◆第8世紀◆
イコン論争
八世紀の東方では、「イサウリア人」の皇帝レオ三世(717-741)とコンスタンティン五世(741-775)が、彼らの見解を押しつけて教会を支配しようと試みました。この二人の皇帝はそのために、熱心なクリスチャンたち、とりわけ教会の完全さを守ろうとする修道士たちに、悪質な攻撃を加えようとしました。この攻撃はイコン(聖像)を敬拝する人々への凶暴な迫害となって表れました。実際「敬虔」な人々の中には偶像崇拝や異教的礼拝スレスレの行き過ぎたイコンへの執着があったので、この攻撃対象の選択は実に効果的でした。
七五三年に会議(訳注:総主教が誰も参加しなかったので「頭なし公会議」と呼ばれます)が行われ、公式にイコンへの敬拝が断罪され、教会、公共の建物、人々の家庭から一切の像を取り去ることが命じられました。この会議では、単に政治的支配者の教会に対する権威が誇示されただけではなく、イコン反対論が筋道だった論として提出されました。それは、聖書では「神は見ることができない」と教えられているので、真の信徒は目に見えるように作られた像を作ることも崇拝することもあってはならない、というものでした。偶像禁止について極めて狂信的に厳格なイスラム教徒たちとの接触が、この見解を呼び起こした可能性は考えられます。
教会の主教たちは、帝国の強力な圧力のもとでイコンの敬拝を正式に断罪しました。時を移さず、聖なる像を持ち続け敬拝し続ける人たちへの邪悪な迫害が開始されました。七六二年から七七五年の期間は「血の十年間」として知られます。何百人ものクリスチャン(そのほとんどは修道士)が、イコンを隠し持ち崇敬したということで投獄され拷問されました。殺された者さえいました。
第七回全地公会
七八七年、イコンの敬拝を支持する皇后イリナの治世下で、ニケヤの地に会議が開かれ、教会でのイコンの適正な使用とその合法性が明確に定義されました。この、今日第七回全地公会議として知られる会議の結論は、ダマスクの聖イオアン(†749)の神学によって導かれました。会議は、イコンは描かれ敬拝・崇敬されるべきであるが、礼拝(訳注・神にのみささげられるもので敬拝・崇敬と区別される)されてはならないと決定しました。
会議に出席した主教たちはキリスト教信仰の決定的本質は神の子(=神言葉)が人間の肉体をとって人間となったこと(籍身)であると論じました。神は確かに「見ることができない」お方です。しかし、イイスス・ハリストスにおいて、この「見ることができない」神は実に「見ることができる」お方となったのです。イイススを見る者は「見ることのできない」神を見ます(イオアン14:8)。もし、教会に於いて、イコンを描くこと敬拝することが否定されるなら、ハリストスの真の人間性が否定されることになります。同時に、ハリストスの内にまたハリストスを通して私たちに与えられる聖神も否定されてしまいます。聖神なしには、「われわれのかたち(神の像)に、われわれに似せて(神の肖)」(創世記1:26)創造された人間の本来のあり方を完成することはできなくなってしまいます。
従って聖なるイコンを拒否することはハリストスと聖神によって成し遂げられた神の救いの事実の拒否ともなるのです。
神父(かみちち)と神聖神は描くこともできないし、描かれてはなりません。しかし、ハリストス、生神女マリヤ、諸聖人たちはイコン表現の中で描くことができます。なぜなら彼等は神による人間救済の現実性を示しているからです。彼等は、ハリストスと聖神による、真の変容と人間の成聖(神の性質に与る者となること)、そして創造の全体を示します。イコンは「像にほどこされる尊敬はその原像に移ってゆくものであり、イコンを敬拝する者はそこに描かれたお方(ヒュポスタシス)を拝するのである(第七全地公会定理)」からこそ、敬拝されるのです。
七八七年の全地公会議の後、イコン破壊運動が再燃しましたが、最終的に八四三年、教会はイコンを回復し(訳注・大斎第一「正教勝利の主日」で記憶)今日まで守り続けています。
奉神礼の展開
ダマスクの聖イオアンは八世紀の奉神礼の発展に大きな役割を果たしました。彼はイスラムのカリフに仕えた高級官僚でしたが、やがてエルサレムの聖サワ修道院の修道士となりました。彼は今日でも復活祭の早課で歌われるカノンや埋葬式で歌われる聖歌など多くの奉神礼聖歌を書きました。また、彼は「八調経」の最初の編纂者だったと考えられています。八調経とは聖歌のメロディーが各週ごとに異なった旋律体系をもち、八週間を単位に一年間にわたって繰り返されるよう組み立てられた奉神礼祈祷書で、正教奉神礼の基礎的なサイクルとなっているものです。また聖イオアンは、正教教義の最初の体系的論述である「正教信仰注解」の著者です。この論文は「信仰の泉」という大著の第三部として書かれました。(左のイコン参照)
この世紀に「生神女進堂祭」がコンスタンティノープルでも行われるようになったことが、当時の正教会の共通の暦に記載されていることによって知ることができます。クリトの聖アンドレイによると、この祭りはすでに六世紀の早い時期からエルサレムで行われていました。
西方
八世紀西方では、引き続き蛮族たちがキリスト教に改宗していきました。聖ボニファティウス(†745)による伝道が有名です。
また、この時期になって、ローマ教会の主教(教皇)たちがイタリヤの所領を教皇領として支配する世俗的な君主ともなり(「ピピンの寄進」756年による)、新しく台頭してきた有力な蛮族であったカロリング朝の君主たちと密接な関係を持つようになっていきました。シャルル・マーニュを代表とするカロリング朝の君主たちもまた、自分たちの手で西方にローマ帝国を再建しようとローマ教皇たちにすり寄ったのです。しかし、そのためには、彼らは東方のローマ帝国の正統性に異議を立てなければなりませんでした。彼らは、東方のイコン敬拝を「偶像崇拝」として告発し、ニケヤ・コンスタンティノープル信経から「及び子から(フィリオケ)」という言葉を東方教会が削除したと言いがかりをつけたのです(訳注・実際は、もともとないものに西方が付加した)。これらの告発は七九二年にシャルル・マーニュからローマ教皇に送られたカロリング文書に収められています。