第三章 旧約聖書の語る古代イズライリの歴史
旧約聖書の49文書の内、23文書が古代イズライリの歴史を語ります。モイセイ五書はアウラアムからモイセイまでの時代を、創世記第12章から出エギペト、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)へと述べてゆきます。イイスス・ナウィン(ヨシュア)記、士師記、ルフ(ルツ)記はイズライリ民族のハナアン(パレスティナ)征服とその地への定着までの物語です。サウル、ダヴィド、ソロモンによるエウレイ(ヘブライ)王国の興隆と、ソロモンの子孫たちによるその分裂は、列王記T・U(サムイル記上・下)、列王記V・W(列王記上・下)、歴代志上・下、トウィト(トビト)記、ユディフ(ユディト)記に詳しく記されています。紀元前6世紀からハリストスの時代までの、ワウィロン(バビロニア)帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ、ローマの支配下に次々に置かれていったイウデヤ民族の歴史は、エズラ記、ネヘミア記、エスフィル(エステル)記、エズドラT、マッカウェイ記T・U・Vに記されています。外典のエズドラ記Uとマッカウェイ記Wもこの時代を描きます。
正教会の立場からは、旧約聖書の歴史は「神子」イイスス・ハリストスの籍身へ向かう歴史です。旧約全体が新約の啓示の前触れであり、ハリストスの降誕への準備です。聖使徒パウェルは旧約の啓示の中心にハリストスがあることをティモフェイ後書で次のように述べています。「幼い時から、聖書に親しみ、それが、ハリストス・イイススに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(3:15)。これらの言葉はまだ新約聖書がかたちをなしていなかった紀元67年か68年に書かれました。当然、ここでパウェルの言う「聖書」とは旧約聖書を指します。この旧約聖書が私たちをハリストスの救いへと導くことをパウェルは教えているのです。パウェルと他の新約聖書記者たちに従い、正教会は旧約聖書を世界の救いについての神のご計画の予備的な啓示であり、聖書は旧約・新約ともに、イイスス・ハリストスによって実現される神の救いについての書であると見なします。旧約聖書は神がハリストスによって人類と世界を救うことを予告し、新約聖書はその約束の成就を語ります。神はこの救いのために、お選びになった民イズライリを通じて、そしてイズライリのメシア、ナザレトのイイススを通じて働かれました。
神は籍身し人類の一人となるためには、世界のたくさんの国々の中から一つを選ばねばなりませんでした。もし、神・子がたくさんの文化と国家に分裂したこの堕ちた世界で「人となる」のなら、その「人」はこれらの文化や国家のうちの一つに生まれなければなりません。神はイズライリ民族をご自身の民として選びました。イズライリと全世界を悪の力から救うメシアを送ることを約束し、イイスス・ハリストスの降誕と贖いのわざで頂点に達する救済の歩みを開始しました。聖書は神が他の国々ではなくイズライリを選んだ理由は語りません。これは神がなされたこととして示すだけです。アウラアムの時代からローマ帝国のパレスティナ征服に至る、旧約聖書に記された古代イズライリの歴史は、ハリストス、籍身した神の子の到来にイズライリと世界がどのように準備されたかを明らかにします。
この章では、まず最初に旧約聖書に描かれる古代イズライリの歴史を学び、次に正教会の立場から見た、その歴史の神学的な意味を解読してゆきましょう。
族長の時代から出エギペト後までのイズライリの歴史
古代イズライリの歴史は六つの主要な期間と段階に区分すると便利です。
1)族長(太祖たち)の時代 紀元前2000年頃から1700年頃
2)出エギペトの時代 紀元前1290年頃から1250年頃
3)ハナアン征服期 紀元前1250年頃から1200年頃
4)十二部族の連合体時代 紀元前1200頃から1025年
5)エウレイ王国の勃興と崩壊の時代 紀元前1025年から538年
6)ワウィロン捕囚からローマ帝国支配までの時代(しばしば復興期と呼ばれる)
紀元前538年から37年
族長たちの時代(紀元前2000頃から1700年頃)
イズライリの族長(太祖)たちの物語は創世記の12章から50章にかけて語られます。これらの章の中心的な主題は神のアウラアムとの契約、そしてアウラアムの子孫たち、またイズライリの人々とのその契約の更新です(旧約、新約の「約」はラテン語ではtestamentumであり、「契約」covenantを意味します)。アウラアムにおいて、イズライリ民族は神の民として選ばれ、ハナアン(カナン、パレスティナ)の地の「永久の所有」(創世記17:8)が約束されました。神への信仰と従順を保ち、イズライリ民族は「約束の地」で自由と平和と幸福を謳歌しなければならないとされたのです。
神とアウラアムとの契約関係がその後どのように展開していったかは創世記の11章10節から25章18節にかけて物語られます。神はアウラアムを「選ばれた民」の父とし、彼に約束しました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(12:2-3)。また聖書は、アウラアムが古代イズライリ国家の族長としてばかりではなく、「多くの国民」の父として選ばれたことも語っています(17:4-6)。創世記17章7-8節で、神はアウラアムに「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちハナアンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」と告げました。創世記17章9-14節によれば、神の約束が成就されるかどうかは、アウラアムと彼の子孫たちの神への忠実さ次第であり、神とその民との契約のしるしとして割礼の儀式が設けられました。正教会の立場からは、アウラアムが「多くの国民」の父となるのはハリストスとその教会を通してであり、アウラアムの子孫とはハリストスに忠実に結ばれて生きる人々のことです。ハリストスは割礼の儀式を洗礼機密に取って代えました。洗礼によってハリストスに結ばれた者こそが真の約束の地、神の王国を相続します。聖書に言われる「ハナアンの地」はその象徴なのです。
創世記の25章19節から36章43節は、神のアウラアムとの契約が、アウラアムの息子イサアク、さらにその子イアコフにおいて更新され、受け継がれていったことを語ります。
聖書はアウラアムの神への信仰の強さと、イサアクの霊的な堅固さと無垢を証ししています。しかし、イアコフは神への信仰が弱く不純で罪深い男でした。聖書は彼の前半生を、神の義と神との和睦への「長い回り道」として描きます。イアコフは「神と人と力を争った」者と呼ばれ、神はついに彼に「イズライリ」という名を与えます。これは「神と争った者」という意味です(32:28)。イアコフが自分自身の罪深い性質を克服するために戦い、霊的に勝利したこと、そして神と、共に生きる人々との和解を達成したことが、この名によって神に確証されたのです。
イアコフ、ないしイズライリは十二人の息子の父となりました。ルウィム(ルベン)、シメオン、レヴィ、イウダ(ユダ)、ダン、ネッファリム(ナフタリ)、ガド、アシル(アセル)、イッサハル(イッサカル)、ザウロン(ゼブルン)、イオシフ(ヨセフ)、ウェニアミン(ベニアミン)です。「イズライリの子ら」は古代のイズライリ国家を構成していた十二部族の父(開祖)となりました。かくて「イズライリ」は個人の名であるとともにアウラアムの子孫全体を表す名でもあるのです。
イズライリの子らの歴史は創世記37章から50章にかけて、イアコフの下から二番目の息子イオシフを中心に詳しく物語られます。彼の兄たちはイアコフが「他のどの子よりも彼を愛し」ていることに腹を立てイオシフを穴に投げ入れてしまいます。彼は旅の商人に助けられエギペトに連れて行かれ、そこで奴隷として売られました。そこで、彼は主人となったポティファル(ポテパル)に気に入られ厚遇されましたが、やがて主人の妻は、自分が言い寄ったのにイオシフが応じなかったのに腹を立てて、反対に彼が誘惑したと偽りの告発をします。彼は投獄されてしまいます。そのころ、ファラオン(エギペトの王)は説明のつかない夢に悩まされていました。イオシフが夢を解く特別の能力を持っていることを聞き、ファラオンはこの若い囚人を呼びよせました。イオシフは王の夢を解き、7年間の豊作の後に7年間の飢饉が来ることを預言し、大量の食物の備蓄を王に勧めました。王は彼に食物を備蓄するための仕事を任せ、彼は首尾良くそれを成し遂げました。彼はその功績により、エギペトで傑出した力を持つ人物となりました。
預言した通りに飢饉がやってきました。食物を買うためにエギペトにやってきた外国の人々の中に、イオシフの兄弟たちがいました。イオシフは彼の兄弟たちを赦し、父イアコフ(イズライリ)を呼びにやりました。かくしてイズライリとその人々は、その後モイセイの時代までエギペトに寄留することになりました。
モイセイと出エギペト(紀元前1290-1250)
イズライリ民族のエギペト脱出とハナアンへの帰還の歴史は、出エギペト記、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)に記録されています。これらの記録は、紀元前10世紀から5世紀の間にユダヤ教の司祭や学者たちによって書かれ、編集され、蓄積されました。
出エギペトは二つの主要な部分に分かれます。18章まではイズライリ民族がエギペトの地で圧迫されていたこと、そして預言者モイセイの指導のもとでエギペトのくびきから脱出したことが描かれています。19章から40章では、神がモイセイとイズライリ民族との間で、選ばれた民との契約を更新したことが述べられています。
エギペトの地でのイズライリ民族の受難は第一章に述べられます。イオシフとその兄弟たちの死後、イズライリの人々はエギペトで繁栄しました。「イズライリの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった」(1:7)。そして、「ここに、イオシフのことを知らない新しい王が、エギペトに起った」(1:8)。セトスT世とも推定されるこの王は、イズライリの人たちの力とその膨大な人口を恐れました。そこで、王は彼らを奴隷とし、男の新生児はみなナイル川に投げ込んでおぼれ死にさせることを命じました。
このような状況にモイセイは生まれました。彼の両親はレヴィ族のイズライリ人でした。彼の母親は、彼の生命を助けたいと彼をナイルの川辺の葦の間に隠しました。赤ん坊はファラオンの娘に見つけられました。彼女は彼を自分の子としモイセイと名付けました。モイセイとは「(水から)引き出された」という意味でした。モイセイは川の水から「引き出され」、やがて彼の同胞をエギペトから「引き出し」たのです(2:1-10参照)。エギペトの宮廷で成長しましたが、モイセイはやがてエウレイ人としての出自を知ることとなり、自分の民族への忠誠心を強めてゆきます。若きモイセイは、イズライリ人を殴った一人のエギペト人を殺してします。これが王の知るところとなり、モイセイはミデヤンの地(今日のサウジアラビア)に逃亡することを余儀なくされます。彼はその地でミデヤン人の司祭の娘と結婚し、羊飼いとして過ごしました(2:11-22)。しかし、彼の家庭生活と安定した牧畜生活はやがて中断されてしまいます。神が燃える柴の中にあって彼のもとに現れ、エギペトに戻りイズライリ民族をそこでの奴隷状態から解放せよと命じたのです(2:23-4:31)。
イズライリ民族のエギペト脱出については5章から15章にかけて詳しく語られています。ミデヤンからエギペトに帰り、モイセイはファラオン(おそらくはラムセスU世1290-1224BC)を訪れて、イズラエリ民族をエギペトから立ち去らせるように働きかけます。しかしファラオンはイズライリの人々から束縛を解くことを拒否しました。そこで、神はファラオンに心を変えさせるために、十の災いをエギペトの地にもたらしました。イズライリの人々はこの災いから守られていました。ついに十番目の災いがエギペトの人々と家畜たちを襲ったとき、ファラオンはモイセイの要求をのみ、イズライリの人々を解放しました。
こうして、イズライリの人々はモイセイに率いられエギペトの地を出発しました。彼らがエギペトからシナイ半島へ向かっているころ、ファラオンは彼らに自由を与えたことを後悔し、軍隊を動かして紅海に向かって進んでいたイズライリ人たちを追わせました。(一般的に「紅海」と訳されているエウレイ語は、正確には「葦の海」と訳されるべきもので、紅海そのものではなくもっと北方の水深の浅い一帯ではないかと言われています)。エギペト軍に追われるモイセイと神の民が海に到達した時、モイセイは神の命令によって「手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれ」ました(出エギペト14:21)。恐れに震えていたイズライリの人々は無事に海を通り過ぎることができました。しかし、ファラオンの軍隊が逃亡するエウレイ人たちを追おうと海に入ると、主は海の水をいつもの流れに返らせ、エギペト人たちはみな溺れ死んでしまいました(14:22-31)。イズライリの人々は、ついに完全にエギペトの束縛から逃れ、「主を恐れ、主とそのしもべモイセイとを信じ」ました(14:31)。
出エギペトの物語には、伝統的なキリスト教の機密神学の展開に重要な役割を果たしてきた二つのイメージが含まれています。第一は、エギペトを十番目の災厄が襲っている間に、神によって立てられた過ぎ越しの祭りです。この祭りの詳細は12章に述べられ、そこで主はイズライリ人たちに過ぎ越しの子羊をどのように準備すればよいか教えています。
小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。……イズライリの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。……急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。その夜わたしはエギペトの国を巡って、エギペトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエギペトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。……その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエギペトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。(12:5-13)
正教会の機密神学はこの過ぎ越しの出来事を聖体機密の象徴的な預象と解釈します。過ぎ越しの子羊が犠牲とされ食されます。そしてイズライリの人々は子羊の血によって神の怒りを免れます。新約では、ハリストスが過ぎ越しの子羊です。その死は人類を罪と死から救いました。クリスチャンの聖体機密では、神の民は成聖されたパンとぶどう酒を食べ飲むことで主イイスス・ハリストス「世の罪を取り除く神の小羊」(イオアン1:29)のお体と血に与ります。
イズライリ人たちの奇跡的な渡海の物語もまた、機密との関わりで解釈されてきました。この物語は、実際、洗礼機密のイコンと言えるのです。神の民は海に入ります。これは通常では死を意味します。しかし、彼らは神の介入によって、エギペト人たちから解放されました。第2章で示されているように、洗礼の機密は、水に入りそして水からあがることですが、ハリストスの復活と死に与ることです。出エギペトの渡海の記事は、新約で洗礼のテーマが完成してゆくための、旧約における幾つかの重要なイメージの一つです。
エギペトの地からの解放に続いて、イズライリの人々はモイセイに率いられてシナイ半島の砂漠地帯をシナイ山に向かって進みました(15-18章)。この旅は困難を極めました。人々はしばしばモイセイに不平を言いました。しかし再三再四、彼らの飢えと渇きが限界に達したかのように見えた時、イズライリ人たちは神の介入によって支えられました。主は彼らに新鮮な水(15:22-27、17:1-7)、肉とパン(16章)を与えました。またさまようエウレイの人々を皆殺しにして略奪しようとした砂漠の獰猛な部族アマリク(アマレク)人たちとの戦いでは、イズライリ人たちに勝利を与えました(17:8-16)。このように、神の助けによって、モイセイとイズライリ人たちはシナイ山に到着しました。このシナイ山はきわめて大きな霊的な意義がある地でした。これらの砂漠での神の支えの物語を、正教会の注釈者はこぞって、モイセイの時代から何世紀も後にイイスス・ハリストスによって成し遂げられた決定的な救いのわざのイメージ、または預象として解釈してきました。
イズライリのエギペトからの解放を語る第1章から第18章に続いて、モイセイとイズライリ民族に対して、神の契約が更新されたことが物語られます(19〜40章)。すでに見たように、神とイズライリ民族との契約はアウラアムに始まります。出エギペト記ではその関係は更新され、いっそう多面的なものとなります。シナイ山で神はモイセイに告げました。「このように、…イズライリの人々に告げなさい、…もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(19:3-6)。ここで、神のアウラアムとの契約はイズライリ民族全体(アウラアムの子孫)との契約へと拡大されます。その契約条件はこの民族が神に忠実に従うことでした。
イズライリの人々が契約へ同意したことを見て、神はモイセイをシナイ山の頂上へ呼び出し、彼に聖なる律法を授けます(20-23章)。この律法は出エギペト記の中では、二つの部分に分けられます。「十戒」(20:1-17)と「契約法典」です(20:21-23:33)。出エギペト20章と、モイセイの回想として復伝律例(申命記)の5章6-21節に宣べられている十戒では、神の道徳的な本性、聖性と義、そして神の民の生き方が啓示されています。契約法典の前文ないしは序説と位置づけられるでしょう。この法典はしばしば「契約の書」と呼ばれますが、個々の問題についての詳細な戒めの集積であり、宗教的礼拝と儀礼、奴隷と僕の取り扱い、殺人、犯罪的な暴行、盗み、財産権、高利貸し、中傷、魔術、性的行為、偶像崇拝、安息日の遵守など広範囲に及びます。
概して言えば、出エギペト20章から23章にかけて示されている律法は神のその民に対する意志の啓示です。すなわち、主の御言葉に従えば、神の民は「祭司の国となり、また聖なる民と」なり、アウラアムに対して約束された地を所有するに値するものとなるであろうと。モイセイを通じて語られた神の御言葉を聞き、イズライリの人々は「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、従順に行います」と宣言しました(24:3-8)。
契約と律法へのイズライリの人々の明確な同意への答えとして、またアウラアムの子孫たちを神の選ばれた民とするという約束の成就として、神はモイセイに幕屋(テントで作られた携帯用の聖所)を作ることを命じました。聖書は主の幕屋の制作について、出エギペト記25章から40章にかけて述べています。幕屋は十戒が刻まれた石板(「あかしの板」)を入れるための木の箱(約櫃)を治めるためのものでした。イズライリ人たちの宗教的礼拝はこの幕屋の中で、レヴィ族の中から選ばれた司祭たちによって執行されました。イズライリの司祭として最初に選ばれたのはモイセイの兄であるアアロンとその息子たちでした(28:1-4)。最も重要なことは、神ご自身が幕屋の内で「光栄を帯びた雲」の中に臨在されたということです。それは聖所を満たし幕屋(とそこにある約櫃)を覆っていました(40:34-38)。ハナアンの地を征服するまでの四十年間、イズライリの人たちが荒野をさまよっている間、主はいつもその民と共にあり、ふるさとへの彼らの歩みを導いてきました。「すなわちイズライリの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった」。
既に指摘したことですが、神の人との契約にはいつも契約関係が成立したことを確証するしるしが伴います。モイセイの時もそれは変わりませんでした。この契約は三つのしるしによって確証されました。最初に、主は安息日の遵守を「わたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのもの」(31:12-18)として命じました。第二に、律法がモイセイとイズライリ民族にしるしとして、また契約の拡大として与えられました。第三に、契約は幕屋の制作によって完成されました。神がまさにイズライリの人々と共にいることのしるしでした。
レヴィ族とエウレイの司祭たちの書「レヴィ記」は、モイセイと彼の兄弟大祭司アアロンに指導されるイズライリ民族の宗教組織のあり方を述べています。この書の中心主題は神の完全な聖性、人間の罪深さとその贖いの方法です。レヴィ記の最初の16章は古代イズライリの祭儀に関する律法を記します。これは、それによって罪深い人間がその主と和解するために神に近づく方法です。清めの儀式、礼拝、いけにえ、そしてレヴィ族の司祭たちによって執り行われる祭儀を通じて、イズライリの人たちの霊的、道徳的な過ちは悔い改められ、神によって赦されます。レヴィ記16章には、伝統的なイウデヤ教にとって重要な儀式であった「贖罪日」の制定について述べられています。「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである」(16:29-30)。罪深き人間が聖なる神に和解(atonement,at-one-ment、贖い)されること、これこそがレヴィ記1章から16章の祭儀律法全体の目的だったのです。
17章から27章は、幕屋の祭儀についての律法と一般的な道徳律との関係への、より広範な分析が述べられます。結婚、貞潔、両親への尊敬、貧者への配慮、隣人との関係、安息日や過ぎ越しの祭りなど国家的な祭儀への参加、また十分の一税などの事柄が詳細に論じられます。この部分は、そこで各人の宗教的敬虔さと道徳的な純潔が強調されるため、しばしば「聖潔法典」と呼ばれます。
民数記(第1章と26章でイズライリ民族の人口が数えられるためこのように呼ばれます)は、モイセイのもとでのイズライリの社会的、政治的組織について、また、イズライリ人たちがハナアンの地の征服にどのように準備したかが述べられます。「民数記が伝えるほとんどの出来事は、エギペト脱出とハナアン侵入の間だの40年の期間の第2年目と、第40年目のことである。二つの出来事を除いて、荒野での38年間については何も語られない」*[1]。彼らの神に対する罪――信仰の欠如と神の律法に従えなかったことによって、イズライリの人々はシナイ山における契約の更新後、ただちにハナアンの地に入ることが許されませんでした。かわりに、ハナアンの地の南で、40年間の試練の時、彷徨の時を過ごさなければなりませんでした。民数記はイズライリ民族が約束の地に入るための準備期間を設けたことを通じて、聖性をめざす一人一人の、そして秩序正しい共同体の宗教的な献身の重要性を強調します。
キリスト教の立場からは、イズライリ人たちが40年間荒野に逗留し、最終的に聖なる地を征服したことは、ハリストスが40日間荒れ野でサタンの誘惑をお受けになることの預象です(マトフェイ4:1-11、ルカ4:1-13)。イズライリの先人たち同様、「イイススは御霊によって荒野に導かれ」ました。それは「悪魔に試みられるため」でした。しかしながら、それは、イズライリ人たちとは異なり、イイススが罪を犯したからではありません。神の子が籍身したお方として、人間が生きなければならない条件をご自身に引き受けるため、ハリストスは人間の罪がつくり出してしまった荒れ野におもむいたのです。荒れ野で悪魔に勝利したハリストスは、新たなるイズライリとして教会を打ち立てるために、またその新たなるイズライリを旧約のハナアンの地が象徴する真の聖地「神の国」に導くために、この世に戻ってきました。
五書の最後の書「復伝律例」(すなわち「第二の律法」)はそのほとんどの部分を、神との契約と神から与えられた律法の内容と意味について、モイセイが最後に教えたことを伝えるために費やされています。この書はモイセイがイズライリの諸部族に行った三つの説教によって構成されています。第一は、神の民がなぜ砂漠を彷徨わなければならなかったかについて、神への愛と従順の点での彼らの不忠実が強調されます(1:1-4:43)。第二は、律法の解説です(4:44-26:19)。第三は、契約の意味について説かれます(27-30章)。モイセイの最後の日々と彼の死が、31章から34章まで詳しく描かれます。復伝律例、そして五書全体の基本的なメッセージはモイセイによって発せられた次の問いかけが典型的に示します。「イズライリよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしが今日あなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである」(10:12-13)。
ハナアンの征服(紀元前1250-1200頃)
紀元前13世紀に成し遂げられたイズライリ民族によるハナアンの征服は、紀元前5世紀に現在のかたちにまとめられたイイスス・ナウィン記(〔ヌンの子〕ヨシュア記)に順序立てて記録されています。この書の書名はその中心的な役割を果たす人物イイスス・ナウィンに由来します。彼はエフレム族に属しイズライリの精神的かつ軍事的指導者としてモイセイの後継者となります。約束の地の占領の成功は、イイスス・ナウィン記では神がその民にお約束された契約の成就としてとらえられています。
旧約聖書の読者の多くが、神のイズライリ民族への厚遇と、神がハナアンの人々を激しく怒り、断罪し、なされるがままに打ち棄てたことに当惑します。しかしながら聖書は、ハナアンの人々がまったくの腐敗と堕落のうちにあり、彼らの宗教も偶像崇拝と悪霊崇拝にふけり、時には人身犠牲まで行っていたことを語っています。彼らは古代中近東の他の人々にくらべても、はるかに神を畏れない下劣な生活を送っていたようです。ハナアンの人々が彼らの悪しき道を悔い改め、救いを求めて神に立ち帰ることは不可能ではありませんでした(イイスス・ナウィン記第2章、ルツ記1〜4章参照)。しかし聖書によれば、悔い改めと神の聖性に関心を寄せた者はほとんどいなかったようです。だからこそ、神はイズライリの手に彼らを渡したのです。
イイスス・ナウィン記は三つの部分に分かれます。第一は、イズライリによるハナアンの地への侵入と征服の記事です(1-12章)。第二は、イズライリの十二部族がどのように約束の地を分割したかを語ります(13-21章)。第三は、イイスス・ナウィンが死に際して行った最後の説教です(22-24章)。別れの説教は神とイズライリとの契約の更新について語り、神への堅固な信仰と従順の必要性を強調します。不信仰と不従順の危険さは特に重大なこととして強調されます。そして実際に聖書は、旧約の人々が神への忠実さを維持できなかったこと、つねに神に従順であり得なかったことを繰り返し証します。「気が滅入りそうなイズライリの歴史は神への信仰と受順の失敗の明らかな例である。裁き、諸国への離散、神の祝福の撤回が不可避的に続く」*[2]。神の古代イスラエル民族との旧い契約(旧約)が、私たちの主、救世主イイスス・ハリストスによる新しい永遠の契約(新約)に取って代わられなければならなかった背景には、この不信仰と不従順がありました。
イイスス・ナウィンによって古きイズライリが約束の地に導かれた物語は、ハリストスとその働きについての旧約聖書に預象されるもう一つのイコンを表しています。「イイスス(ヨシュア)」という名はエウレイ語で「神は救いである」という意味です。このヨシュアがギリシャ語に音訳されたのが「イイスス」です。イイスス(ヨシュア)が敵に勝利しハナアンの地に神の民を導いたのとちょうど同じように、イイススは教会(新たなるイズライリ)に勝利をもたらしました。そして、今もなお、教会を真の約束の地、神の国へと導びき続けているのです。
十二部族連合の時代(紀元前1200-1025年頃)
士師記とルフ記はイイスス・ナウィンの死からサウル、ダヴィド、ソロモンのもとでエウレイの統一王国が成立する直前までのイズライリの歴史を語ります。この間、イズライリがすでに占領していたハナアンの地は十二部族の間で分割され、部族連合によってゆるやかに統治されていました。
士師記が現在のかたちにまとめられたのは紀元前7世紀から6世紀にかけてであろうといわれます。この書の最初の部分(1:1-2:5)は、カナアンの地に対するイズライリの支配権が完全なものではなかったこと、イイスス・ナウィンの時代に始められた征服が不徹底なものに終わったことが強調されています。この失敗は、神への礼拝にハナアンに住んでいた異邦人たちの異教礼拝の方法を混入させた罪の結果として説明されます。イズライリの人々はカナアン人たちの中心的な神であるワアル(バアル)、ハナアン人の豊饒と戦いの女神であるアスタルタ(アシタロテ)を拝み始めました(2:11-15)。これを見て、主・神はイズライリにその地の完全な征服を許しませんでした。イズライリの人々が主の「この国の住民と契約を結んではならない」「彼らの祭壇をこぼたなければならない」(2:2)という戒めに従わなかったので、神は「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう」(2:3)と宣言したのです。
このように不従順と不信仰は裁かれ断罪されました。しかし、神はイズライリの罪を裁き断罪する一方で、依然として慈悲深いお方でした。神はその民に「士師」として霊的かつ政治的な助力者を遣わしました。士師とは、十二部族連合の時代、イズライリ民族をハナアンの敵と彼ら自らの背信から救うために現れた、霊的また軍事的、政治的指導力の点でも特別の恩寵を受けた人々を指します。士師記の第二の部分は士師の出現と、
紀元前12世紀から11世紀のイズライリの歩みを特徴づける背信と解放の弁証法――はてしないとしか見えない罪、裁き、悔い改め、そして赦しの繰り返し――を語ります(2:6-16:31)。そこで扱われる士師たちはイウダのゴフォニイル(オテニエル)、アオド(エホデ)、セメガル(シャムガル)、デッウォラ(デボラ)、ワラク(バラク)、マナシア(マナセ)のゲデオン(ギデオン)、イッサカルのフォラ(トラ)、ゲレアドの(イアイル)、イッファイ(エフタ)、イフツァン(イブザン)、エロン、アウドン(アブドン)とサムソンです。士師記はこれらの指導者たちが次々と交代していったのか、同時に活動したのかについては説明していません。最後の士師は列王記T・U(サムイル記上下)が示すようにサムイルでした。
しかしながら、士師たちの指導のもとにあっても、イズライリ民族たちはその悪を免れませんでした。士師記の三番目の部分(17-21章)には十二部族連合時代に顕著になってきた社会的、宗教的な無秩序状態が描かれています。多くのイズライリ人が神の律法と士師たちの指導に従いませんでした。彼らは不信仰かつ不従順であり、ハナアン人の文化や価値観や宗教的な習慣を取り入れてゆきました。この背信と異教化の結果は社会的、政治的な無秩序、腐敗であり、またイズライリの部族間の不安定な関係でした。神の契約を拒否したことによってイズライリは神に裁かれ、その結果きわめて危険な状況の中を歩まなければならなくなりました。士師記の結びの言葉は、当時の無政府状態が何に基づいていたか、またその危機の時代にあって神がその民をどこに導いていくかを告げています。「そのころ、イズライリには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」(21:25)。無政府状態が長く続いたことによってイズライリは、一人の王によって統合され支配される時代へと一層近づいていったのです。
イズライリに王制が到来しつつあることは、おそらく紀元前6世紀に士師時代での出来事としてまとめられたルフ(ルツ)記では、もっと強調されています。ルフの物語は一般的に不信仰、背信、無法、無秩序と特徴づけられるこの時代でさえ、信仰深い神の子たちの生活には神が臨在しておられることを証しします。そしてイズライリ人とハナアンの人々との関係は、士師記とは異なった観点から描かれています。
ルフ記の出来事は紀元前12世紀後半か11世紀初頭に起きました。飢饉を逃れて、生まれ故郷のウィフレエム(ベツレヘム)をイウダ部族の一家、エリメレフ(エリメレク)、その妻ノエミニ(ナオミ)、二人の子マロンとキリオンは、ハナアンの地の南西部分にあたるモアフ(モアブ)に移住しました。モアフの人々はロト(アウラアムの甥)と彼の娘との間にできた子(創世記19:30-38)であるモアフの子孫でした。近親相姦によって彼らが始まったことにより、モアフ人は神の道からはずれた者たちという烙印を押されていました。モアフの地でエリメレフは死に、彼の息子たちはモアフの娘たちと結婚しました。オルパとルフです。「彼らはそこに十年ほど住んでいたが、マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてノエミニはふたりの子と夫とに先だたれた」(1:4-5)。ウィフレエムの飢饉が終わったことを聞き、ノエミニは故郷へ帰ることを決意します。彼女の嫁たちも一緒に行くことを望んだのですが、ノエミニは彼女たちをその属する人々のもとに帰るように強く勧めました。オルパはモアブに残ることを承知しましたが、ルフはノエミニにすがりついて言いました。「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」(1:16)。このように愛と信仰によってイズライリ人となり、ルフはノエミニとともにウィフレエムに旅しました。ウィフレエムでルフはエリメレフの裕福な親戚ウヲーズ(ボアズ)の目にとまり、彼は彼女を大変気に入りました。ウヲーズとルフは結婚しました。彼らの子オベデの子イエッセイこそ、ダヴィドの父です。ダヴィドを通じて、ルフはイイスス・ハリストスの先祖となったわけです。彼女の名は、マトフェイ伝1章1-17節にあるハリストスの系図にはっきりと記されています。
ルフ記には二つの主要目的があります。第一は、ダヴィド王のルーツをたどることです。(ルツ記はそこで伝えられる出来事からずっと後になって書かれたことを思い起こしてください)。第二は、神の愛と慈悲は、信仰を持って神に向かいその守護を求める者にはイズライリ人であるかどうかに関わりなく及ぶと宣言することです。エリメレフと彼の息子たちのモアフの地での死はイズライリ人たちが異教に走ったことへの神の断罪のしるしであり、一方、ノエミニのウィフレエムへの帰還とルフの改宗は、唯一、神がお受け入れになるイズライリ人とハナアン人の統合のかたちを表すしるしです。ルフ記のこの第二の狙いは、士師記に示される考え方と決して両立しないものではありません。士師記はイズライリ人の、真の神を離れハナアン人の偶像を愛するようになった「異教化」を断罪しました。しかし士師記は、ハナアン人のイズライリの宗教への改宗が不可能であるとも神のご意志に沿わないとも決して言っていません。
エウレイ王国の勃興と凋落(紀元前1025〜538年)
古代イズライリについての旧約聖書の歴史の五番目の段階は、エウレイ王国の成立からその崩壊の時代です。この時代は列王記T・U(サムイル記上下)、列王記V・W(列王記上下)、トウィト記、ユディフ記に大変詳しく述べられています。列王記T・U(サムイル記上下)、列王記V・W(列王記上下)は紀元前10〜11世紀に文書化され、トウィト記、ユディフ記は紀元前2世紀に書かれました。これらの文書に伝えられている内容はきわめて詳細かつ複雑で、ここで私たちは、この重要な時代について大まかなアウトラインをたどることしかできません。エウレイ王国の歴史は三つの部分に分けることができます。第一は、しばしば「統一王国」(1025-931BC)と呼ばれるエウレイ王国の成立です。第二は、統一王国の二つの王国への分裂です(930-586BC)。第三はワビロン(バビロニア)帝国によるエウレイ王国の最終的な崩壊です(586-538BC)。
エウレイ王国の成立(1025-931BC) 紀元前11世紀、十二部族連合の無政府状態はかつてないほどに深刻なものになり、限界に達しつつありました。イズライリの人々は士師たちの指導に次第に不満を募らせてゆき、やがて「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」(列王T8:5)と叫び始めました。しかしながら、この王政への要求は士師による神の神政的統治を事実上否定するものでした(列王T8:7-9)。部族連合時代の不安定さの原因は士師たちによる統治ではなく、むしろイズライリの人々自身の不信仰と不従順が原因でした。しかしそれでも、神はイズライリの人々が王を戴くことを許容し、最後の偉大な士師サムイルにウェニアミン族のサウルをイズライリの最初の王として任命することを命じました(列王T1-10章)*[3]。列王記Tの8章から30章までに描かれるサウル王の統治は、イズライリの人々にとって功罪半ばするものでした。サウル王はエウレイ王国の基礎を固め、フィリスティア(ペリシテ)人やハナアン人たちと戦いました。しかし彼はイズライリの部族間の争いを取りのぞくことには失敗しました。最後にはフィリスティア人たちに打ち負かされ、外国からの侵略の危険にその国をさらしてしまいました。フィリスティア人たちとの戦いに敗れ、サウル王が自殺した時、イズライリの王国は崩壊の瀬戸際にありました。王を要求した結果、(「ほかの国々のように」)、士師たちの統治のもとにあった時以上に悪い状態に陥ってしまったのです。
しかし、神は再びその民を災厄から救うために介入しました。ウヲーズとルフの曾孫に当たるダヴィドが神の膏つけられた王としてイズライリを統治するために立てられました。ダヴィドの統治(1000-965BC)については列王記U(サムイル下)と列王記Vの最初の2章に記録されています。ダヴィドは道徳的にも霊的にも完全からはほど遠い人物でした(列王U11-12章参照)。しかし、彼は「神お一人がイズライリの唯一の王であること、そして他のイズライリの人々すべてと同じく彼自身が神の契約のもとにあることをけっして忘れませんでした」*[4]。 彼の極めてすぐれた軍事的政治的指導力のもとで、フィリスティア人をはじめイズライリの敵はことごとく打ち破られ、散らされました。こうして、イズライリの諸部族は統一され豊かな強国となりました。
ダヴィドの死後、彼の息子のソロモン(965-931BC)が王位を継ぎました。ソロモン王のことは列王記Vの3章から11章にかけて記されています。ソロモン王のもとでイズライリが掌握する地域は大幅に拡大しました。それに伴い外国の諸勢力(エギペトなど)との間でたくさんの同盟や通商条約が結ばれました。王国はもはや帝国というべきものになっていました。ソロモンはまたイエルサリムの大神殿の建造を命じました。契約の箱を置く幕屋はその神殿に移され、イズライリの宗教的中心地となりました。しかし、彼の長い栄光に満ちた年月と神への忠実さにもかかわらず、ソロモンはその晩年に主から背き離れました。彼は多くの外国の女たちを彼の後宮に入れ、彼の異教の妻たちによって偶像礼拝にそそのかされ、その誘いの手に落ちてしまいました(列王V11章)。ソロモンの犯した罪により、神は王への反逆者が現れるにまかせ、ソロモンの死後も、彼がその王国にもたらしてしまった内乱は続き、彼の相続者であった息子ロウヲアム(レハベアム)を苦しめました。
帝国の分裂(930-586BC) ロウヲアム(レハベアム931-913BC)の統治は拙劣で、エウレイの帝国はほどなく内乱によって、イズライリと呼ばれた北王国、イウダと呼ばれた南王国に分裂しました。北王国を構成した部族は、ルウィム、シメオン、ダン、ネッファリム、ガド、アシル、イッサハル、ザウロン、エフレム、マナッシヤです。南方の二つの部族、イウダとウェニアミンはダヴィドの家への忠実を貫き、イウデヤ王国を成立させた。イズライリ人の司祭たちが属するレヴィ族は、神の民の宗教生活上の必要性により、イイスス・ナウィンの時代から各部族の中に分かれて入ってたため(イイスス・ナウィン記21章)、紀元前10世紀後半の内乱以後は南と北の両王国にレヴィ族が存在するということになりました。
イズライリ王国とイウデヤ王国は紀元前930年から722年までは並存していました(列王V12章〜列王W16章)。紀元前723年、イズライリ王国はアッシリヤに攻撃され、およそ一年の内に北王国は完全に打ち破られました(列王W17章、トウィト1-14章)。北の十部族は奴隷とされ、今日のイランにまで及んだアッシリヤ帝国の東方の外縁地域に移されました。征服されたイズライリの地域には反対にアッシリアの植民者たちが定住し、その地はそれ以来サマリヤと呼ばれました。これらのアッシリヤの移住者たちはイズライリの神を自らの神として選びましたが、旧約聖書の最初の五書しか聖典として採用せず、イエルサリムではなくサマリヤのゲリジム山を彼らの聖所と見なしました。これらの植民者たちの子孫が後の「サマリヤ人」です。彼らはイウダの人々から異邦人と見なされました。事実上、アッシリヤの北王国の征服によって、そこに住んでいた十の部族が歴史の舞台から消滅してしまいました。アッシリヤによるイズライリ王国の崩壊後は、イウダ族とウェニアミン族と南王国に住んでいたレヴィ族のみが残ったということです。この歴史的事実が後のイズライリの失われた部族にまつわる諸伝説の基礎になります。そして、残された王国の名がイウデヤであったため、中近東一帯でその民はイウデヤ人(Jew)と呼ばれ、その文化と宗教が「イウデヤ教(文化)」(Judaism)として知られるようになります。
イウデヤ人のワヴィロン捕囚(586-538BC) アッシリヤの北王国征服後、イウデヤ王国は紀元前722年から586年まで独立を保ちました(列王W18-24章)。イウデヤ王国を征服することがついにできなかったアッシリヤ帝国は、612年ワウィロン帝国(カルデヤ)に滅ぼされました。ナウホドノソル(ネブカドネザル)王(605-562BC)に率いられたワウィロン人たちは、アッシリヤ帝国が征服できなかった地域の攻略にも成功しました。紀元前586年、彼らはついにイウデヤ王国を打ち倒し、ソロモン王が建造した大神殿と、神殿に安置されていた契約の箱(約櫃)を破壊し、多くのイウデヤ人を奴隷としてワウィロンの東方地域に連れ去りました(列王W23:36-25:30、ユディフ1-16章)。およそ50年間に及んだ「ワウィロン捕囚」によって、ついにエウレイの王国は決定的に絶滅され、完全に過去のものとなり、以後イウデヤ人たちの想像力に何世紀にもわたってとりつく亡霊となりました。
復興期(538-37BC) 聖なる地に対するワウィロンの支配は紀元前539年に、ワウィロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされて終わります。パレスティナがペルシャの支配下にあった時代は、紀元前5世紀から2世紀の間に書かれた歴代志上下、エズラ記、ネヘミヤ記、エスフィル記、エズドラ記Tに描かれています。キール(キュロス)大王(555-530BC)の時代、ペルシャ帝国は世界史上前例のない版図を誇っていました。「新しい帝国は、ペルシャの太守や総督たちのもとでかなり大きな自治が許される地方国家の連邦体」*[5]でした。538年、キール大王はワウィロンに捕囚されていたイウデヤ人たちが彼らの故郷に帰ることを許す布告を出します。「ペルシャ王キールはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をイウデヤにあるイエルサリムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、イウデヤにあるイエルサリムに上って行き、イズライリの神、主の宮を復興せよ」(エズラ1:2-3)。紀元前515年、神殿は再建されます(エズラ1-6章)。イエルサリム自体も、紀元前443年までかかって大規模に再建されました。イウデヤの地は、紀元前539年から330年の間ペルシャに統治されていましたが、イウデヤ人たちは、限界はあったものの実際上は自治を許されていました。
紀元前330年、ペルシャ帝国はアレクサンダー大王の軍によって滅ぼされてしまいます。エギペトとイウデヤ地方を含む中近東一帯はギリシャ人の手に落ちました。アレキサンダー大王は323年に死に、「アレクサンダーの後継者争いの中で、イウデヤ(及び今日のパレスティナ全土)はエギペトのプトレマイオス朝(ギリシャ系)が領有を宣言することとなる。やがてパニアスでアンティオコス大王がエギペト軍を破った紀元前198年に今度はセレウコス朝(ギリシャ系)の支配もとに入り」*[6]ます。 セレウコス朝はイウデヤ人たちにヘレニズム文化とその価値観を押しつけ、イウデヤ教を抹殺しようとしました。この政策はマッカウェイの反乱を引き起こします。この反乱はレヴィ族のマッタフィヤとその五人の息子、イオアン、シモン、イウダ、エレアザル、ヨナタンによって開始されました。マッタフィアの息子たちはマッタフィアのギリシャ語訳が「マカバイオス」であるため「マッカウェイ(マカバイ)」として知られるようになります。この反乱は成功し、マッカウェイの家族たち(マッカウェイの兄弟たちの名字から「ハスモン王家」〔〜37BC〕として知られる)によって統治されるイウデヤ人の独立国がパレスティナに出現しました。復興期のギリシャ支配とマッカウェイ時代については紀元前2世紀から1世紀の間にまとめられたマッカウェイ記T・U・Vに述べられています。
ハスモン家によるイウデヤの独立の期間は短いものでした。紀元前63年以後、ローマ帝国が中近東に進出してきました。ローマ人たちが紀元前40年聖地に侵入してきたとき、旧約聖書の古代イスラエルの歴史は幕を閉じました。ハリストスの「新しい契約」によって「旧い契約」が取って代わられるのは、まさにこのローマ支配の時代だったのです。
*[3] ウェニアミン族のサウルが王に選ばれたことには問題があった。なぜならば主は、イアコフの預言を通じてイウダ族をイズライリの王の部族として計画していたからである(創世記49:10)。おそらくサウルが選ばれ人々が彼を受け入れたことにはイズライリの人々がいかに神のご計画の道をはずれていたかを表している。サウル王は破局の打ちにその終わりを迎えることになる。