪魔は91詩編(90聖詠)を引用して、主が神の子たることを証す奇跡的なわざであらゆる疑いを払拭してしまいなさいと挑戦します。主はこれを拒否し、疑いの誘惑、父なる神に超自然的な力を見せ物のように見せて欲しいと願う「神を試みる」誘惑を克服しました*[40]。しかし誘惑が去った後、ハリストスの願いによるのではなく父の子への愛によるお計らいによって、「超自然的に」天使たちが主に仕えるために遣わされました。聖金口イオアンによると、この誘惑は神との和解を求める私たちに対する一つの課題でもありました。「……私たちは、奇跡によってではなく、忍耐と長い受苦によって悪魔を克服しなければなりません。そして……虚しい見せびらかしのためには何も行ってはなりません」*[41]。
第三の誘惑では、悪魔は彼自身が神であるかのように主に語りかけました。そして、富や地位や力への人間の欲望で、ハリストスを神から背かせようとしました。しかしハリストスは悪魔に立ち去ることを命じ、人は神のみを拝し、神のみに仕えなければならないと宣言しました。私たちの第一の関心は財産やこの世の栄華の楽しみではなく、神の国の一員であることでなければなりません。
ガリラヤ伝道
荒野で悪魔の試みを受けた後、イイススは文字通り伝道活動に身を挺してゆくことになります。共観福音書はハリストスの伝道の時間的な経過についておおざっぱな説明はしますが、主の主要な教えや奇跡はむしろテーマ別、項目別にまとめて編集されています。おそらくそこには、これらの記事の基になった使徒時代からの伝承資料のかたちが反映しているのだと思われます。さらに、共観福音書記者たちは主の公的伝道の二つの時期を中心にして伝えています。ガリラヤ地方での活動と、イウデヤを通ってイエルサリムへの最後の旅です。しかしイオアンの福音書が明確にしているように、イイススは実際は、その地上での公生涯を通じて、ガリラヤとイエルサリムの間をしばしば旅し、多くの時をイエルサリムで過ごしています*[42]。
ハリストスのガリラヤ伝道はマトフェイ3-18章、マルコ1-9章、ルカ3-9章に伝えられています。イオルダン川での洗礼、荒野での試練、そしてイウデヤとサマリヤ地方でのいくつかの初期の説教に続いて、ハリストスは弟子を集め始めました(イオアン1-4章も参照)。この「イイスス運動」とでも称すべき活動はやがて、授洗イオアンの宣教活動の影を薄くさせるようになりました。しかしイオアンは神の救済計画の新しい次元の始まりとしてこの事実を謙虚に受け入れました(イオアン3:25-30参照)。授洗イオアンが逮捕された後、イイススと彼の多くの弟子たちはイウデヤからガリラヤに戻りました。イイススはガリラヤ湖の北西の湖岸に位置するカフェルナウム(カペルナウム)に伝道の拠点を据えました。弟子たちが増え続けるにつれて、イイススはガリラヤ地方全体をめぐり、「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしに」なりました(マトフェイ4:23)。
ガリラヤ伝道のある段階でイイススはご自身の使信を宣布させるために、十二人の弟子を特別に選びました。十二「使徒」(ギリシャ語でアポストロス〔遣わされる者〕)はハリストスの最も親しい協力者、かつ代理者であり、主は彼らにご自身の名によって語り、いやす権威をお与えになりました(マトフェイ10:1-15;マルコ6:7-13;ルカ9:1-6参照)。イアコフの十二人の息子たちが古きイズライリの父たちであったのに対応して、十二使徒は新たなるイズライリ、教会の父たるべき者たちでした*[43]。ハリストスがこの地上で伝道に携わった期間、彼らは主の共働者として、主がその救いのわざを成し遂げた後に、彼らが演じなければならなくなる役割の備えをしたのです。
マルコはイイススの「神の国の福音」を次のように要約しています。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。
そしてイイススは、神の国についての説教やたとえ話や教えの中で、授洗イオアンや他のイズライリの預言者たちと同様に、神の国に入るためには悔い改めなければならない、すなわちこの世と「肉(この世)的な生き方」と悪魔を捨て、信仰と愛と従順を持って神へと向きなおらなければならないと教えました。しかしその宣教において預言者たちと決定的に異なることがありました。イイススはご自身の名の権威を以て語ったのです。「我まことに、まことに汝らに告ぐ」と。
〔解説・補論〕預言者たちは神の言葉を人々に取り次いで語りました。イイススは「〜によれば」とは語らず、何ものにも依拠せずにご自身の言葉として語りました。ご自身を「権威」とされたのです。人々は驚きました。なぜなら「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マトフェイ7:29)
共観福音書はそれぞれに神の国についてのハリストスの教えをまとまった形で伝えています(マトフェイ5-7章、13章、24-25章;マルコ4章、13章;ルカ6章、8章、10-19章)。ガリラヤ伝道期の主の教えは、「天国」の本質とその「成長」についての一連のたとえとして、マトフェイ伝の13章に詳しくまとめられています。これらのたとえの中で、イイススは神の国は絶対の価値を持つもので、どんな人にとっても究極の関心の対象でなければならないこと(マトフェイ13:44-46)、神の国は今この時にもこの世に存在し成長し続けていること(すなわちハリストスにあって、またハリストスの教会の生活にあって)(マトフェイ13:31-33)、この成長しつつある神の国に入るためには、神の啓示された御言葉(イイススご自身)の光の中でその御言葉に忠実に従順に生きなければならないこと(マトフェイ3:1-23)、そして最後の審判の時、神の御言葉に従って生きなかった者たちは、永遠に主の王国の豊かな生命から切り離されてしまうこと(マトフェイ13:24-30、36-43、47-52)を教えました。
イイススはまた神の国についていくつかの説教を行いました。マトフェイ伝5章から7章にかけてのいわゆる「山上の説教(垂訓)」は実際には、おもにガリラヤ伝道に際して主が折に触れてお話しになった断片的な説教の集積です。この説教はここで詳細を説明するにはあまりに多岐にわたっており、全体の内容と意味について簡単に触れるにとどめなければなりません。山上の説教は「真福の教え」(Beatitudes)から始まります。Beatitudesの語源はラテン語で祝福を意味するbeatitudoです。この教えはハリストスの真の弟子であるためには、また神の民と呼ばれるに値いするにはどのようでなければならないかを教えます(5:1-6)。神の子たるには、「心の貧しさ」すなわち神への完全な依存の意識、人類の罪と病への「悲しみ」、共に生きる人々と神に対する「柔和さ(謙遜さ)」、全人格をあげて正義と神の国を求める「飢え渇き」、自らへの神の憐れみを知るがゆえの他者に対する「憐れみ」、この世的な思いに乱されず神を求める「心の清さ」、神との平和の内にあって周囲の人たちとの間に「平和をつくり出す」こと、いつも神の真実を掲げこの世のあり方との妥協を拒み「義のための迫害」をいとわないことが不可欠です。イイススはそのような人こそが、神の光栄を証しする「血の塩」であり「世の光」だと教えます。
〔解説・補論〕「心の貧しさ」がまず筆頭にあげられていることにご注目下さい。「心の貧しさ」は普通乗車券のようなもの、これを持っていれば時間がいくらかかっても目的地につけます。反対に「柔和」や「心の清さ」など他の項目は特急券のようなもの、これを持っていればいち早く目的地へつけますが、普通乗車券を一緒に持っていなければ、途中でおろされてしまいます。柔和や、心の清さがその人にとって、自分の道徳的達成や、自分の精神的な努力の結果であると誇られてしまえば、決して天国へは入れません。しかし、どんなに道徳的な自己統御ができず、浅ましい情欲に常に翻弄される人でも、このような自分は自分の力では自分をどうすることもできない、神さまの力におすがりするほかないという、「心の貧しさ」のなかで神の力にひたすら頼んで、何度でも立ち上がるなら、どんなに時間がかかろうとも、目的地へ着くことはできるのです。真の「聖人」とはそのことを徹頭徹尾知った人たちではないでしょうか。「シルワンの手記」(アトスの長老シルワン・あかし書房)「同情の心」(シリヤのイサアク・聖公会出版)などの精神書をぜひ一度ひもといてください。
「真福の教え」に続いて、ハリストスはモイセイに啓示され旧約聖書に記録された神の律法をどう解釈しどう生きるかを教えます(5:17-48)。また主は、真の宗教的敬虔を教え、人間の完成の鍵はひたすら神に心を向け神に献身することにあると宣言します(6:19-34)。主は、私たちがどのように神と調和し、またどのようにして人々に対して正しく生きるべきかを教え、私たちを天国から隔てる霊的な混乱について警告し説教を結びます(7:1-29)。
山上の説教は真の正しさと真の義の本性を描きだします。それは神の国の法、天国を支配する原理を明らかにし、ハリストスへの信仰を通じ聖神の助けを得て、その法に従い「恵みによって」神との完全な一致に至ることが、どのように可能なのかを明らかにします。このように「山上の説教」の呼び掛けは私たちを鼓吹し解き放ちます。しかし反対にハリストスを拒否する人にとっては「有罪宣告」でもあります。なぜならハリストスにあってのみ、神の国に至る希望を持つことができるからです。実際、ハリストスは私たちの「約束の地」です。すなわち、主ご自身がご自身の内に神の国を開始した「神の国ご自身」(auto-basileia)です*[44]。
共観福音書はまた、ハリストスはそのガリラヤ伝道期間にたくさんの癒しや奇跡を行ったことを伝えています。これらのめざましいわざは旧約聖書のメシヤ預言の実現として示されました(マトフェイ11:2-7;ルカ7:18-23)。ハリストスは病人を癒し、悪霊たちを追い払い、ガリラヤの湖面を歩き(マトフェイ14:22-36)、大勢の人々を奇跡的に満腹させ(ルカ9:10-17)、死者を生き返らせました(マトフェイ9:18-26、マルコ5:21-43、ルカ7:11-17)。これらのわざはすべてハリストスにおいて神の国が到来したことの「しるし」でした。
その伝道の最初の日々には、イイススはご自身がメシヤであること、また神の子であることは明らかにしませんでした。しかし実際には主の宣教、教え、奇跡の三つは、あいまって主がどなたであるのかを自ずと明らかにしていました。やがて、彼に従う者たち、ガリラヤとイウデヤの多くの人々はイイススの内に、イズライリのメシヤの到来を見るようになりました。彼らは神の民はイイススによって悪のくびきから決定的に解放されるに違いないと希望を持ち始めました。
しかしイイススがメシヤであるということのほんとうの意味は、彼の弟子たちさえ誤解していました。フィリップ・カエサリヤへの旅の途上イイススは十二弟子に尋ねました。「……あなたがたはわたしをだれと言うか」*[45]。すると弟子たちを代表してペートルが答えました。「あなたこそ、生ける神の子ハリストスです」。しかし、この正しい答えを聞いた主は、それに対して「自分が必ずイエルサリムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめ」ました。ペートルはこれを聞いて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と叫びました。主は「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペートルを叱りました。(マトフェイ16:13-28参照)
当時のほとんどのイウデヤ人たちは、メシヤをローマ支配からイズライリを解放し母国に地上的な力を回復させる、神に導かれた政治・軍事的な英雄と考えていました。このイズライリの政治的解放こそが他の諸国の回心、死者の復活、最後の審判、神の国における全被造物の究極的な救いへと突破口を開くと信じられていたのです。反対に預言者たちが告げた、その民と世界を救うために受難し死を甘受する神的な王というメシヤ像は*[46]、イイススの時代、ユダヤ人たちの心をとらえていたとは言えませんでした。そのために、その伝道の最終段階に至るまで、イイススはご自身が神の子でありメシヤであることを隠そうとつとめました。*[47]
イイススの伝道が進むに連れて、必然的に当時のユダヤ教の指導的なセクトとのあいだに葛藤が生じてきました。福音書には二つの主要なセクトが登場します。ファリサイ派とサドカイ派です。
ファリサイ派の人々は律法学者たちが伝える「口承律法」に従っていました。律法学者はトーラ(ないしはモイセイの法典)の一般的な原則を個々の生活の状況にどう適用するかを教える人々でした*[48]。ハリストスの時代には、この律法学者たちの律法は数世紀の蓄積を経て、日常生活のほとんどあらゆる場面に関しての複雑な規則と規定の膨大な集成になっていました。その時代のほとんどのイウデヤ人と同様に、ファリサイ派の人々もメシヤの到来を待望し死者の復活を信じていました。
一方、サドカイ派の人々は貴族や富裕な階層に基盤を持つ小さなセクトでしたが、祭司職のほとんどを独占し、サンヘドリン(紀元前2世紀から紀元1世紀にかけてのイウデヤ人たちの合議体)を支配していました。ファリサイ派と異なり、サドカイ派は律法学者による律法を否定し、メシヤの到来も死者の復活も信じませんでした。ファリサイ派もサドカイ派も自らをエリートと見なし、「無学文盲のやから」(the amhaarez)、サマリヤの「憎むべき雑婚者たち」そしてすべての異邦人を見下していました*[49]。ファリサイ派とサドケイ派はまた、ローマの支配のもとで繁栄と相対的な自治を享受していたので、パレスティナにおける自らの政治的社会的地位を保守することに共通の関心を持っていました。
イイススは彼の弟子たちの多くをガリラヤ地方とイウデヤ地方の庶民の中から集め、またおもにイウデヤ人たちの間で活動する一方、サマリヤ人や異邦人たちにも伝道しました(ルカ17:11-19、マトフェイ8:5-13)。主はしばしばファリサイ派の律法主義を批判し、彼もその弟子たちも律法学者たちによる律法を何度もやぶりました(たとえばマルコ2:1-3:6)。また主は公の場でサドカイ派の人々の聖書と神の力に対する無知を叱りました(マルコ12:18-27)。そんなわけで、ファリサイ派もサドカイ派も、彼らそれぞれの理由でイイススを「偽メシヤ」とみなし、ともにイイススの活動がローマによるイウデヤ人たちへの更に厳しい統制を呼び起こしてしまうことを危惧していました。このイイススとイウデヤの宗教的権威者たちとの葛藤の頂点が、最後の週にイエルサリムで起きた主の逮捕、裁判、処刑でした。
〔解説・補論〕イイススの律法主義への批判や違反は、決して律法を単に否定するためのものではありませんでした。イイススご自身がこう言います。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」。
ハリストスの変容
授洗イオアンの斬首後、ペートルがイイススを「ハリストス、生ける神の子」と告白したのをうけて、主はご自身と弟子たちを、その公生涯の頂点ともいうべき出来事に備え始めました。イイススはまずペートル、イアコフ、そしてイオアンを連れて「高い山」(伝承によればガリラヤのタボル山)の頂上に登りました。
「…彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モイセイとイリヤが彼らに現れて、イイススと語り合っていた。ペートルはイイススにむかって言った、「主よ、……」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イイススは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イイススのほかには、だれも見えなかった。一同が山を下って来るとき、イイススは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
正教会は「主の変容」を十二大祭の一つとして毎年8月6日〔訳注:グレゴリウス歴上では8月19日〕に祝います。正教会の見方によれば、変容は「もう一つの神現」――神の子ハリストスと神の至聖三者性の顕現*[50]――です。「タボル山で、イオルダン川での洗礼の時と同じく、父は天からハリストスが神の子たることを証し、聖神は、今度は鳩の形ではなく、目もくらむばかりの光としてハリストスを取り囲み、輝く雲が全山を覆った。このまばゆい光こそ聖神の光である」*[51]。
「ハリストスの変容」はまた、正教会の「人間神化」の教えが展開していく上で重要な役割を担ってきました。
タボル山上でイイススから輝きでた光栄は、すべての人類に分かち合いを呼び掛けられている光栄である。タボル山で私たちはハリストスの、…「神の如き」「神化」の輝きを帯びた人間性を見た。ハリストスにおいて人間性に起きたことは、ハリストスに従うすべての者に起き得る。「変容」は私たちに人間性の可能性の極限を指し示し、人間がかつて所有した光栄、そして神の恩寵によって「最後の日」に回復する光栄を見せてくれる。*[52]
ペートル、イアコフ、イオアンに神的な光栄を示し、主は彼らを主の十字架とその十字架を超えて輝き出す復活の光栄に備えさせました。「二人ともかつてシナイ山上で神と語り合った」*[53]モイセイとイリヤの存在は、イイススが旧約聖書の律法と預言の成就であることを使徒たちに示す「しるし」でした。ルカの伝えるところでは、モイセイとイリヤは律法と預言を代表する者として、「(イイススが)イエルサリムで遂げようとする最後のこと」について話し合っていました(ルカ9:30-31)。変容に引き続いて、イイススはふたたび弟子たちに「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」と来たるべき受難について語りました(マトフェイ17:22-23)。しかし依然として弟子たちは「非常に心をいためた」ばかりで主を理解しませんでした。主の復活の後にいたって弟子たちはようやく、神のハリストスによる救いのご計画の真のすがたを把握し始めるのでした。
イウデヤをへてイエルサリムへ
「変容」の出来事の後、イイススは「イエルサリムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9:51)ました。マトフェイ伝とマルコ伝を読むと、主のイウデヤ地方からイエルサリムへの旅は短いものだったような印象を受けますが(マトフェイ19-20章、マルコ10章)、その旅の途上イイススによって語られた教えについてのルカの記録の詳細さを見ると、イウデヤ伝道は相当な期間に及んだと推測できます。さらにイオアン福音書は、主はイエルサリムでの最後の日々に先立ち少なくとも数ヶ月はイウデヤ地方で過ごされ、その間二度以上は聖都へのぼったことを示しています(イオアン7:1-12:11)。ルカが報告しているように、イウデヤ伝道において主は、真の霊性と救いへの道そして神の国の到来についての最も印象的な教えのいくつかを語っています(例えばルカ10:25-37、11:1-3、12:49-59、13:22-30、14:7-24、15:3-32、16:1-31、17:20-37、18:1-30)。ルカはまたこの期間に、ファリサイ派の人々との葛藤がいっそう顕わにかつ深刻になっていったことを伝えます(11:14-28、12:1-12、16:14-18)。
ハリストスの伝道生活最後の週は、イエルサリムへの凱旋入城で開始されます(聖枝祭主日)。主はロバの背に乗って入城しました(マトフェイ21:1-9)。それは、イズライリのメシヤは、戦いの王ではなく平和の王として「ろばに乗った」へりくだった姿で聖都に入りご自身をお示しになるというザハリヤの預言の成就でした。着物を脱いで道に敷き、シュロの枝を振って主を歓迎した群衆は、「オサンナ」(エウレイ語で「救い給え」)と叫び、この「ダヴィドの子」が彼らを率いて敵を打ち倒し、イズライリ王国を再建することを期待しました。その同じ週の終わり、イイススは彼らが期待したようなメシヤではなかったことが明らかになったとき、彼らはイウデヤの権威者とローマ人たちとともに主に死を宣告するのです。それはちょうど毎年繰り返される過ぎ越しの祭りの時にあたっていました。
この最後の週の日曜から水曜にかけての毎夜、イイススと主に従う者たちはイエルサリムをちょっと出たところのオリブ山にあるヴィファニヤ(ベタニヤ)の町で友人たちと泊まっていました(ルカ21:37-38)。その夜ごと、主は使徒たちや弟子たちに主の死と再臨の間に起きる出来事について教えました。これらの、最後の日々へと向かう歴史の動きについての教えは、マトフェイ伝の24章、25章、マルコ伝の13章とルカ伝の21章にある「オリブ山の説教」にまとめられています。この説教の中でイイススはローマによるイエルサリムの破壊(紀元70年に現実のものとなる)、人の子の再臨に先立つ混沌と「大きな災厄」の期間(「パルーシア」)、そして最後の審判と最終的な神の国の実現について語りました*[54]。
最後の週の日曜から水曜、イイススはおもに神殿で人々に教え、病者を癒し、ファリサイやサドケイら反対者たちと議論を戦わせました(たとえばマトフェイ21-23章)。そして、ついに主は両替人や犠牲の鳩を売る者たちを、宗教的な儀式から霊的な意義を失わせてしまう行為だとして、神殿の前庭から追い散らしました(マルコ11:15-18)。サンヘドリン、すなわち「大祭司たち、律法学者たち、長老たち」はイイススのこの「宮きよめ」を彼らの権威への真っ向からの挑戦と受けとめました。彼らはハリストスの人気を、民衆に対する自らの権威を傷つけるものとして恐れ、次第に警戒心を強めていきました。また彼らは人々のイイススへの熱狂がローマとのトラブルを招くのではないか気がかりでもありました。かくしてサンヘドリンの指導者たちは「どうかしてイエスを殺そう」(マルコ11:18)と陰謀をめぐらし始めたのです。
裁判とハリストスの死
イイススへの陰謀と逮捕、裁判と処刑の記事は一般に「受難物語」(Passion Narative 聖使徒行実1:3でハリストスの受難をさすのに用いられるpatheinというギリシャ語から)と呼ばれます。共観福音書の受難物語(マトフェイ26-27、マルコ14-15、ルカ22-23)はサンヘドリンの指導的なメンバーたちによってもくろまれ、十二弟子の一人であったイスカリオトのイウダの裏切りによって踏み切られた(マトフェイ26:1-5、14-16)陰謀から始まります。イウダの裏切りの真の理由は四つの福音書のいずれにも充分には説明されていません。しかし、イウダの尋常ならざる金銭欲が、イイススが政治軍事的なメシヤであることをキッパリ拒否していることを知ったイウダの幻滅と結びついて、彼に悪魔の誘惑に身を委ねさせる動機となったことは充分あり得ることです。イウダはハリストスを人々の目の届かないところでこっそり逮捕することを可能にする道具となりました。*[55]
受難物語は引き続きヴィファニヤ(ベタニヤ)の女による香油注ぎの出来事へ移ってゆきます。この香油注ぎはハリストスに迫り来る死と埋葬の前触れとして描かれます(マトフェイ26-6-13)。イイススに対する陰謀とヴィファニヤの香油注ぎは聖週間の水曜日に起きた出来事です。木曜の夜、ハリストスと使徒たちとはイエルサリムのある家の客間で最後の過ぎ越しを祝いました(マルコ14:12-16)*[56]。食事の中で、ハリストスは弟子たちの内の一人が自分を裏切るだろうと予言しました(マトフェイ26:20-25)。「先生、まさか、わたしではないでしょう」と尋ねたイウダに対して、イイススは「いや、あなただ」と答えました(マトフェイ26:25)。他の弟子たちはこのやりとりの意味をまったく理解できませんでした。そして当惑して「自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた」(ルカ22:23)のでした。共観福音書は伝えていませんが、イオアン伝によれば、イウダはハリストスが迫り来る裏切りに言及したすぐ後でパスハの食事の席を離れました(イオアン13:21-30)。
過ぎ越しの食事の最後に、イイススはイウデヤ人の過ぎ越しの食事では行われない、クリスチャンの聖体機密に固有の一連の行為を行いました。パンを取り、祝福し、割いて使徒たちに与えて言いました。「取って食べよ、これはわたしのからだである」(マトフェイ26:26)。次にぶどう酒のカップを取り、祝福し、彼らに与えて言いました。「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(カトフェイ26:26-27)。この聖体機密ないし「主の晩餐」の制定は三つの共観福音書すべてに伝えられ(マトフェイ26;26-27、マルコ14:22-25、ルカ22:19-20)、イオアン福音書でも直接述べられていませんが前提とされています*[57]。しかし、実は最も古い聖体機密の記録は紀元55年頃に書かれた聖使徒パウェルの「コリンフ人への第一の手紙」の中にあります(11:23-25)。
ハリストスの、ご自身の体と血は「あなたたちのため」また「多くの人々のため」のものであるという表明は「すべてのもののため」に対するヘブライ語的な表現でした*[58]。ハリストスはすべての者の罪のために死にました。その犠牲としての死は、彼を救い主、主と認めるすべての者に罪の赦しをもたらします。いにしえのイズライリ人たちが、過ぎ越しの子羊の体と血によってエジプトから脱出し破滅をまぬかれたように、人類はハリストスの体と血によって罪と死の束縛から解放されました。なぜなら、ハリストスはその十字架の死によって世界の罪を除き去った真の過ぎ越しの子羊だったからです。ハリストスとその聖体機密の制定の行為によって、旧約時代の過ぎ越しのイメージが完全に成就されかつ乗り越えられました。ハリストスの体が裂かれることによって、また彼の血が流されることによって、神と人との新しい契約が打ち立てられました。古き契約が「犠牲の動物たちの血によって」献げられたように、ハリストスの新しい約束は「至愛の子の血によって」献げられました*[59]。
聖体機密で成聖されたパンとぶどう酒を飲み、クリスチャンはまさにハリストスの体と血に与り(コリンフ前10:16)、主の死を記憶し、同時にその死を分かち合います。このようにしてクリスチャンはハリストスと一つになり、主のあがないの死に結びつき、そこから、主の復活によって明らかにされたその神の生命に入ってゆきます。聖体機密は教会の生命です。聖体機密の中で、教会は父と聖神と一体であるハリストスに結合し、教会の信徒たちは至聖三者の永遠の生命に入り、神と一つになります。
ハリストスの裁判
共観福音書の受難物語は、最後の晩餐の後、ハリストスは弟子たちを連れてイエルサリムを出て、オリブ山にある庭園ないし公園のような場所「ゲフシマニヤ(ゲッセマネ)という所」に行ったことを伝えます(マトフェイ26:36)。その途上、ハリストスは使徒たちは皆つまずき、彼を見捨てて散っていくだろうと予告します。それに対してペートルが「わたしは決してつまずきません」と抗議したとき、主は言いました。「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」(マトフェイ26:30-35)。
ゲフシマニヤにつくと、イイススは「ペトル、イアコフ、イオアンの三人を連れてゆく。彼らは変容の山で主の光栄を見た者たちだった。今度は彼らに主のもう一つの光栄、すなわち主が死に直面したときに顕される従順の光栄の証人とするためだった」*[60]。
それから、イイススは彼らと一緒に、ゲフシマニヤという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペートルとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペートルに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。(マトフェイ26:36-46;マルコ14:32-42、ルカ22:40-46参照)
この部分で、一時でさえも主と共に祈り目覚めておれない使徒たちの不安定さと対照的な、ハリストスの父に対する独自の関係と完全な従順が明らかに示されます。
ゲフシマニヤでのハリストスの苦悩についての記事はマトフェイ伝26:47-56、マルコ伝14:43-52、ルカ伝22:47-53で描かれている主の逮捕をお膳立てします。主がまだ使徒たちに話している間にイウダがサンヘドリンから送られた宮守がしらにともなわれてやって来ました。「イイススを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、『わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け』。彼は来るとすぐ、イイススに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々はイイススに手をかけてつかまえた」(マルコ14:44-46)。イウデヤんの指導者たちはこのようにイウダの手を借りてイイススを、みなが過ぎ越しの食事で忙しいさなかに逮捕しました。それゆえハリストスの敵たちは人々に騒動を引き起こすことなくイイススを手にかけることができたのです*[61]。
逮捕に続いてハリストスはサンヘドリンに引き出されて裁きの場に立たされ、大祭司カイヤファ(カヤパ)によって宗教的冒涜の罪で告発されました。サンヘドリンでのハリストスの裁判は明らかに木曜日の夜か金曜の朝早い時間に行われました。幾人かの偽証者たちが、集まった祭司・律法学者・長老たちにイイススが重大な犯罪者であることを確信させるのに失敗すると(マルコ14:55-61参照)、カイヤファは進み出てイイススに尋ねました。「あなたは、ほむべき者の子、ハリストスであるか」(マルコ14:61)。偽証者たちがどんな虚偽を申し立てても無言であったイイススはここでついに口を開き、自分は神の子(Son)でありハリストスであると大胆に認めました(マルコ14:62参照)。イイススの時代のイウデヤ人にとって、ケッセージ教授が指摘するように「メシヤは人間であり、神より低い位置にあるものである。神に息子があり、イイススが自分がその息子であると主張するなどと言うことは、カイヤファにとって『究極の不敬虔』にほかならなかった」のです*[62]。かくして「大祭司はその衣を引き裂いて〔冒涜の罪を示す行動〕言った、『どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか』」。これにもとづいて、モイセイの律法によって(レヴィ24:16参照)、サンヘドリンはイイススに死刑を宣告しました(マルコ14:63-65)。
ちょうどサンヘドリンでの裁判が進行している間、弟子のペートルはイイススが予言したとおり、ハリストスとの関わりを人々の前で躍起になって否定していました(マトフェイ26:69-75、マルコ14:66-72、ルカ22:54-62)。そしてイウダは自分がしたことの結果にうろたえて自殺しました(マトフェイ27:3-10)。
宗教裁判が終わると、イイススは今度はローマ総督としてイウデヤの地を治めていたポンティ・ピラトのもとに連行されました(午前6時頃)。イウデヤの法によってイイススは死刑に定められましたが、ローマ政府はサンヘドリンに死刑執行の権限を与えていなかったからです。ローマ人たちは死刑を執行する立場にありましたが、ローマ政府の権威者自身によってサンヘドリンから申し立てられた判決が再審理されなければなりませんでした。ローマ人たちはイウデヤ人の神に対する冒涜を犯罪とは見なさなかったので、サンヘドリンはイイススをなき者にするには、この「冒涜者」がローマの政治的権力を脅かす者であるとピラトに確信させる必要がありました。そこで、イイススの敵たちはピラトに対し「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるハリストスだと、となえているところを目撃しました」と告発しました(ルカ23:2)
しかしながらピラトはイイススと少し言葉を交わしただけで、被告は決して危険な犯罪者ではないと確信しました(ルカ23:3-4)。この「犯罪者」がガリラヤ人であることを知り、イウデヤ人たちとのもめごとを恐れたピラトは、ちょうど過ぎ越しの祭りのためにイエルサリムに滞在していたガリラヤの領主イロド・アンティパスのもとに差し向けました(ルカ23:5-7)。イロドはイイススを愚弄はしましたが、ピラトと同じく犯罪者だと断定することはしませんでした(ルカ22:8-12)。イイススはピラトのもとに連れ戻され、イロドと自分はこのイイススにローマに対するいかなる罪も見いだせないことで一致したと告げました(ルカ22:13-16)。
その時(金曜早朝)までに、イイススの裁判の話は町中に知れ渡り、群衆がピラトの屋敷の前に集まってきました。イウデヤの指導者たちの抵抗を何とか押さえてイイススを釈放したかったピラトは、今度は集まってきた群衆に訴えました。ローマ総督は年に一度過ぎ越しの祭りを機に、囚人を一人恩赦する習わしになっていました。ピラトは群衆に、イイススと殺人の罪で収監されていたワラウア(バラバ)のどちらを釈放して欲しいかと問いかけました。しかしサンヘドリンの指導者たちは「群衆を説き伏せて」(おそらく「イイススの敗北は偽メシヤの証拠」だと)イイススに対する憎しみをかき立てました。群衆はピラトの期待とは逆にワラウアの釈放を求め(マトフェイ27:15-21)、イイススを十字架につけよと求めました。十字架刑はローマ人が重罪人に適用する処刑法でした。群衆の要求をのまなければ暴動が起きると見て取ったピラトは、ついにワラウワの釈放と、イイススをむち打ったあと十字架刑に処することを命じました(マトフェイ27:22-26)。イオアン伝は、ピラトはまた、彼のイイスス「イウデヤ人の王」への寛容を、イウデヤ人の指導者たちがローマ皇帝への反逆として訴えることを恐れて、イイススの処刑を許可してしまったとも伝えています(イオアン19:12-16)。
ハリストスの十字架、死、埋葬。
死刑宣告を受けたイイススは、他の二人の同じく死刑判決を受けた罪人とともに「ゴルゴファ(その意味はされこうべ)という所」にピラトの兵卒らによって引き立てられて行きました(マトフェイ15:17-22)。主は「没薬を混ぜたぶどう酒」を差しだされましたが、それを飲むことを断りました(マルコ15:23)。「痛みを和らげるためにこの飲み物を受刑者に飲ませる習慣があった。なぜなら十字架刑は絶えがたい劇痛と苦しみをもたらしたからである。イイススはこの飲み物を断り、明確な意識を持ってすべての苦しみを耐え抜かれた」*[63]。
マルコはイイススが大土曜日の午前九時に十字架につけられたと伝えている(マルコ15:25)。一つの罪状書きがイイススの頭の上の所に打ち付けられました。「これはイウデヤ人の王イイスス」(マトフェイ27:37;マルコ15:26;ルカ23:38)。二人の犯罪者が主と共に、「ひとりを右に、ひとりを左に」(マルコ15:27)はりつけになりました。兵士たちは主の着物をはぎ取ると「くじを引いて、その着物を分け」ました(マトフェイ27:35)。そして兵士たちは群衆たち、サンヘドリンの指導者たちと共に十字架のハリストスに向かって「神の力によって十字架から奇跡的な力でおりてみろ」とあざ笑いました。この侮辱に対してイイススは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と祈りました。主と共にはりつけになった犯罪者もイイススをののしりました(マルコ15:32)。しかし、彼らの内の一方は憐れみからか、またはイイススが誰であるのかをはっきりと知ってか、もう一人がイイススをあざけるのを止めさせて言いました。「イイススよ、あなたが御国においでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)。するとイイススはこの悔い改めた男に「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言いました(ルカ23:43)。
イイススの十字架刑は朝の九時から午後の三時までの六時間に及びました。正午から三時までの間では「地上の全面が暗く」なりました(マトフェイ27:45、マルコ15:33、ルカ23:44)。三時になる直前、イイススは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました(マトフェイ27:46、マルコ15:34)。この言葉は、メシヤの死を預言する詩編二十二(二十一聖詠)編の冒頭の句です。この聖詠はキリスト教の立場からは「十字架上のイイススの感情を表すもの」であり「十字架によって耐え抜いた主の苦難」を代表するものでした*[64]。二十一聖詠は、あざけられ、軽蔑され、ののしられる主、その十字架刑による肉体的苦痛、兵士たちが主の着物を分けることをについて語り(詩編22:1、6-8、14-18)、ついにメシヤのこの受難によって、神が悪から世界を救うことが預言されます。
主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。…主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。…貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。(詩編22:23-28)
十字架上で、ハリストスは罪深い私たちが背負う条件を完全に負い、罪の究極的な結果である神から完全に見捨てられるという体験をご自分のものとされました。しかし主は二十二聖詠を唱えることで、旧約の聖詠にある救いの約束が、ご自身において完成されることをも宣言しようとされたのです。聖師父たちのこの出来事への解釈を要約してケッセージ教授は次のように語ります。
…ハリストスは、罪によって神から自らを切り離してしまった人間が負わなければならない苦しみをすべて体験された。罪人は神を捨て「光よりもやみの方を愛した」(イオアン3:19)。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、この神との隔たりの極まりの完全な表現である。主はこれらの言葉を人として叫ばれた。それは神との隔たりを終わらせ、人間をさがし続けてきた神に、人間の顔を向けさせるためだった。神と一致し、人間と一つになることで、ハリストスは人を彼の神に向けさせる。…ハリストスは私たちすべてを代表して、私たちのために祈っておられるのである。*[65]
二十二詩編の冒頭に続いて、主は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と「声高く叫ばれ」ついに息を引き取りました(ルカ23:46)。ハリストスの死と同時に「神殿の幕が上から下まで真二つに裂け」ました(マルコ15:38)。この幕は祭壇の向こう側の見えざる神の臨在を象徴する至聖所を聖所と分かつためのもので、罪深い人間が神から隔てられていることのしるしでした。ハリストスの死によって、この隔ては克服されたと福音は伝えているのです。ハリストスへの信仰を通じて、私たちは神の臨在そのものの内に入っていくことができるようになったのです*[66]。
聖大金曜の夜、ピラトの許しを得てアリマフェアのイオシフという、サンヘドリンの議員で裕福かつ尊敬されていたイイススの弟子が墓にやってきて、イイススの遺体の返還を求めました。他のイイススの友人たちとともに遺体を十字架から降ろすと、イオシフは主を亜麻布で包み、「岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがして」(マルコ15:46)おきました。大きな岩が墓の入り口をふさぎ、その上神殿警備の人たちが墓を監視しました。イウデヤ人の指導者たちが「弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふら」さないようにと主張した結果、派遣されたのです。この主の埋葬によって、私たちの主イイスス・ハリストスの受難は終わりました。
〔解説・補論〕主がご自身の受難の意味をなぜ、弟子たちにあらかじめ解説しておかなかったのでしょうか、というご質問をいただきました。この答えの一つは、ハリストスの受難は人の苦悩を余すところなく分かち合うことであって、その中には最愛の者たちからも理解されず、見捨てられるという孤独も含まれていたということです。その受難の完全さ(さらに神にすら見放されるという絶対の孤独まで主は味わったわけです)があってこそ、主の救いのわざは私たちを余すところなく救い得るものとなるのです。もう一つは、弟子たちにたとえ説明しても、いまだ聖神降臨を受けていない彼らには理解することができないからです。
ハリストスの復活と昇天
主の復活は、共観福音書ではマトフェイ28章、マルコ16章、ルカ24章に記されています。ハリストスに従った者たちは主の埋葬の儀礼を安息日(金曜の夕刻からの24時間)が明けるまで待たねばなりませんでした。ハリストスの死後、最初の日曜日の明け方、マグダリナのマリヤと何人かの女弟子たちは遺体に塗る香料を携えて墓に向かいました。彼らの気がかりは、主の墓に入り、主に奉仕するために墓の入り口をふさいでいる岩をどうやって取り除けばよいのかということでした(マルコ16:1-3)
すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイイススを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イイススが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イイススは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
(マトフェイ28:2-7)
女たちは目撃し聞かされたことに驚き畏れ、主を失って消沈していた使徒たちや他の弟子たちのところへ走って行き、「ハリストスは死者のうちから復活しました」と告げました。
しかし、使徒たちや他の弟子たちに主の復活の予言が実現したことを確信させたのは、天使たちや携香女たちの証言ばかりではありませんでした。他ならぬ主ご自身が、復活から昇天までの40日間に彼らの内の多くの者に姿を表したのです*[67]。たとえば、イイススは携香女たちが主の墓を去ろうとしたときに彼らに姿を表しました(マトフェイ28:9-10)。マグダリナのマリヤは彼らの前に現れた人物がまさに主であることを最初に悟りました(マルコ16:9)。最初のパスハの日、朝、携香女たちにご自身を顕した主は、つぎに使徒ペートルにも顕れました(ルカ24:34)。同じ日の遅くには、イエルサリムからエンマウス(聖都から7マイルほどの村)へ向かって歩いていた二人の弟子たちにも主は顕現しました(ルカ24:13-35)。復活の日の暮れ方、ハリストスは使徒たちの前に顕れ、彼らと共に食事をし、彼らに主のそれまでの働きの意味を教え、すべての国々に主の福音を宣べ伝えることを委ねました(ルカ24:36-49、またマルコ16:14-18を参照)。そして使徒たちが復活の後、幾週かしてガリラヤに帰ってきたとき、主は山頂(タボル山か)で彼らに会い、真のクリスチャンの果たすべき偉大なる使命を委託しました。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イイススが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イイススに会って拝した。しかし、疑う者もいた。イイススは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』」(マトフェイ28:16-20)。そして復活から40日後、イエルサリムに近いヴィファニヤで使徒たちに顕れ、使徒たちがやがて聖神の賜物と力を受けると約束すると(聖使徒行実1:1-11)、天に上がられ父の右に座しました(マルコ16:19、ルカ24:50-51、聖使徒行実1:9-11)*[68]。
昇天に先立ち、ハリストスは使徒たちに、主はいつも彼らと共にいること(マトフェイ28:20)、ほどなく彼らの上に聖神が降ることを約束しました(聖使徒行実1:1-11)。主の昇天から十日後、イウデヤ人の五旬祭の日*[69]、使徒と弟子たちは「聖神に満たされ」ました(聖使徒行実2章)。聖神の力によってハリストスに従ってきた者たちの群れは「教会・ハリストスの体」、世界中に救いの「よき知らせ」を伝えていくための使徒の共同体へと変容されました。そんなことから、しばしば五旬祭は教会の誕生日であると称されます。
共観福音書によれば、ナザレトのイイススは「ダヴィドの子」「メシヤ」「ハリストス」でした。しかし、当時のイウデヤの人々が待望していた「メシヤ・ハリストス」とは異なりました。イイススの目的は地上的なイズライリ王国を再建することではなく、天上的な「神の国」の開始でした。第4章で指摘したように、古代のイウデヤ人たちは「人の子」を地上よりむしろ天上に由来する超越的な存在であると考えていました*[70]。イイススはご自身を「人の子」と呼ぶことによって、ご自身が神的な存在であることを宣言されていたのです。共観福音書記者たちもまた、イイススを「人の子」そして「主」と呼び、ハリストスが「人の子」と自称したことの深い神学的な意味を強調しました。共観福音書においては「人の子」が神の子であり主であることは、ハリストスの処女降誕、イオルダン川の洗礼での神現、変容、そして光栄に満ちたその復活と昇天の記事に啓示されています。マトフェイ、マルコ、ルカはまたイイススの真の人間性を強調します(たとえば誘惑や受難の記事で)。しかし、主の裁判でサンヘドリンの議員たちが衝撃を受け憤ったのはハリストスがご自身を神の子と主張したことでした。イウデヤ人の考え方では、メシヤはあくまで神に任命された人間であり、神的な存在ではなかったからです。
イイススの独自のメシヤ性のうち、当時のイウデヤ人に受け入れ難かったもう一つの点は、イイススが受難し死に服したことでした。この世の人々の目にはそれは明らかに敗北の姿でした。イイスス自身が予言した受難の姿においても、また実際に体験した事実においても、神的な「人の子」は預言者イサイヤが語った「神の苦難の僕」の姿として示されました*[71]。しかし、もう一度言いましょう。当時のイウデヤ人にとって、死さえも甘受する者としてのメシヤ像は許し難くかつ受け入れがたいものでした。ヘレニズム時代のイウデヤ人が期待していたメシヤは、武勇にたけた解放者、世界の指導者でした。
そんな中で共観福音書は、神でありかつ人であり、世の罪のために受難と死をなめたメシヤを宣言しました。また神であり人であるハリストスがその死と復活を通じて人類と世界を罪と死の圧政から解放したと告げました。救い主ハリストスへの信仰によって、また「ハリストスにある」すべての者が受けることのできる神聖神の賜物によって、人は神と和解し「神の子」としての条件を回復します。なぜならハリストスを通して、すなわちその神化された人間性を通して、人は至聖三者の生命と臨在の内に「昇天」することが可能となり、三一の神との完全な交わりに入ることができるからです。これが、共観福音書の中心的メッセージです。このメッセージはイウデヤ人や他の多くの人々にとってはつまづきの石となりましたが、クリスチャンにとってはまさに神の力と知恵なのです(コリンフ前書1:24)。
*[1] F.F.Bruce, “Bible”, in The New Bible Dictionary, eds.J.D.Doublas,
et al.(Wm.B.Erdmans,1973)150.
*[3]今日の多くの聖書学者たちはペトル後書とイウダ書は1世紀終わりか2世紀の初めに書かれたと考えている。Charles M.Laymon, gen.ed., The
Interpreter’s One-Volume Commentary on the Bible (Abingdon Press,1971)931,942
*[6] 教会は特に2世紀半ばのマルキオンの異端に手を焼いた。マルキオンはグノーシス主義者で旧約聖書全体と、新約聖書の大半の文書の正典性を否定した。彼はルカ伝を省略した文書とパウェルの10の書簡のみを認めた。Veselin Kesich, The Gospel Image of
Christ: The Church and Modern Criticism (SVS Press, 1972) 69-72 参照
*[12] Irenaeus, “An
Exposition of the Faith” in Early Church Fathers, tr. and ed.
C.C.Rechardson (Macmillan,1976) 370
*[17]
フリギヤのヒエラポリスの主教パピアスによれば「マトフェイは『ロギア』(すなわちハリストスの『託宣』ないし『ことば』)をヘブライ語(アラム語)で集め、各人はその能力に従ってそれらを翻訳(解説)した」。このイイススの言葉集が、ルカとマトフェイが用いたQ資料かもしれない。
*[20]
イドメヤ人はイアコフの子エサウの子孫であったエドム族の末裔たちである。彼らはセム系ではあったがイウデヤ人ではなかった。イロド大王の祖父が政治的な理由でイウデヤ教徒に改宗したのだった。イウデヤ人たちはイロドの王朝を決してエウレイ王朝の正当な継承者とは認めなかった。
*[22] ニコラス・カバシラス(Nicolas Cabasilas)の言葉。Mother
Mary とKallistos Ware 主教によるFestal Menaion 60p(Faber&Faber、1977)からの引用
*[38]
ハリストスへの誘惑の意味についての興味深い正教会の解釈については次を見よ。Paul Evdokimov, The Struggle with God(Paulist Press,1966) 111-30,
Veslin Kesich, The passion of Christ (SVS Press, 1965) 8-12
*[42] すでに指摘したように、マトフェイ、マルコ、ルカはハリストスの公生涯について正確な伝記的・年代記的な関心を持っていない。彼らの目的は学問的な記録を残すことではなく、使徒たちによって宣言され世界中に伝わっていったハリストスの福音の本質を伝えることにあった。