第三章 旧約聖書の語る古代イズライリの歴史

 

 旧約聖書の49文書の内、23文書が古代イズライリの歴史を語ります。モイセイ五書はアウラアムからモイセイまでの時代を、創世記第12章から出エギペト記、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)へと述べてゆきます。イイスス・ナウィン(ヨシュア)記、士師記、ルフ(ルツ)記はイズライリ民族のハナアン(パレスティナ)征服とその地への定着までの物語です。サウル、ダヴィド、ソロモンによるエウレイ(エウレイ)王国の成立とソロモンの子孫たちによるその分裂は、列王記T・U(サムイル記上・下)、列王記V・W(列王記上・下)、歴代志上・下、トウィト(トビト)記、ユディフ(ユディト)記に詳しく記されています。紀元前6世紀からハリストスの時代までイウデヤ民族は、ワウィロン(バビロニア)帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ、ローマの支配下に次々に置かれていきました。その歴史は、エズラ記、ネヘミア記、エスフィル(エステル)記、エズドラT、マッカウェイ記T・U・Vに記されています。外典のエズドラ記Uとマッカウェイ記Wもこの時代を描きます。

 

 正教会の立場からは、旧約聖書に述べられる歴史は「神・子」イイスス・ハリストスの藉身へ向かう歴史です。旧約全体が新約の啓示の前触れであり、ハリストスの降誕への準備です。聖使徒パウェルは旧約の啓示の中心にハリストスがあることをティモフェイ後書で次のように述べています。「幼い時から、聖書に親しみ、それが、ハリストス・イイススに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(3:15)。これらの言葉はまだ新約聖書が形をなしていなかった紀元67年か68年に書かれました。したがってここでパウェルの言う「聖書」とは旧約聖書を指します。この旧約聖書が私たちをハリストスの救いへと導くとパウェルは教えているのです。パウェルと他の新約聖書記者たちに従い、正教会は旧約聖書を世界の救いについての神のご計画の予備的な啓示であり、聖書は旧約・新約ともに、イイスス・ハリストスによって実現される神の救いについての書であると見なします。旧約聖書は神がハリストスによって人類と世界を救うことを予告し、新約聖書はその約束の成就を語ります。神はこの救いのために、まずお選びになった民イズライリを通じて、そしてイズライリのメシヤ、ナザレトのイイススを通じて働かれました。

 

〔解説・補論〕ティモフェイ書がほんとうにパウェル自身が書いたものであるか、また成立時期については様々な議論があります。ここでは聖伝に従いパウェルの手になるものとして執筆年代が67年か68年と推定されています。

 

 神は藉身し人類の一人となるために、世界のたくさんの国々の中から一つを選ばねばなりませんでした。もし、神・子がたくさんの文化と国家に分裂したこの堕ちた世界で「人となる」のなら、その「人」はこれらの文化や国家のうちの一つに生まれなければなりません。神はイズライリ民族をご自身の民として選びました。イズライリと全世界を悪の力から救うメシヤを送ることを約束し、イイスス・ハリストスの降誕と贖いのわざで頂点に達する救済の歩みを開始しました。聖書は神が他の国々ではなくイズライリを選んだ理由は語りません。これは神がなされたこととして示すだけです。アウラアムの時代からローマのパレスティナ征服に至る、旧約聖書に記された古代イズライリの歴史は、ハリストス、藉身した神の子の到来にイズライリと世界がどのように準備されたかを明らかにします。

 

〔解説・補論〕筆者は神がイズライリを選んだ理由については「神がなされたこととして示され」ているとのみ語ります。聖書にはあれこれ詮索をしないで受け入れなければならない部分がたくさんあります。ただこの箇所については、まさに「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」(コリンフ後書1:27)というパウェルの言葉の好適例と言えるでしょう。イズライリの地は歴史上つねに、チグリス・ユーフラテス文明の上に次々と盛衰する大帝国と、ナイル文明にたつエジプト帝国の狭間で翻弄される地域でした。もし神が大帝国を選んだとしたら、彼等はその選びを恵みとは受け取らなず、みずからの実力への当然の厚遇と見なし高ぶり誇るでしょう。神の恵みや人類への愛は忘れられてしまいます。弱くちっぽけなこの民族であればこそ、彼等への手厚い保護とそこからの救い主の現れは、神の救い、神の恵み、神の愛の表れとして、讃美され感謝されるはずです。

 

 この章では、まず最初に旧約聖書に描かれる古代イズライリの歴史を学び、次に正教会の立場から見た、その歴史の神学的な意味を解読してゆきましょう。

 

族長の時代から出エギペト後までのイズライリの歴史

 

 古代イズライリの歴史は六つの主要な期間と段階に区分すると便利です。

1)族長(太祖たち)の時代 紀元前2000年頃から1700年頃

2)出エギペトの時代 紀元前1290年頃から1250年頃

3)ハナアン征服期 紀元前1250年頃から1200年頃

4)十二部族の連合体時代 紀元前1200頃から1025年

5)エウレイ王国の勃興と崩壊の時代 紀元前1025年から538年

6)ワウィロン捕囚からローマ帝国支配までの時代(しばしば復興期と呼ばれる)

               紀元前538年から37年

 

族長たちの時代(紀元前2000年頃から1700年頃)

 

 イズライリの族長(太祖)たちの物語は創世記の12章から50章にかけて語られます。これらの章の中心的な主題は神のアウラアムとの契約、そしてアウラアムの子孫たち、またイズライリの人々とのその契約の更新です(旧約、新約の「約」はラテン語ではtestamentumであり、「契約」covenantを意味します)。アウラアムにおいて、イズライリ民族は神の民として選ばれ、ハナアン(カナン、パレスティナ)の地の「永久の所有」(創世記17:8)が約束されました。神への信仰と従順を保ち、イズライリ民族は「約束の地」で自由と平和と幸福を謳歌しなければならないとされたのです。

 

 神とアウラアムとの契約関係がその後どのように展開していったかは創世記の1110節から2518節にかけて物語られます。神はアウラアムを「選ばれた民」の父とし、彼に約束しました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(12:2-3)。また聖書は、アウラアムが古代イズライリ国家の族長としてばかりではなく、「多くの国民」の父として選ばれたことも語っています(17:4-6)。創世記177-8節で、神はアウラアムに「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちハナアンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」と告げました。創世記179-14節によれば、神の約束が成就されるかどうかは、アウラアムと彼の子孫たちの神への忠実さ次第であり、神とその民との契約のしるしとして割礼の儀式が設けられました。正教会の立場からは、アウラアムが「多くの国民」の父となるのはハリストスとその教会を通してであり、アウラアムの子孫とはハリストスに忠実に結ばれて生きる人々のことです。ハリストスは割礼の儀式を洗礼機密に取って代えました。洗礼によってハリストスに結ばれた者こそが真の約束の地、神の王国を相続します。聖書に言われる「ハナアンの地」はその象徴なのです。

 

 創世記の2519節から3643節は、神のアウラアムとの契約がアウラアムの息子イサアク、さらにその子イアコフにおいて更新され、受け継がれていったことを語ります。

 聖書はアウラアムの神への信仰の強さと、イサアクの霊的な堅固さと無垢を証ししています。しかし、イアコフは神への信仰が弱く不純で罪深い男でした。聖書は彼の前半生を、神の義と神との和睦への「長い回り道」として描きます。イアコフは「神と人と力を争った」者と呼ばれ、神はついに彼に「イズライリ」という名を与えます。これは「神と争った者」という意味です(32:28)。イアコフが自分自身の罪深い性質を克服するために戦い、霊的に勝利したこと、そして神と、共に生きる人々との和解を達成したことが、この名によって神に確証されたのです。 

 

〔質問への答え〕なぜ「信仰が弱く不純で罪深い男」イアコフが祝福を盗み取ることを神は見過ごし、エサウが斥けられたのかというご質問をいただきました。イアコフの行動は確かに卑劣な詐欺であり父イサアクへの裏切りです。しかし、エサウは「四十歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バスマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなった」(創世記26:34-35)とあります。ヘテびとは異邦人です。両親の心の痛みとは、息子エサウが真の神への信仰を共にしない異邦人を妻にめとったことにあり、また神の目にもそれはイサアクの詐欺行為を見過ごしにしてもあまりある「悲しみ」であったのです。また、エサウはある日狩りから帰ってきた時、空腹にたえられずイアコフから「長子の特権」と引き替えに食べ物をもらいむさぼり食いました。(創世記25:29-34)これを聖書記者は「長子の特権を軽んじた」と表現しています。

 

 イアコフ即ちイズライリは十二人の息子の父となりました。ルウィム(ルベン)、シメオン、レヴィ、イウダ(ユダ)、ダン、ネッファリム(ナフタリ)、ガド、アシル(アセル)、イッサハル(イッサカル)、ザウロン(ゼブルン)、イオシフ(ヨセフ)、ウェニアミン(ベニアミン)です。「イズライリの子ら」は古代のイズライリ国家を構成していた十二部族の父(開祖)となりました。かくて「イズライリ」は個人の名であるとともにアウラアムの子孫全体を表す名でもあるのです。

 

 イズライリの子らの歴史は創世記37章から50章にかけて、イアコフの下から二番目の息子イオシフを中心に詳しく物語られます。彼の兄たちはイアコフが「他のどの子よりも彼を愛し」ていることに腹を立てイオシフを穴に投げ入れてしまいます。彼は旅の商人に助けられエギペトに連れて行かれ、そこで奴隷として売られました。そこで、彼は主人となったポティファル(ポテパル)に気に入られ厚遇されましたが、やがて主人の妻は、自分が言い寄ったのにイオシフが応じなかったのに腹を立てて、反対に彼が誘惑したと偽りの告発をします。彼は投獄されてしまいます。そのころ、ファラオン(エギペトの王)は説明のつかない夢に悩まされていました。イオシフが夢を解く特別の能力を持っていることを聞き、ファラオンはこの若い囚人を呼びよせました。イオシフは王の夢を解き、7年間の豊作の後に7年間の飢饉が来ることを預言しました。そして大量の食物の備蓄を王に勧めました。王は彼に食物を備蓄するための仕事を任せ、彼は首尾良くそれを成し遂げました。彼はその功績により、エギペトで傑出した力を持つ人物となりました。

 預言した通りに飢饉がやってきました。食物を買うためにエギペトにやってきた外国の人々の中に、イオシフの兄弟たちがいました。イオシフは彼の兄弟たちを赦し、父イアコフ(イズライリ)を呼びにやりました。かくしてイズライリとその人々は、その後モイセイの時代までエギペトに寄留することになりました。

 

モイセイと出エギペト(紀元前1290-1250

 

 イズライリ民族のエギペト脱出とハナアンへの帰還の歴史は、出エギペト記、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)に記録されています。これらの記録は紀元前10世紀から5世紀の間にユダヤ教の司祭や学者たちによって書かれ、編集され、蓄積されたものです。

 

 出エギペトは二つの主要な部分に分かれます。18章まではイズライリ民族がエギペトの地で圧迫されていたこと、そして預言者モイセイの指導のもとでエギペトのくびきから脱出したことが描かれています。19章から40章では、神がモイセイならびにイズライリ民族との間で、選ばれた民との契約を更新したことが述べられています。

 

 エギペトの地でのイズライリ民族の受難は第一章に述べられます。イオシフとその兄弟たちの死後、イズライリの人々はエギペトで繁栄しました。「イズライリの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった」(1:7)。そして、「ここに、イオシフのことを知らない新しい王が、エギペトに起った」(1:8)。セトスT世とも推定されるこの王は、イズライリの人たちの力とその膨大な人口を恐れました。そこで、王は彼らを奴隷とし、男の新生児はみなナイル川に投げ込んでおぼれ死にさせることを命じました。

 

 このような状況にモイセイは生まれました。彼の両親はレヴィ族のイズライリ人でした。彼の母親は、彼の生命を助けたい一心で彼をナイルの川辺の葦の間に隠しました。赤ん坊はファラオンの娘に見つけられました。彼女は彼を自分の子としモイセイと名付けました。モイセイとは「(水から)引き出された」という意味でした。モイセイは川の水から「引き出され」、やがて彼の同胞をエギペトから「引き出し」たのです(2:1-10参照)。エギペトの宮廷で成長したモイセイはやがてエウレイ人としての出自を知ることとなり、自分の民族への忠誠心を強めてゆきます。若きモイセイは、イズライリ人を殴った一人のエギペト人を殺してしまいます。これが王の知るところとなり、モイセイはミデヤンの地(今日のサウジアラビア)に逃亡することを余儀なくされます。彼はその地でミデヤン人の司祭の娘と結婚し、羊飼いとして過ごしました(2:11-22)。しかし、彼の家庭生活と安定した遊牧生活はやがて中断されてしまいます。神が燃える柴の中にあって彼のもとに現れ、エギペトに戻りイズライリ民族をそこでの奴隷状態から解放せよと命じたのです(2:23-4:31)。

 

 イズライリ民族のエギペト脱出については5章から15章にかけて詳しく語られています。ミデヤンからエギペトに帰り、モイセイはファラオン(おそらくはラムセスU世1290-1224BC)を訪れて、イズラエリ民族をエギペトから立ち去らせてくれるように働きかけます。しかしファラオンはイズライリの人々から束縛を解くことを拒否しました。そこで、神はファラオンに心を変えさせるために、十の災いをエギペトの地にもたらしました。イズライリの人々はこの災いから守られていました。ついに十番目の災いがエギペトの人々と家畜たちを襲うに及んでファラオンはモイセイの要求をのみ、イズライリの人々を解放しました。

 

〔質問への答え〕なぜ全能の神が、ファラオンの心を翻させるために、10度も災いを及ぼすなどという迂遠なことをしたのかというご質問が寄せられました。様々な注解が可能でしょう。神がエジプトでそのお力と光栄を現すためにエジプト王をかたくなにした結果が、10度にも及ぶ災いであったという注解もありますが、むしろ正教徒としては4世紀の聖師父ニッサのグレゴリイの注釈に耳を傾けたいものです。そこでは、「ファラオンは神によって心をかたくなにされた」と聖書は語っていると述べられた上で、それでもそれを文字通りに受け取ってはならないとあえて言います。ファラオンはその自由意志に対して神から呼び掛けられました。しかし、彼はその呼び掛けに応えず神の意志に背きました。神は、そのご意志を繰り返される災厄で明確に示し、ファラオンに翻意を迫る他ありませんでした。グレゴリイは「各人は…、ある人は徳(アレテー)によって正しい生を送り、また他の人は悪の内に滑り落ちるのである。それゆえ、このような諸々の生の違いを、一律に神的意志に基づく超越的な必然のせいにしてしまうことは、正当とは言えないであろう。生のあり方・かたちを選び取ることは、各々の人の自由な選びの力に委ねられているのである」(「モーセの生涯」74節 キリスト教神秘主義著作集1 教文館 所載)と言っています。

 

 こうして、イズライリの人々はモイセイに率いられエギペトの地を出発しました。彼らがエギペトからシナイ半島へ向かっているころ、ファラオンは彼らに自由を与えたことを後悔し、軍隊を動かして紅海に向かって進んでいたイズライリ人たちを追わせました。(一般的に「紅海」と訳されているエウレイ語は、正確には「葦の海」と訳されるべきもので、紅海そのものではなくもっと北方の水深の浅い一帯ではないかと言われています)。エギペト軍に追われるモイセイと神の民が海に到達した時、モイセイは神の命令によって「手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれ」ました(出エギペト14:21)。恐れに震えていたイズライリの人々は無事に海を通り過ぎることができました。しかし、ファラオンの軍隊が逃亡するエウレイ人たちを追おうと海に入ると、主は海の水をいつもの流れに返らせ、エギペト人たちはみな溺れ死んでしまいました(14:22-31)。イズライリの人々は、ついに完全にエギペトの束縛から逃れ、「主を恐れ、主とそのしもべモイセイとを信じ」ました(14:31)。

 

 出エギペトの物語には、伝統的なキリスト教の機密神学の展開に重要な役割を果たしてきた二つのイメージが含まれています。第一は、エギペト人たちを十番目の災厄が襲っている間に、神によって立てられた過ぎ越しの祭りです。この祭りの詳細は12章に述べられ、そこで主はイズライリ人たちに過ぎ越しの子羊をどのように準備すればよいか教えています。

 

小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。……イズライリの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。……急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。その夜わたしはエギペトの国を巡って、エギペトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエギペトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。……その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエギペトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。(12:5-13

 

 正教会の機密神学はこの過ぎ越しの出来事を聖体機密の象徴的な預象と解釈します。過ぎ越しの子羊が犠牲とされ、食されます。そしてイズライリの人々は子羊の血によって神の怒りを免れます。新約では、ハリストスが過ぎ越しの子羊です。その死は人類を罪と死から救いました。クリスチャンの聖体機密では、神の民は成聖されたパンとぶどう酒を食べ飲むことで主イイスス・ハリストス「世の罪を取り除く神の小羊」(イオアン1:29)のお体と血に与ります。

 

〔解説・補論〕聖体礼儀は、エジプトから約束の地への解放という「過ぎ越しの出来事」が預象する、罪と悪と死の支配から人類を解放した「神の子羊」イイスス・ハリストスの十字架への自己献祭という、歴史上たった一度の完全な「新たなる過ぎ越し(パスハ)」への神秘的な(機密的な)一致と言えます。奉献礼儀で「一卒矛をもってその脇を刺す、たちまち血と水と出でたり」と唱えられつつポティール(聖爵・カップ)にぶどう酒が注がれ、やがて主の御血に聖変化したそのぶどう酒は教会によって分かち合われます。ほふられた子羊の血によってエジプトを無事脱出した古代イズライリの人々と同じように、新たなる神の民も神の国への「移行」を遂げます。

 

 イズライリ人たちの奇跡的な渡海の物語もまた、機密との関わりで解釈されてきました。この物語は、実際、洗礼機密のイコンと言えるのです。神の民は海に入ります。これは通常では死を意味します。しかし、彼らは神の介入によって、エギペト人たちから解放されました。第2章で示されているように、洗礼の機密は、水に入りそして水からあがることですが、ハリストスの復活と死に与ることです。出エギペトの渡海の記事は、新約で洗礼のテーマが完成してゆくための、旧約における幾つかの重要なイメージの一つです。

 

〔解説・補論〕紅海の渡海は、エジプト脱出の決定的な出来事でした。罪の支配から脱出し、神の国へと歩みを進めるクリスチャンにとっても、水に入り、水から出る洗礼機密は決定的な意味を持ちます。

 

 エギペトの地からの解放に続いて、イズライリの人々はモイセイに率いられてシナイ半島の砂漠地帯をシナイ山に向かって進みました(15-18章)。この旅は困難を極めました。人々はしばしばモイセイに不平を言いました。しかし再三再四、彼らの飢えと渇きが限界に達したかのように見えた時、イズライリ人たちは神の介入によって支えられました。主は彼らに新鮮な水(15:22-2717:1-7)、肉とパン(16章)を与えました。またさまようエウレイの人々を皆殺しにして略奪しようとした砂漠の獰猛な部族アマリク(アマレク)人たちとの戦いでは、イズライリ人たちに勝利を与えました(17:8-16)。このように、神の助けによって、モイセイとイズライリ人たちはシナイ山に到着しました。このシナイ山はきわめて大きな霊的な意義がある地でした。これらの砂漠での神の支えの物語を、正教会の注釈者はこぞって、モイセイの時代から何世紀も後にイイスス・ハリストスによって成し遂げられた決定的な救いのわざのイメージ、または預象として解釈してきました。

 

 イズライリのエギペトからの解放を語る第1章から第18章に続いて、モイセイとイズライリ民族に対して、神の契約が更新されたことが物語られます(1940章)。すでに見たように、神とイズライリ民族との契約はアウラアムに始まります。出エギペト記ではその関係は更新され、いっそう多面的なものとなります。シナイ山で神はモイセイに告げました。「このように、…イズライリの人々に告げなさい、…もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(19:3-6)。ここで、神のアウラアムとの契約はイズライリ民族全体(アウラアムの子孫)との契約へと拡大されます。その契約条件はこの民族が神に忠実に従うことでした。

 

 イズライリの人々が契約へ同意したことを見て、神はモイセイをシナイ山の頂上へ呼び出し、彼に聖なる律法を授けます(20-23章)。この律法は出エギペト記の中では、二つの部分に分けられます。「十戒」(20:1-17)と「契約法典」です(20:21-23:33)。出エギペト20章と、モイセイの回想として復伝律例(申命記)の56-21節に宣べられている十戒では、神の道徳的な本性、聖性と義、そして神の民の生き方が啓示され、契約法典の前文ないしは序説と位置づけられるでしょう。契約法典はしばしば「契約の書」と呼ばれますが、個々の問題についての詳細な戒めの集積であり、宗教的礼拝と儀礼、奴隷と僕の取り扱い、殺人、犯罪的な暴行、盗み、財産権、高利貸し、中傷、魔術、性的行為、偶像崇拝、安息日の遵守など広範囲に及びます。

 

 概して言えば、出エギペト20章から23章にかけて示されている律法は神のその民に対する意志の啓示です。すなわち、主の御言葉に忠実に従えば、神の民は「祭司の国となり、また聖なる民と」なり、アウラアムに対して約束された地を所有するに値するものとなるであろうと。モイセイを通じて語られた神の御言葉を聞き、イズライリの人々は「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、従順に行います」と宣言しました(24:3-8)。

 

 契約と律法へのイズライリの人々の明確な同意への答えとして、またアウラアムの子孫たちを神の選ばれた民とするという約束の成就として、神はモイセイに幕屋(テントで作られた携帯用の聖所)を作ることを命じました。聖書は主の幕屋の制作について、出エギペト記25章から40章にかけて述べています。幕屋は十戒が刻まれた石板(「あかしの板」)を入れるための木の箱(約櫃)を納めるためのものでした。イズライリ人たちの宗教的礼拝はこの幕屋の中で、レヴィ族の中から選ばれた司祭たちによって執行されました。イズライリの司祭として最初に選ばれたのはモイセイの兄であるアアロンとその息子たちでした(28:1-4)。最も重要なことは、神ご自身が幕屋の内で「光栄を帯びた雲」の中に臨在されたということです。それは聖所を満たし幕屋(とそこにある約櫃)を覆っていました(40:34-38)。ハナアンの地を征服するまでの四十年間、イズライリの人たちが荒野をさまよっている間、主はいつもその民と共にあり、ふるさとへの彼らの歩みを導いてきました。「すなわちイズライリの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった」。 

 

〔質問への答え〕神がモイセイに幕屋の制作を命じるさい、その素材等を細かく指定していますが、なぜそこまでこだわるのであろうかという疑問が湧きます。この世に存在するあらゆるものには神が意図した目的があるはずです。幕屋やその他の聖なる器物の製作にあたって、細かく指示されることには、その目的を啓示するという意味が含まれているのです。幕屋制作の無味乾燥で長大な記事に、私たちはむしろ世界とそこにある一切が、神が私たちに与えた、ご自身への感謝と讃美のための贈り物であったということに、思いをいたさなければなりません。現実の人間はその贈り物を用いて何を作ってきたでしょうか、何をしてきたでしょうか、何を飾ってきたでしょうか。暗然とします。

 

 既に指摘したことですが、神の人との契約にはいつも契約関係が成立したことを確証するしるしが伴います。モイセイの時もそれは変わりませんでした。この契約は三つのしるしによって確証されました。最初に、主は安息日の遵守を「わたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのもの」(31:12-18)として命じました。第二に、律法がモイセイとイズライリ民族にしるしとして、また契約の拡大として与えられました。第三に、契約は幕屋の制作によって完成されました。神がまさにイズライリの人々と共にいることのしるしでした。

 

 レヴィ族とエウレイの司祭たちの書「レヴィ記」は、モイセイと彼の兄弟大祭司アアロンに指導されるイズライリ民族の宗教組織のあり方を述べています。この書の中心主題は神の完全な聖性、人間の罪深さとその贖いの方法です。レヴィ記の最初の16章は古代イズライリの祭儀に関する律法を記します。これは、それによって罪深い人間がその主と和解するために神に近づく方法です。清めの儀式、礼拝、いけにえ、そしてレヴィ族の司祭たちによって執り行われる祭儀を通じて、イズライリの人たちの霊的、道徳的な過ちは悔い改められ、神によって赦されます。レヴィ記16章には、伝統的なイウデヤ教にとって重要な儀式であった「贖罪日」の制定について述べられています。「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである」(16:29-30)。罪深き人間が聖なる神に和解(atonement,at-one-ment、贖い)されること、これこそがレヴィ記1章から16章の祭儀律法全体の目的だったのです。

 

 17章から27章は、幕屋の祭儀についての律法と一般的な道徳律との関係への、より広範な分析が述べられます。結婚、貞潔、両親への尊敬、貧者への配慮、隣人との関係、安息日や過ぎ越しの祭りなど国家的な祭儀への参加、また十分の一税などの事柄が詳細に論じられます。この部分は、そこで各人の宗教的敬虔さと道徳的な純潔が強調されるため、しばしば「聖潔法典」と呼ばれます。

 

 民数記(第1章と26章でイズライリ民族の人口が数えられるためこのように呼ばれます)は、モイセイのもとでのイズライリの社会的、政治的組織について、また、イズライリ人たちがハナアンの地の征服にどのように準備したかが述べられます。「民数記が伝えるほとんどの出来事は、エギペト脱出とハナアン侵入の間の40年の期間の第2年目と、第40年目のことである。二つの出来事を除いて、荒野での38年間については何も語られない」*[1]。彼らの神に対する罪――信仰の欠如と神の律法に従えなかったことによって、イズライリの人々はシナイ山における契約の更新後、ただちにハナアンの地に入ることが許されませんでした。かわりにハナアンの地の南で40年間の試練の時、彷徨の時を過ごさなければなりませんでした。民数記はイズライリ民族が約束の地に入るための準備期間を設けたことを通じて、聖性をめざす一人一人の、そして秩序正しい共同体の宗教的な献身の重要性を強調します。

 

 キリスト教の立場からは、イズライリ人たちが40年間荒野に逗留し、最終的に聖なる地を征服したことは、ハリストスが40日間荒れ野でサタンの誘惑をお受けになることの預象です(マトフェイ4:1-11、ルカ4:1-13)。イズライリの先人たち同様、「イイススは御霊によって荒野に導かれ」ました。それは「悪魔に試みられるため」でした。しかしながら、それは、イズライリ人たちとは異なり、イイススが罪を犯したからではありません。神の子が藉身したお方として、人間が生きなければならない条件をご自身に引き受けるため、ハリストスは人間の罪がつくり出してしまった荒れ野におもむいたのです。荒れ野で悪魔に勝利したハリストスは、新たなるイズライリとして教会を打ち立てるために、またその新たなるイズライリを旧約のハナアンの地が象徴する真の聖地「神の国」に導くために、この世に戻ってきました。

 

 五書の最後の書「復伝律例」(すなわち「第二の律法」)はそのほとんどの部分が、神との契約と神から与えられた律法の内容と意味について、モイセイが最後に教えたことを伝えるために費やされています。この書はモイセイがイズライリの諸部族に行った三つの説教によって構成されています。第一は、神の民がなぜ砂漠を彷徨わなければならなかったかについて、神への愛と従順の点での彼らの不忠実が強調されます(1:1-4:43)。第二は、律法の解説です(4:44-26:19)。第三は、契約の意味について説かれます(27-30章)。モイセイの最後の日々と彼の死が、31章から34章まで詳しく描かれます。復伝律例、そして五書全体の基本的なメッセージはモイセイによって発せられた次の問いかけが典型的に示します。「イズライリよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしが今日あなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである」(10:12-13)。

 

〔質問への答え〕40年の砂漠の彷徨をもたらしたイズライリ人たちの不忠実については復伝律例1:1-4:43にまとめられていますが、決定的だったのは彼らが「これを自分のものにしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない」という神の命によっていよいよハナアンの地に侵入しようとしたとき、斥候たちのもたらした「その民はわれわれよりも大きく、石垣は天に届いている」という情報におびえ、侵入をためらったことにあります。ここには神が共にあるということへの信頼が欠如しており、神は40年間の試練の中で、イズライリ民が神への真の信頼を確立し、この不信の世代が新しい世代に完全に入れ替わるまで待つことを選ばれました。この不忠実はモイセイにもあったとされます。砂漠で水がなく民が不平を言った時、主はモイセイに「あなたはつえをとり、あなたの兄弟アアロンとともに会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい」と命令しました。集まった民の前でモイセイは「つえで岩を二度打ち」水を出させました。この二度岩を打ったことに、単に「命じろ」と言ったにすぎない神への不信が現れており、このことによってモイセイもハナアンの地に入れなかったと、古来伝えられてきました。

 

ハナアンの征服(紀元前1250-1200頃) 

 

 紀元前13世紀に成し遂げられたイズライリ民族によるハナアンの征服は、紀元前5世紀に現在のかたちにまとめられたイイスス・ナウィン記(〔ヌンの子〕ヨシュア記)に順序立てて記録されています。この書の書名はその中心的な役割を果たす人物イイスス・ナウィン〔ヌンの子ヨシュア〕に由来します。彼はエフレム族に属しイズライリの精神的かつ軍事的指導者としてモイセイの後継者となります。約束の地の占領の成功は、イイスス・ナウィン記では神がその民に約束した契約の成就としてとらえられています。

 

 旧約聖書の読者の多くが、神のイズライリ民族への厚遇と、神がハナアンの人々を激しく怒り、断罪し、なされるがままに打ち棄てたことに当惑します。しかしながら聖書は、ハナアンの人々がまったくの腐敗と堕落のうちにあり、彼らの宗教も偶像崇拝と悪霊崇拝に陥り時には人身犠牲まで行っていたことを語っています。彼らは古代中近東の他の人々にくらべても、はるかに神を畏れない下劣な生活を送っていたようです。ハナアンの人々が彼らの悪しき道を悔い改め、救いを求めて神に立ち帰ることは不可能ではありませんでした(イイスス・ナウィン記第2章、ルツ記1〜4章参照)。しかし聖書によれば、悔い改めと神の聖性に関心を寄せた者はほとんどいなかったようです。だからこそ神はイズライリの手に彼らを渡したのです。

 

 イイスス・ナウィン記は三つの部分に分かれます。第一は、イズライリによるハナアンの地への侵入と征服の記事です(1-12章)。第二は、イズライリの十二部族がどのように約束の地を分割したかを語ります(13-21章)。第三は、イイスス・ナウィンが死に際して行った最後の説教です(22-24章)。この別れの説教は神とイズライリとの契約の更新について語り、神への堅固な信仰と従順の必要性を強調します。不信仰と不従順の重大な危険さが特に強調されます。そして実際に聖書は、旧約時代の人々が神への忠実さを維持できなかったこと、つねに神に従順であり得なかったことを繰り返し証します。「この気が滅入りそうなイズライリの歴史は神への信仰と従順の失敗の明らかな例である。裁き、諸国への離散、神の祝福の撤回が不可避的に続き」*[2]ます。神のイスラエル民族との旧い契約(旧約)が、私たちの主、救世主イイスス・ハリストスによる新しい永遠の契約(新約)に取って代わられなければならなかった背景には、この不信仰と不従順がありました。

 

 イイスス・ナウィンによって古きイズライリが約束の地に導かれた物語は、ハリストスとその働きについて旧約聖書が預象するもう一つのイコン(イメージ)です。「イイスス(ヨシュア)」という名はエウレイ語で「神は救いである」という意味です。このヨシュアがギリシャ語に音訳されたのが「イイスス」です。イイスス(ヨシュア)が敵に勝利しハナアンの地に神の民を導いたのとちょうど同じように、イイススは教会(新たなるイズライリ)に勝利をもたらしました。そして今もなお、教会を真の約束の地、神の国へと導き続けているのです。

 

十二部族連合の時代(紀元前1200-1025年頃)

 

 士師記とルフ記はイイスス・ナウィンの死からサウル、ダヴィド、ソロモンのもとでエウレイの統一王国が成立する直前までのイズライリの歴史を語ります。この間、イズライリがすでに占領していたハナアンの地は十二部族の間で分割され、部族連合によってゆるやかに統治されていました。

 

 士師記が現在のかたちにまとめられたのは紀元前7世紀から6世紀にかけてであろうといわれます。この書の最初の部分(1:1-2:5)は、カナアンの地に対するイズライリの支配権が完全なものではなかったこと、イイスス・ナウィンの時代に始められた征服が不徹底なものに終わったことが強調されています。この失敗は、神への礼拝にハナアンに住んでいた異邦人たちの異教礼拝の方法を混入させた罪の結果として説明されます。イズライリの人々はカナアン人たちの中心的な神であるワアル(バアル)、ハナアン人の豊饒と戦いの女神であるアスタルタ(アシタロテ)を拝み始めました(2:11-15)。これを見て、主・神はイズライリにその地の完全な征服を許しませんでした。イズライリの人々が主の「この国の住民と契約を結んではならない」「彼らの祭壇をこぼたなければならない」(2:2)という戒めに従わなかったので、神は「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう」(2:3)と宣言したのです。

 

 このように不従順と不信仰は裁かれ断罪されました。しかし、神はイズライリの罪を裁き断罪する一方で、依然として慈悲深いお方でした。神はその民に「士師」として霊的かつ政治的な助力者を遣わしました。士師とは、十二部族連合の時代、イズライリ民族をハナアンの敵と彼ら自らの背信から救うために現れた、霊的また軍事的、政治的指導力の点でも特別の恩寵を受けた人々を指します。士師記の第二の部分は士師の出現と、 紀元前12世紀から11世紀のイズライリの歩みを特徴づける背信と解放の弁証法――罪、裁き、悔い改め、そして赦しの果てしない繰り返し――を語ります(2:6-16:31)。そこで扱われる士師たちはイウダのゴフォニイル(オテニエル)、アオド(エホデ)、セメガル(シャムガル)、デッウォラ(デボラ)、ワラク(バラク)、マナシア(マナセ)のゲデオン(ギデオン)、イッサカルのフォラ(トラ)、ゲレアドの(イアイル)、イッファイ(エフタ)、イフツァン(イブザン)、エロン、アウドン(アブドン)とサムソンです。士師記はこれらの指導者たちが次々と交代していったのか、同時に活動したのかについては説明していません。最後の士師は列王記T・U(サムイル記上下)が示すようにサムイルでした。

 

 しかしながら、士師たちの指導のもとにあっても、イズライリ民族たちはその悪を免れることはできませんでした。士師記の三番目の部分(17-21章)には十二部族連合時代に顕著になってきた社会的、宗教的な無秩序状態が描かれています。多くのイズライリ人が神の律法と士師たちの指導にそむきました。彼らは不信仰かつ不従順であり、ハナアン人の文化や価値観や宗教的な習慣を取り入れてゆきました。この背信と異教化の結果は社会的、政治的な無秩序、腐敗であり、またイズライリの部族間の不安定な関係でした。神の契約を拒否したことによってイズライリは神に裁かれ、その結果きわめて危険な状況の中を歩まなければならなくなりました。士師記の結びの言葉は、当時の無政府状態が何に基づいていたか、またその危機の時代にあって神がその民をどこに導いていくかを告げています。「そのころ、イズライリには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」(21:25)。長い無政府状態の末に、ついにイズライリは、一人の王によって統合され支配される時代を迎えるに至ったのです。

 

 イズライリに王政時代が到来しつつあることは、おそらく紀元前6世紀に士師時代での出来事としてまとめられたルフ(ルツ)記ではもっと強調されています。ルフの物語は一般的には、不信仰、背信、無法、無秩序と特徴づけられるこの時代でさえ信仰深い神の子たちの生活には神が臨在しておられることを証ししていると読まれています。またイズライリ人とハナアンの人々との関係は、士師記とは異なった観点から描かれています。

 

 ルフ記の出来事は紀元前12世紀後半か11世紀初頭に起きました。イウダ部族の一家、エリメレフ(エリメレク)、その妻ノエミニ(ナオミ)、二人の子マロンとキリオンは飢饉を逃れて、生まれ故郷のウィフレエム(ベツレヘム)からハナアンの地の南西部分にあたるモアフ(モアブ)に移住しました。モアフの人々はロト(アウラアムの甥)と彼の娘との間にできた子(創世記19:30-38)であるモアフの子孫でした。近親相姦によって彼らが始まったことにより、モアフ人は神の道からはずれた者たちという烙印を押されていました。モアフの地でエリメレフは死に、彼の息子たちはモアフの娘たちと結婚しました。オルパとルフです。「彼らはそこに十年ほど住んでいたが、マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてノエミニはふたりの子と夫とに先だたれた」(1:4-5)。ウィフレエムの飢饉が終わったことを聞き、ノエミニは故郷へ帰ることを決意します。彼女の嫁たちも一緒に行くことを望んだのですが、ノエミニは彼女たちにモアブの地に残り同族の人々のもとに帰るように強く勧めました。オルパは承知しましたが、ルフはノエミニにすがりついて言いました。「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」(1:16)。このように愛と信仰によってイズライリ人となり、ルフはノエミニとともにウィフレエムに旅しました。ウィフレエムでルフはエリメレフの裕福な親戚ウーズ(ボアズ)の目にとまり、彼は彼女を大変気に入りました。ウーズとルフは結婚しました。彼らの子オベデの子イエッセイこそ、ダヴィドの父です。ダヴィドを通じて、ルフはイイスス・ハリストスの先祖となったわけです。彼女の名は、マトフェイ伝11-17節にあるハリストスの系図にはっきりと記されています。

 

 ルフ記には二つの主要目的があります。第一は、ダヴィド王のルーツをたどることです。(ルツ記はそこで伝えられる出来事からずっと後になって書かれたことを思い起こしてください)。第二は、神の愛と慈悲は、信仰を持って神に向かいその守護を求める者にはイズライリ人であるかどうかに関わりなく及ぶと宣言することです。エリメレフと彼の息子たちのモアフの地での死はイズライリ人たちが異教に走ったことへの神の断罪のしるしであり、一方、ノエミニのウィフレエムへの帰還とルフの改宗は、唯一、神がお受け入れになるイズライリ人とハナアン人の統合のかたちを表すしるしです。ルフ記のこの第二の狙いは、士師記に示される考え方と決して両立しないものではありません。士師記はイズライリ人が、真の神を離れハナアン人の偶像を愛し始め「異教化」したことを断罪しました。しかし士師記は、ハナアン人のイズライリの宗教への改宗が不可能であるとも神のご意志に沿わないとも決して言っていません。

 

エウレイ王国の勃興と凋落(紀元前1025年〜538年)

 

 古代イズライリについての旧約聖書の歴史の五番目の段階は、エウレイ王国の成立からその崩壊の時代です。この時代は列王記T・U(サムイル記上下)、列王記V・W(列王記上下)、トウィト記、ユディフ記に大変詳しく述べられています。列王記T・U(サムイル記上下)、列王記V・W(列王記上下)は紀元前10〜11世紀に文書化され、トウィト記、ユディフ記は紀元前2世紀に書かれました。これらの文書に伝えられている内容はきわめて詳細かつ複雑で、ここではこの重要な時代について大まかなアウトラインをたどることしかできません。エウレイ王国の歴史は三つの部分に分けることができます。第一は、しばしば「統一王国」(1025-931BC)と呼ばれるエウレイ王国の成立です。第二は、統一王国の二つの王国への分裂です(930-586BC)。第三はワビロン(バビロニア)帝国によるエウレイ王国の最終的な崩壊です(586-538BC)。

 

 エウレイ王国の成立(1025-931BC) 紀元前11世紀、十二部族連合の無政府状態はかつてないほどに深刻なものになり、限界に達しつつありました。イズライリの人々は士師たちの指導に次第に不満を募らせてゆき、やがて「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」(列王T8:5)と叫び始めました。しかしながら、この王政への要求は士師による神の神政的統治を事実上否定するものでした(列王T8:7-9)。部族連合時代の不安定さの原因は士師たちによる統治ではなく、むしろイズライリの人々自身の不信仰と不従順が原因でした。しかしそれでも、神はイズライリの人々が王を戴くことを許容し、最後の偉大な士師サムイルにウェニアミン族のサウルをイズライリの最初の王として任命することを命じました(列王T1-10章)*[3]。列王記Tの8章から30章までに描かれるサウル王の統治は、イズライリの人々にとって功罪半ばするものでした。サウル王はエウレイ王国の基礎を固め、フィリスティア(ペリシテ)人やハナアン人たちと戦いました。しかし彼はイズライリの部族間の争いを取りのぞくことには失敗しました。最後にはフィリスティア人たちに打ち負かされ、外国からの侵略の危険にその国をさらしてしまいました。フィリスティア人たちとの戦いに敗れ、サウル王が自殺した時、イズライリの王国は崩壊の瀬戸際にありました。王を要求した結果、(「ほかの国々のように」)、士師たちの統治のもとにあった時以上に悪い状態に陥ってしまったのです。

 

 しかし、神は再びその民を災厄から救うために介入しました。ウーズとルフの曾孫に当たるダヴィドが神のつけられた王としてイズライリを統治するために立てられました。ダヴィドの統治(1000-965BC)については列王記U(サムイル下)と列王記Vの最初の2章に記録されています。ダヴィドは道徳的にも霊的にも完全からはほど遠い人物でした(列王U11-12章参照)。しかし、彼は「神お一人がイズライリの唯一の王であること、そして他のイズライリの人々すべてと同じく彼自身が神の契約のもとにあることをけっして忘れませんでした」*[4] 彼の極めてすぐれた軍事的政治的指導力のもとで、フィリスティア人をはじめイズライリの敵はことごとく打ち破られ、散らされました。こうして、イズライリの諸部族は統一され豊かな強国となりました。

 

〔質問への答え〕ダヴィド王が人口調査を行った時、なぜ王は後からそれを罪として悔いているのか(サムイル24章)というご質問が寄せられました。王の人口調査の目的が「軍の長」たちが「つるぎを抜く勇士たち」の数を知るため、すなわち徴兵して人々を統治することに役立てるためであったことは明らかです。本来、人を支配することのできる唯一のお方は神にほかなりません。ダヴィドの行為はその権威を犯すものだったのです。人口調査にかぎらず神を信頼して委ねるべきことに関して、人間が自らの知恵を恃んで自己統制・管理しようとするあらゆる行為は、そういう意味で罪です。現代人が何ごとかをなそうとする時、まず当然の如く計画を立てプロジェクトで臨むということには、なにかしら罪へと私たちを誘う罠がありそうです。教会は、あらゆる会合に際して、まず「天の王」聖神への祈りから始めることによって、この誘惑から守ってくださいと祈ります。

 

聖書はダヴィド王の罪を容赦なく記録します。奉神礼で繰り返し読まれ正教徒なら耳になじんでいる五十聖詠は、ダヴィド王が部下の妻を寝取ったばかりか、策謀をめぐらせたあげく忠実な部下を死に追いやった出来事を、預言者ナファンに告発されたときに、王が痛悔して歌った歌として伝えられています。ちなみにソロモン王はこの不義によって生まれた子でした。

 

 

 ダヴィドの死後、彼の息子のソロモン(965-931BC)が王位を継ぎました。ソロモン王のことは列王記Vの3章から11章にかけて記されています。ソロモン王のもとでイズライリが掌握する地域は大幅に拡大しました。それに伴い外国の諸勢力(エギペトなど)との間でたくさんの同盟や通商条約が結ばれました。王国はもはや帝国というべきものになっていました。またソロモンはイエルサリムの大神殿の建造を命じました。契約の箱を置く幕屋はその神殿に移され、イズライリの宗教的中心地となりました。しかし、彼の長い栄光に満ちた年月と神への忠実さにもかかわらず、ソロモンはその晩年に主から背き離れました。彼は多くの外国の女たちを彼の後宮に入れ、彼の異教の妻たちによって偶像礼拝にそそのかされ、その誘いの手に落ちてしまいました(列王V11章)。ソロモンの犯した罪により、神は王への反逆者が現れるにまかせ、ソロモンの死後も彼がその王国にもたらしてしまった内乱は続き、彼の相続者であった息子ロウアム(レハベアム)を苦しめました。

 

帝国の分裂(930-586BC) ロウアム(レハベアム931-913BC)の統治は拙劣で、エウレイの帝国はほどなく内乱によって、イズライリと呼ばれた北王国、イウダと呼ばれた南王国に分裂しました。北王国を構成した部族は、ルウィム、シメオン、ダン、ネッファリム、ガド、アシル、イッサハル、ザウロン、エフレム、マナッシヤです。南方の二つの部族、イウダとウェニアミンはダヴィドの家への忠実を貫き、イウデヤ王国を成立させました。イズライリ人の司祭たちが属するレヴィ族は、神の民の宗教生活上の必要性により、イイスス・ナウィンの時代から各部族の中に分かれて入っていたため(イイスス・ナウィン記21章)、紀元前10世紀後半の内乱以後は南と北の両王国にレヴィ族が存在することになりました。

 

 イズライリ王国とイウデヤ王国は紀元前930年から722年までは並存していました(列王V12章〜列王W16章)。紀元前723年、イズライリ王国はアッシリヤに攻撃され、およそ一年の内に北王国は完全に打ち破られました(列王W17章、トウィト1-14章)。北の十部族は奴隷とされ、今日のイランにまで及んだアッシリヤ帝国の東方の外縁地域に移されました。征服されたイズライリの地域には反対にアッシリアの植民者たちが定住し、その地はそれ以来サマリヤと呼ばれました。これらのアッシリヤの移住者たちはイズライリの神を自らの神として選びましたが、旧約聖書の最初の五書しか聖典として採用せず、イエルサリムではなくサマリヤのゲリジム山を彼らの聖所と見なしました。これらの植民者たちの子孫が後の「サマリヤ人」です。彼らはイウダの人々から異邦人と見なされました。事実上、アッシリヤの北王国の征服によって、そこに住んでいた十の部族が歴史の舞台から消滅してしまいました。アッシリヤによるイズライリ王国の崩壊後は、イウダ族とウェニアミン族と南王国に住んでいたレヴィ族のみが残ったということです。この歴史的事実が後のイズライリの失われた部族にまつわる諸伝説の基礎になります。そして、残された王国の名がイウデヤであったため、中近東一帯でその民はイウデヤ人(Jew)と呼ばれ、その文化と宗教が「イウデヤ教(文化)」(Judaism)として知られるようになります。

 

〔解説・補論〕消滅した10部族がその後どうなったかについては、日本の古代史に結びつけるような荒唐無稽なものも含めさまざまな伝承があるようですが実証されていません。

 

イウデヤ人のワヴィロン捕囚(586-538BC アッシリヤの北王国征服後、イウデヤ王国は紀元前722年から586年まで独立を保ちました(列王W18-24章)。イウデヤ王国を征服することがついにできなかったアッシリヤ帝国は、612年ワウィロン帝国(カルデヤ)に滅ぼされました。ワウィロン人たちはナウホドノソル(ネブカドネザル)王(605-562BC)に率いられ、アッシリヤ帝国が最後まで征服できなかった地域の攻略にも成功しました。紀元前586年、彼らはついにイウデヤ王国を打ち倒し、ソロモン王が建造した大神殿と、神殿に安置されていた契約の箱(約櫃)を破壊し、多くのイウデヤ人を奴隷としてワウィロンの東方地域に連れ去りました(列王W23:36-25:30、ユディフ1-16章)。およそ50年間に及んだ「ワウィロン捕囚」によって、ついにエウレイの王国は決定的に絶滅され、完全に過去のものとなり、以後イウデヤ人たちの想像力に何世紀にもわたってとりつく亡霊となりました。

 

復興期(538-37BC  聖なる地に対するワウィロンの支配は紀元前539年に、ワウィロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされて終わります。パレスティナがペルシャの支配下にあった時代は、紀元前5世紀から2世紀の間に書かれた歴代志上下、エズラ記、ネヘミヤ記、エスフィル記、エズドラ記Tに描かれています。キール(キュロス)大王(555-530BC)の時代、ペルシャ帝国は世界史上前例のない版図を誇っていました。「新しい帝国は、ペルシャの太守や総督たちのもとでかなり大きな自治が許される地方国家の連邦体」*[5]でした。538年、キール大王はワウィロンに捕囚されていたイウデヤ人たちが彼らの故郷に帰ることを許す布告を出します。「ペルシャ王キールはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をイウデヤにあるイエルサリムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、イウデヤにあるイエルサリムに上って行き、イズライリの神、主の宮を復興せよ」(エズラ1:2-3)。紀元前515年、神殿は再建されます(エズラ1-6章)。イエルサリム自体も、紀元前443年までかかって大規模に再建されました。イウデヤの地は、紀元前539年から330年の間ペルシャに統治されていましたが、イウデヤ人たちは、限界はあったものの実際上は自治を許されていました。

 

 紀元前330年、ペルシャ帝国はアレクサンダー大王の軍によって滅ぼされてしまいます。エギペトとイウデヤ地方を含む中近東一帯はギリシャ人の手に落ちました。アレキサンダー大王は323年に死に、「アレクサンダーの後継者争いの中で、イウデヤ(及び今日のパレスティナ全土)はエギペトのプトレマイオス朝(ギリシャ系)が領有を宣言することとなる。やがてパニアスでアンティオコス大王がエギペト軍を破った紀元前198年に今度はセレウコス朝(ギリシャ系)の支配もとに入り」*[6]ます。 セレウコス朝はイウデヤ人たちにヘレニズム文化とその価値観を押しつけ、イウデヤ教を抹殺しようとしました。この政策はマッカウェイの反乱を引き起こします。この反乱はレヴィ族のマッタフィヤとその五人の息子、イオアン、シモン、イウダ、エレアザル、ヨナタンによって開始されました。マッタフィアの息子たちはマッタフィアのギリシャ語訳が「マカバイオス」であるため「マッカウェイ(マカバイ)」として知られるようになります。この反乱は成功し、マッカウェイの家族たち(マッカウェイの兄弟たちの名字から「ハスモン王家」〔〜37BC〕として知られる)によって統治されるイウデヤ人の独立国がパレスティナに出現しました。復興期のギリシャ支配とマッカウェイ時代については紀元前2世紀から1世紀の間にまとめられたマッカウェイ記T・U・Vに述べられています。

 

 ハスモン家によるイウデヤの独立の期間は短いものでした。紀元前63年以後、ローマが中近東に進出してきました。ローマ人たちが紀元前40年聖地に侵入してきたとき、旧約聖書の古代イスラエルの歴史は幕を閉じました。ハリストスの「新しい契約」によって「旧い契約」が取って代わられるのは、まさにこのローマ支配の時代だったのです。

 

古代イスラエル民族の歴史の神学的な意味

 

 すでに見たように創世記冒頭の十一の章には、神と人と自然の本来の調和した関係、そして人と堕落した天使が、神の愛と意志に背く罪によってその関係を壊してしまったことへの神学的な見方を見いだすことができます。人が神の内にあって得られる永遠の生命を喪失し、悪魔の支配に服してしまった結果、神から引き離され、罪と死の専制に服さねばならなくなったことが描写されています。それは、創世記の第1章から11章(そして実に聖書全体)は人間の条件と人間が救われねばならないことの啓示であるということです。聖書の最初の諸章はまた、人類と世界を、その選ばれた民――イズライリ民族――を通じて、また人類全体を神との交わりに立ち帰らせるイズライリのメシヤを通じて贖おうとする神の意志を示します。前節までに概観した旧約聖書に描かれた古代イズライリの歴史は、神が来たるべきメシヤ・我等の救主イイスス・ハリストスの到来に世界を備えさせていく過程をたどっているのです。そのために、アウラアムからローマのパレスティナ征服までの歴史(創世記12章からマッカウェイV)はしばしば「救済史」と呼ばれますが、それは実に適切な呼び名です。この世からの、また肉と悪魔からの神の救いの約束を示そうという神学的な意図がこの歴史叙述には込められているからです。

 

 旧約の歴史に込められている救いのメッセージは幾つかの主要なテーマに分けることができます。これから、その個々の神学的テーマを論じてゆきましょう。

 

神の本性

 

 聖書は神の存在を前提しています。聖書的精神にとって神と超自然的な事柄は宗教的経験として自明の現実でした。ですから聖書は神の存在について何も議論いたしません。霊的存在者が実際に存在することは聖書の執筆者と古代世界の人々にとって議論の余地のない事実だったからです。彼らの疑問は「神は存在するだろうか」ではなく、「私は真の神をどこに見いだすだろうか。そして真の神の本性とは何であろうか」でした。創世記第1章、第2章について述べた時、すでに真の神の本性についてお話ししました*[7]。旧約聖書の歴史文書は神の本性について創世記第1章、第2章で示される神学的な見方と本質的にまったく変わらない見方をしています。そして実は、その見方は聖書全体にわたって不変です。

 

 聖伝と聖書に示された啓示とそこに伝えられている神の力あるにもとづき、正教の神学者たちは神の働きと基本的な性質を明らかにしてきました。彼らは、とりわけ「神は存在する」「神は生きている」「神は働く」と宣言し断定し続けてきました。神の「存在」と「いのち」と「働き」は神ご自身と、神の創造物の両方に向けられています。すなわち神はご自身の内に、かつご自身にとって(神ご自身の本質の内にあって)存在し、生き、働き、同時にご自身の創造された世界の秩序(「見ゆると見えざる万物」*[8])に対して存在し、生き、働きます。このように神の存在、いのち、働きは「超越的」でありまた同時に「内在的」なものなのです。そして、それらが創造された世界の秩序に内在するがゆえに神――その本質は「言い難く、知り難く、見るべからず、測るべからざる」*[9]――は被造物の内にそして被造物に対してご自身を顕し啓示します。神は、被造物の内に、また知性を授けられた被造物(天使と人間)に対してご自身を全体として啓示します。そこで、正教会の立場からは、「神は永遠の実在であり、生きて、働く」と言うだけでは不充分なのです。その上に次のように付け加えなければなりません。「神はご自身を私たちに対して、聖伝と聖書の内に顕した(啓示した)」と。

 

 正教の信徒にとって、聖書に啓示される神は唯一の至高にして完全な、「霊的(非物質的)」かつ「人格的」存在であり、すべての聖性、真実、善、喜び、力を所有するお方です。神は一つの人格的、霊的存在であり、その存在は無限、永遠不変、全能、全知であり、あらゆる時空に存在しつつ一切を超越する完全な善であり、完全に自由な世界の創造者です。正教の聖書神学はこれらの基本的な神の属性に加え、聖書は神の至聖三者性を啓示していると主張します。至聖三者の三つの位格を証すたくさんの箇所を認めることができる新約聖書については言うまでもなく、旧約聖書の中でも神の三一性を表現している箇所はいくつかあります。たとえば創世記の第1章で描かれているように、神は「聖神」の内に、「言葉」を通して、世界を創造しています*[10]。創世記18章では、主はアウラアムのもとに「三人の人」の形で現れました。

 

〔解説・補論〕15世紀のイコン画家、聖アンドレイ・ルブリョフはこのアウラアムを訪れた三人の人(天使)のイメージで「至聖三者」を暗示しました。下記のサイトがそれに触れています。

 http://www.orthodox-jp.com/nagoya/msj2.htm#shisei

 

 旧約聖書の歴史書は神の本性と働きについて三つの点を強調します。

 第一は、神は再三再四、全創造物の唯一の人格的、普遍的な主として登場します。人格神として、また唯一神としてのこの神は「燃える柴」の内からの神ご自身の啓示(出エジプト2:23-3:22)に特に際だっています。ここでは絶対的かつ普遍的な神の主権性がモイセイに示されます。その啓示を受け、モイセイは逃亡者から預言者へと変貌しました。イズライリの神――アウラアム、イサアク、イアコフの神――はモイセイの前に偉大なる「わたしは有る」という者として現れます。モイセイは神にその名を尋ねます。神は「わたしは『わたしは有る』というものである(I AM WHO I AM)」と答えます(出エギペト3:13-15)。それはつまり、イズライリの神はすべての存在の基、すべての存在の源である普遍的、絶対的な唯一の創造者であるということです。イズライリの神はたんなるある地方のある部族の神、数多の神々の中の一つではなく、全被造物の唯一の普遍的、絶対的な主なのです。この至高の主がイズライリと契約を結びイズライリ民族をエギペトの圧迫から解放するためのご自身の代理者としてモイセイをお召しになったのです。これが、燃える柴からの啓示の中心的な内容であり、同時に旧約におけるイズライリ民族の歴史全体の中心主題です。

 

 第二に、神の絶対的な聖性としさは出エギペト、レヴィ記、民数記、申命記に記録されている律法の啓示として明らかにされます。モイセイの死の時からハリストスの降誕までの長い期間に繰り返されたイズライリの罪への審判と断罪は、神の道徳的な完全性と優越性のいっそうの表現です。しかし第三に、その完全な善性のもう一つの側面でもある神の憐れみと同情はその民への変わらぬ愛によって明らかにされています。神は罪を審判し断罪する一方で、イズライリの子たちを何度も赦し救います。第四は、イズライリへの神の愛は実は全人類への愛の表現であるということです。神はイズライリの内に、罪と死からの救済のための場を準備し、イズライリの内に神の存在、その本性、その働きが世界に対して宣言され、イズライリを通じて、人間と自然の最終的な救いがメシヤ、ハリストスの人格との中に成し遂げられるようお計らいになったからです。神のイズライリとの特別な関係は、旧約聖書の歴史文書に描写されているように、「いっさいのもの」がハリストスの内にまたハリストスを通じて、神と和解されるための準備でした。

 

神とイズライリの契約

 

 イズライリ民族と神との特別な関係は、神とアウラアムとの契約、そしてモイセイの時にその契約がシナイ山で更新され拡大されたことに基づいています。この更新され拡大された神とその民との関係はしばしば「イズライリ契約」と呼ばれます。神はこの契約で、その民に敵からの解放と約束の成就の地ハナアンでの自由で平和で幸福な生活を約束します。この神の約束の成就は、ひとえにイズライリの人たちが神の愛と意志に忠実で従順であることにかかっていました。だからこそ、イズライリの度重なる不服従と背信により、旧約時代の間には神の約束は完全には成就されなかったのです。

 

 彼らが、神との契約関係にたがうことなく生きることに失敗したことは、クリスチャンの観点からは、神の世界の救済計画の一部であったともいえます。全知の主は、イズライリ民族が不信仰と不従順によって約束の地の永遠の所有に失敗することをお見通しでした。アウラアムの時代からハリストスの到来までのイズライリのいわば「放浪」の歴史を通じ、神は人類に人間的努力のみでは救いは決して実現しないことをはっきり示そうとなさったのです。メシヤ、イイスス・ハリストスへの完全な信仰と従順によってのみ、イズライリ民族は神の律法が示す生き方に達することができるのです。人となった神・イイススにおける神と人との完全で人格的な結合を通じてのみ、神とその民との契約が求めるところがじゅうぶんに満たされるのです。藉身はイズライリとの契約を成就するために必要だったのです。なぜなら、神が人とならなかったなら、神の律法に完全に従うことのできた人はけっして存在し得なかったからです。キリスト教の信仰によれば、それこそまさにイイスス・ハリストスに起きたことでした。

 

 ハリストスにあって神のイズライリとの契約は成就され、変容され、超えられました。メシヤの到来――神の子の藉身――の後は、ハリストスの内に「築き上げられた」(1ペートル2:5)人々のみが神の民の構成者です。ハリストスにあって、古きイズライリはクリスチャンの教会に取って代われました。古き契約はハリストスにあって、またイイスス・ハリストスを通じて新たなる契約へと完成されました。「第二のアダム」「新たなるイイスス(ヨシュア)」「ダヴィドの子」「アウラアムの子」であるイイススは古き契約を成就し、彼に従う人々=「教会」を真の約束の地・神の王国へと導きます。イズライリのメシヤを通じて、またその古き契約の成就を通じて、新たなる契約が神と人類との間に打ち立てられました。しかしイズライリとの契約と同様、新たなる契約も造物主と和解された人々に堅い信仰と従順な精神を求めます。そして、神と人との他のすべての契約と同様、ハリストスとの新たなる契約も一つのしるしによって封印されます。それは十字架のしるしにほかなりません。

 

神の律法の啓示

 

 出エギペト記、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)に記録されている律法の授与は神の聖性、人間の絶望的な罪深さ、人間が救いを必要とすることを啓示します。神ご自身の道徳的、霊的な完全性の反映でもある旧約律法が要求する水準は極めて高いものです。しかし旧約聖書における古代イズライリ民族の歴史は、人間は神の律法が要求する水準では生きられないことをはっきりと示しています。古代イズライリの人々が繰り返し律法に背いたように、私たちも神の完全な義に達することはできません。すでに見たように、旧約律法はその祭儀律法(レヴィ記1-16章)の中でイズライリ人が罪をあがなう方法を教示しています。律法そのものが律法に違反した時にどのようにして神に赦されればよいのかを教えているのです。律法そのものが、人が主・神の聖性にかなって生きることの不可能性を間接的にも直接的にも認識しているということです。

 

〔解説・補論〕「なぜ人間は神をないがしろにして絶望的な罪深さの中にしか生きる道を選ばないのか」というご質問がありました。自らの自由意志で神の恵みを離れたからと、教理的な答えは可能でしょう。しかし、こう問いかける私たち自身が「衆罪人の内我第一」(領聖祝文)の者として挙げる「心の叫び」は、そのような教理的な答えには納得しないはずです。ハリストスによって回復された神の恵みを進んで受け取る時、その恵みの光の中で、「感嘆し」「喜びの声をあげ」いっさいを知るのです。

 

 イイススは復伝律例6章5節とレヴィ記19章8節を引用して、神の律法を次のように要約しています。

 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マトフェイ22:37-40、マルコ12:29-31)。

 私たちは心の熱情のすべて、霊の活力のいっさい、精神の力のことごとくを動員して神を愛さねばなりません。そしてその愛を土台として、自分自身と同様に隣人を愛さねばなりません。すなわち、他の人々の望み、関心、必要を少なくとも自分のものと同じであると見なさなければなりません。

 自分の正しい行いによって、この律法の要求を満たし自分を救うことができると信じるなら道徳的、霊的な思い違いの極限に陥ります。それは聖書全体が教えていることの完全な無視です。預言者イサイヤは言っています。「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る」(イサイヤ64:6)。聖使徒パウェルが13聖詠を引用して指摘するように、神の律法は「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」(ロマ3:10-12)ことを教えます。だからこそ「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては(すなわち、自分の行いによって自分を正しいものとしようとすることによっては)、罪の自覚が生じるのみ」(ロマ3:20)なのです。

 

〔解説・補論〕人間の陥ってしまった罪深さの程度については、正教の聖師父たちはそれぞれ様々な評価をしています。人間の自由意志のかかってしまった病気の程度について、とても絶望的な評価もあれば、それほど絶望的でないものまであり、みな正教会はふところを広く受け入れてきました。ただ、共通なのは「人間には神の救いと恵みが必要であるということ」と「少なくとも神の恵みを求める自由意志を人は相当に傷つき歪んでいるにせよ持ち続けていること」への認識です。

 

 神の与えた律法と、イズライリがその律法に従えなかったことに思いを馳せることは、そのようであるべきことと、現実にそのようであることとの落差に思いをいたすことでもあります。ほとんどの人々は、ほとんどの場合、「そのようである」と「そのようであって欲しい」との間に引き裂かれて身動きできません。旧約聖書に記録されている古代イズライリの歴史は私たちへの道徳的、霊的な挑戦です。私たちに世界を、私たち自身と神を「霊的な精神」で見ることができるかと挑んでいるのです。旧約聖書における神の律法の啓示は、ある重要な意味合いで「穏やかならざる啓示」です。多くの人たちは、主は私たちに、社会がこぞって受け入れている道徳的、法律的、そして宗教的な標準に従って生きる「善良な人間」であること以外に何も求めてはいないと、信じています。しかし、私たちの社会のあり方とその標準は、聖書的な見地から見れば、神の義しさへの道から逸脱したこの世の堕落の一面を表現しているにすぎません。この世の流儀に合わせることは、神とその律法の対極に自らを置くこととなってしまいます。旧約聖書の歴史書に示される神の律法は、私たちに、私たちの絶望的な状況に真っ直ぐ顔を向け、私たちの「そのようである現実」と、神が私たちに望み、私たちが「そのようでなければならないあり方」の間の途方もない隔たりを見分けるよう迫ります。もし、私たちが神の目から見てどれほど不義なものであり、自らを神の完全な聖性にふさわしい者とすることにいかに失敗しているかを知るなら、私たちは少なくとも、私たちが神の国からはるかに離れ、主の慈憐と恵みなくしては決してその国に至れないということを悟るでしょう。

 

 律法はイズライリと全人類が自分たちには救いが必要なことを悟るために授けられました。なぜなら律法は、それをありのままに見れば、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(ロマ3:23)いることを私たちに示すからです。だからこそ旧約聖書の律法は、神がイイスス・ハリストスにあって実現した救いに私たちの心を向けさせるために啓示されたと言えるのです。ハリストス、我らの救主への信仰を通じてのみ、人は自らを神の肖(似姿)に変容する道徳的、霊的な道行きへと一歩を踏み出すことができるのです(ガラティヤ3-4章参照)。

 

幕屋と神殿 その民と共にある神

 

 その民の生活への神の臨在は旧約聖書の伝える古代イズライリの歴史の一貫したテーマです。神はご自身の創造した世界の内に臨在します。神はイズライリとの契約の内に、モイセイを通じて与えられた神聖な律法の内に臨在します。神はその預言者、司祭、士師たち、王たちの内に臨在します。しかし何よりもまず神は、モイセイの時からソロモン王の時代までイズライリ民族の生活の中心であった幕屋に臨在します。そして、後の時代にはソロモン王の時代(965-931BC)に建設された神殿に臨在します。ソロモンの神殿は紀元前586年、ワビロン人によって破壊されてしまいましたが、後にイウデヤ人をワビロン捕囚から解放したペルシャ帝国の援助で紀元前6世紀後半に再建されました。

 

 聖書が伝える、幕屋、ソロモンの神殿、捕囚後の再建神殿に関する記述をたどると神とその民との関係にある変化が生じたことがわかります。イズライリがその主と結んだ約束を守れなかったことによる変化です。神は幕屋では聖所と「契約の箱」の上を覆う光栄を帯びた雲の内に、文字通り民と共におられました。ソロモンの神殿では契約の箱と律法を記した板が、神がイズライリと共におりイズライリを常に顧みて下さっていることの象徴として残されましたが、主の文字通りの臨在を示す光栄を帯びた雲はもうそこにはありませんでした(列王記V8章参照)。紀元前586年のワビロンによる破壊のため、紀元前6世紀末に再建された神殿には、契約の箱と律法を記した板はもはや失われていました。紀元前6世紀、預言者イエゼキイリは幻の内に「主の光栄」が再び文字どおりその民の上に臨在する新たなる天上的な神殿の建物を見ました(イエゼキイリ40-48章参照)。

 

 旧約聖書の歴史文書での「幕屋・神殿主題」は、人というものが文字通りの、そして物質的でさえある「神の臨在」を求めてやまないことを示しています。イエゼキイリの「主の光栄」の満ちた天上的な神殿の預言的幻視はイイスス・ハリストスの到来によって成就されました。旧約時代、神が次第にその民から離れていったことは、ハリストスの降誕への備えとも言えます。ハリストスこそ「主の光栄」が文字通りに、物質的に、そして人格的にこの世界に実現したお方です。ハリストスにあって、神は人となりました。このお方こそが真の「主の神殿」だったのです(イオアン2:13-22)。藉身において神はご自身を人類と結合しました。神の本性と人間の本性はハリストスというお方(位格)にあって統一されました。したがってハリストスの体は神の神殿です(イオアン2:19-21)。信仰と従順によって自らをハリストスに結びつけるなら、人は新たなるイズライリ・教会のメンバーとなります。聖使徒パウェルは、教会を「ハリストスのからだ」と呼びました(コリンフ前12:27、エフェス1:22-235:30)。ハリストスというお方(位格)に「主の光栄」が文字通りに物質的に臨在するように、「ハリストスを着た」(ガラティヤ3:27)人々の共同体にはその光栄が文字通りに物質的に臨在します。ハリストスとの結合によって教会は神秘的な「ハリストスのからだ」「すべてのものをすべてのものの内に満たしているかたが、満ちみちているもの」(エフェス1:23)となりました。ハリストスとその教会においてこそ旧約聖書の「幕屋・神殿主題」の真の意味が明らかになり、神の臨在への人間のやみがたい欲求は満たされます。

 

贖いの必要性

 

 罪深いものである人間には神との和解が必要です。旧約聖書でのイズライリの歴史は、神の絶対的な聖性と、人間の罪深さと、人間には贖いが必要であることを主張しています。神の律法を守ることに失敗し、人の真のいのちは失われてしまいました。しかし主は慈憐をもって、罪人に彼のいのちを救うための贖いの方法を提供しました。自らの血を流すことの代わりに、罪を犯した者は動物の犠牲によって彼の罪を贖うことが許されました。なぜなら旧約聖書では、血は生命の象徴であり、生命は神の所有するものだったからです。律法によって命じられる血による犠牲は、傷のない健康な雄の動物(子羊、雄羊、牛、山羊)を殺す儀式によって行われました。これらの動物の血は人の血の代わりとして神に受け取られました。その血は神への奉仕と神の契約へと罪人の生命を献げ直すことを象徴していました。この贖いのかたちは、しばしば「代理的」「身代わり」の贖いと呼ばれます。旧約時代の犠牲の儀式では、罪のない動物の血が罪深い人間の血の代わりとされました。そしてこの代理的犠牲を通じて、もしそれが悔悟の心によって献げられるなら、罪人は神との和解(at-one-ment)を達成できたのです。

 

 新約聖書はハリストスの十字架刑を旧約の贖いの祭儀についての規定を背景にして描きます。ハリストスは私たちの過ぎ越しの子羊、私たちの神への「罪祭」(レヴィ4-5章)です。ハリストスは私たちが神と和解して生きられるように私たちの罪のために死にました。

 「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はハリストスによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はハリストスにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで(原注:なぜなら、それらの罪はハリストスの血によってあがなわれたから)、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。…神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリンフ後5:18-21)。

 もし罪人がハリストスを自らの救い主と認め、神に差し出されたハリストスの血を自分の罪の贖いとして献げるなら、彼の神への背きは赦され、彼はハリストスによってもたらされた神と人との和解の内に入ることができます。「だれでもハリストスにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリンフ後5:17)。

 

 聖書によれば、罪人は神の怒りのもとにあり、失われた者、台無しにされた者です。旧約時代の血による犠牲の祭儀的規定は、人間の贖いの必要性に応えて与えられたものです。しかし、クリスチャンの見方によれば、旧約の動物犠牲は人と神との「和解(at-one-ment)」のためには不充分なものです。これらの犠牲祭儀は究極的な最後の「贖い」としてのハリストスの犠牲、その十字架の死を指し示すものに他なりません。なぜなら「神の恵みによってハリストスご自身が罪を負うものとして備えられ、…そして神(父)はよろこんで、罪人たちがその罪の赦しと、平安と、神との交わりを受け取ることができるように、ハリストスの贖いを受け入れた」*[11]からです。ハリストスは「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われ」ました。「その傷によって」、私たちは「いやされ」、「羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰った」(ペトル前2:24-25)のです。この意味で、ハリストスの死は私たちのための「身代わりの贖い」です。

 

〔解説・補論〕旧約の動物犠牲とハリストスの一度限りの完全な犠牲の関係についてはパウェルのエウレイ書(ヘブル人への手紙)に詳しく述べられています。

 

メシヤの観念

 

 旧約聖書のイズライリの歴史は五つの人物像を提示します。それらは世界を神に立ち帰らせるためにイズライリ民族の中から現れるとされる「メシヤ(救世主)」の観念のいくつかの面を表しています。この五つの人物とは、預言者モイセイ、司祭アアロン、征服者イイスス・ナウィン(ヨシュヤ)、士師サムイル、王ダヴィドです。ダヴィド後の何世紀かの間に、イズライリの人々は預言者たちの呼び掛けに応え、メシヤ(「膏つけられた者」)と呼ばれる救世主の到来を待ち望むようになりました。メシヤの人物像はモイセイ、アアロン、イイスス・ナウィン、サムイル、ダヴィドをすべて合わせたものであり、そしてそれ以上のものでした。モイセイが預言者たちの中で最も偉大な者であったように、来るべきメシヤは完全な預言者であり(復伝律例18:15-19)、「主の言葉」を全世界に宣言するでしょう。レヴィ族の司祭たちの首位者アアロンのように、彼は完全な司祭であり全世界の罪のための普遍的な贖いを行うでしょう*[12]。征服者イイスス・ナウィンがイズライリ民族をハナアンの地に導き入れたように、彼は完全な征服者、罪と死の力を滅ぼし信じる人々を神の国に導いていくはずです。サムイルがイズライリの諸部族を裁いたように、彼は全人類の完全な裁き手となるに違いありません。そして、ダヴィドが偉大な、ほとんどメシヤ的と言ってよいほどの王であったように、来るべきメシヤは変わらぬ愛と永遠の義しさによってその民を統治することでしょう。

 

〔解説・補論〕ダヴィドのメシヤ的と言ってよいほどの偉大さと、彼のバテシバ事件に見られるような道徳的、霊的な不完全さの矛盾は、神ならぬ人間の「偉大さ」の限界を典型的に示しています。イズライリにとっては待ち望んだ民族の安定と繁栄をもたらしたダヴィドの偉大さは否定しようもありません。と同時にその力が逸脱や倒錯してしまった時の罪深さも一通りのものではなかったことを聖書記者は包み隠さずに記録しました。私たちが能力ある人たち、力強い実践家たちに常に見ている人間の悲しさでしょう。

 

 王たることとメシヤたることの関係を旧約の歴史文書は特に強調しています。エギペトからの脱出からエウレイ王国の成立までの期間、イズライリは神と神によって指定された代理者、モイセイやイイスス・ナウィンや士師たちの神政政治のもとにありました。しかし、イズライリ人たちがその不信仰と不従順によって無政府的な混乱へとはてしなく陥ってゆくにつれ、イズライリの人々は秩序を保ってもらおうと王を求めるようになりました。なぜなら「そのころ、イズライリには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」からです(士師21:25)。この求めは、イズライリの混乱の真の原因を見落としており、同時に神の直接的な統治「神政」への拒絶という罪であったのですが、神はあえてその求めを受け入れました。かくしてエウレイ王国が成立し王である神は、人間の王に取って代わられました。

 

 イズライリを支配し国家を破壊から救う、神によって注がれた王という観念はダヴィドの治世においてはまずまず達成されました。列王記TからW(サムイル記上下、列王記上下)はイズライリ民族のダヴィド王時代への追想の光に包まれています。そこでは偉大な王はあたかもメシヤのように描かれます。列王記全巻を貫くダヴィド王を膏つけられた救国の王として示す傾向は、しばしば聖書学者たちによって「メシヤ王観royal messianism」と呼ばれます*[13]。しかし後継の王たちがダヴィドによってすえられた王としての道を歩むことができず次々と過ちを犯していったので(列王記V,W)、イズライリの人々は「新たなるダヴィド」を待ち望むようになりました。紀元前8世紀から6世紀にかけて登場した偉大な預言者たちはダヴィド王のような王、メシヤ(「膏注がれた者」)が最後には出現し、その民を悪と破壊から救うであろうと預言しました。この預言こそが、イイスス・ハリストスというお方とそのによって成就したのです。

 

 エウレイ王国は順調な時もありました――たとえばダヴィド(1000-965BC)とソロモン(965-931BC)の治世――が、紀元前10世紀に成立した帝国はソロモン王の死後三百五十年間のあいだに完全に崩壊してしまいました。かくして、その前の神政政治と同様に、人間の王による統治もイズライリの人々が求めた平和と幸福をもたらすことはできませんでした。

 

 神政政治から(人間の)王政へ至る旧約聖書の歴史記述は、人間が神であると共に人である王を必要としていることの啓示として見ることができます。あきらかに、まったくの神の王政は罪によって道徳的にも霊的にも弱められてしまった人類にはあまりにも過酷です。しかし反対にたんなる人間の王政は、支配者たち自身が罪深く道徳的にも霊的にも弱いため、平和と幸福を作り出すことができません。それゆえここでも、神の本性と人間の本性が結合したイイスス・ハリストスというお方を、旧約聖書の歴史記述は指し示します。聖書は、彼のみが私たちを悪から完全に解放し、私たちを成就の地、神の王国へと導き入れることができると告げているのです。ハリストスにおいて神政と(人間の)王政は一つに結合されます。

 

 この章で私たちは旧約聖書の歴史叙述を、未来を指向した(終末的な)そしてハリストス中心的なものとして概観しました。解放と幸福を待望する旧約の歴史は、イイスス・ハリストスにおいて成就しなければなりません。(旧約)聖書を熱心に学ぶファリセイ派の人たちをさして、イイススは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イオアン5:3940)と言っています。ここで、ハリストスご自身が旧約聖書は新約のための準備、またその預象であることを教えています。

 

 人は平和と幸福、完全な成就と限りない完全さを熱望しています。この熱望が旧約聖書の歴史文書では充分に明確ではないにせよ表現されています。この人間の贖いと救いへの希求が神との結合をめざしていることは明らかです。なぜなら限りなく完全である神にあってのみ、人は「約束の地」を見いだすことができるからです。ハナアンではなく神こそが真の約束の地です。新約聖書のメッセージは、神のイイスス・ハリストスへの藉身がこの人と神の結合を可能にするというものです。真の神であり同時に真の人であるハリストスを通じて、私たちは「神の子たち」として養子縁組され、私たちが心の底から求め続けてきた限りない完全さを獲得できるのです。

 

 「聖書を読む時にはいつでも、私たちはハリストスを探さなければなりません。見つけ出し信じるに至るまで…」*[14]。これは新約聖書ばかりではなく、旧約聖書においても同様に真実です。なぜなら旧約はイイスス・ハリストスの到来への準備だったからです。 



*[1] The Harper Study Bible,190

*[2] 前掲書110P脚注

*[3] ウェニアミン族のサウルが王に選ばれたことには問題があった。なぜならば主は、イアコフの預言を通じてイウダ族をイズライリの王の部族として計画していたからである(創世記49:10)。おそらくサウルが選ばれ人々が彼を受け入れたことにはイズライリの人々がいかに神のご計画の道をはずれていたかを表している。サウル王は破局の打ちにその終わりを迎えることになる。

*[4] Miller,76

*[5] George Barrois,Survey of the Geography,History,and Archaeology of the Bible Lands in The New Oxford Annoted Bible with the Apocrypha, 1542

*[6]  前掲書1543 

*[7] 第2章参照

*[8] ニケア・コンスタンティノープル信経

*[9] 金口イオアンの聖体礼儀、アナフォラの祝文から

*[10] 第2章参照

*[11] The Harper Study Bible, p1835の脚注

*[12] エウレイ書でハリストスは「永遠にメルキゼデクに等しい大祭司」(6:20)と呼ばれる。メルキゼデクは創世記14:17-20でアウラアムと出会った司祭であり王である者。その司祭性はエウレイ書ではアアロンの系列の司祭たちの司祭性に優るとされ、「司祭」ハリストスの前触れとして示される。したがって、正教の主教や司祭たちが伝えるハリストスの司祭性はレヴィ族のそれに取って代わるのである。

*[13] Barrois, The Face of Christ in the Old Testament,89-101

*[14]  John R.W.Stott, Understanding the Bible(Reagal Books,1972) 29