◆第5世紀◆
五世紀初頭、アレキサンドリヤとコンスタンティノープルが、教会と帝国での覇権を争っていた頃、コンスタンティノープルの主教ネストリウスは、キリストの母マリヤを伝統的な称号「生神女」と呼んで讃えることを拒否すると宣言しました。彼は、マリヤから生まれた者は、神の永遠のロゴス(み言葉、神の子)が来て宿った単なる人であり、神のロゴスご自身ではない。従って、マリヤを「生神女(テオトコス・神を生んだ女)」と呼ぶのはふさわしいことではないと主張したのです。
アレキサンドリヤの主教聖キリル(†444)は、マリヤから「肉体によって」生まれたお方は神のロゴスに他ならないから、彼女を「生神女」と呼ぶことは実にふさわしいと、ネストリウスの教えを激しく糾弾しました。神の独り子は「万世の先に父より生まれ」、私たち人間の救いのために天より降り、肉体をとって人間となり童貞女(処女)マリヤから生まれました。当然、「神の子」と「マリヤの子」は同じ「子」であると主張したのです。
第三回全地公会
ネストリウスとその追随者たちはキリルの主張に服することを拒否しました。そこで、四三一年、エフェス市中で、キリルに指導された何人かの主教たちが会議を開き、キリルを始めアレキサンドリヤの人々の主張を認め、ネストリウスの主張をしりぞけました。この決定は四三三年、その会議には出席しなかつた東方地域の主教たちによって正式に承認され、四三一年の会議は結果的に第三回全地公会として認識されるようになつたのです。
盗賊会議
この全地公会の決議も、第一回全地公会のアリウス異端決義と同じく、ただちに全教会が受け入れるものとはなりませんでした。この問題についての論争は続きました。キリルの主張はイイススの完全な人間性を表現するのに不適当ではないかと危惧していた東方地域の主教たちの大多数は、やがてキリルと共通の理解に達することができました。ところがキリルの死後、彼の狂信的な追随者たちは再び、コンスタンティノープルや東方地域の主教たちとの一致を破りました。四四九年、自分たちこそは聖キリルの立場に忠実な者であると任じる多くの主教たちが、エフェスでもう一度会議を開きました(「盗賊会議」)。彼らは、ハリストスの位格(ペルソナ)と本性について、ハリストスの神性を強調するあまりハリストスの人間性をほとんど完全に否定する教義を、公式に表明してしまいました。混乱と分裂は深まるばかりでした。
第四回全地公会
四五一年、今度はカルケドンに、ハリストスについての教義問題を解決するため、もう一つの会議が招集されました。この会議は現在第四回全地公会議として知られ、聖キリルと四三一年のエフエス公会議の教えをともに擁護することに成功し、同時にイイススの完全な人間性がはつきり打ち出されるべきと主張した東方地域の主教たちも満足させることができました。この会議の決定は、ローマ教皇聖レオの書簡の述べる教えに大筋において従ったものです。
カルケドン会議の決定(カルケドンの定理)は、イイスス・ハリストスは実に籍身(受肉)したロゴス(神言葉)、「万世の先に父から生まれ」た「神の子」であり、この、べツレヘムでマリヤから肉体をとって生まれた方は、造られざるお方、真の神の子、至聖三者のお一方であるから、マリヤは真に「生神女」である、と宣言します。また同時に、神言葉(神の子)は人間として生まれるとき、人間性全体をご自身におとりになり、罪以外においてはあらゆる点で真の人間となられたと明言しました。このように、カルケドンの定理では、ナザレのイイススは「一つの位格(ペルソナまたヒユポスタシス)、二つの本性、すなわち人性と神性」として確認されました。彼は完全な人であり、完全な神です。神として、彼は神・父、神聖神と同一本性(ホモウシオス)であり、人として、彼はすべての人間と同一本性です。このハリストスに於ける神性と人性の結合は「位格的結合」と呼ばれます。これは、ハリストスの一つの独自の位格において、神性と人性が「混ぜ合わされることなく、混同されることなく、分離されることなく、切り離されることなく」結合しているということです。
単性論者たち
アレキサンドリヤのキリルの狂信的な弟子たちと、彼らに同調する者たちは、カルケドン公会議の決定を受け入れませんでした。彼らは単性論者と呼ばれます。彼らがカルケドン公会議の決定を拒否したのは、カルケドンの定理は、ハリストスには二つの本性があるとし、聖キリルの「神言葉(神の子・ハリストス)は一つの本性のみをもって藉身(受肉)した」とする教えを否定することになると考えたからでした。カルケドンの決定を支持する者たちは、そこで用いられた用語は聖なる師父(聖キリル)と異なっていても、言いたいことはまったく同じであり、たんにより一層正確に表現しただけのことであると主張しました(現在の正統神学もそのように主張しています)。しかしながら、この不一致は解決されませんでした。再一致のための多くの試みが五世紀から六世紀にかけて(そして最近でも)行われましたが、いまだにカルケドンの決定への反対者たちは正教会から分離したままです。
今日まで残る、いわゆる単性論主義の主な教会は次のようなものです。エジプトのコプト教会、エチオピヤ教会、シリヤのヤコブ派教会、在インド・シリヤ教会、アルメニヤ教会。これらの教会はしばしば「古東方教会」「オリエンタル・オーソドックス教会」などと呼ばれます。
(訳注、これらの異端派が混在する地域では、それぞれが自らを「オーソドックス」と呼びます。正統派は自らを「カルケドン派」として彼らと区別します)
公会議
第三回と第四回の全地公会は多くの教会規律的なまた実践的なカノン(規則)を決議しました。エフェス会議(第三回)は前の二回の会議での教義上の決定と異なる教義を「編み出す」ことを禁止しました(第七規則)。このカノンは、やがて西方教会が採用した「信経」への「及び子から(フィリオケ)」という語句の追加に、正教会が一貫して反対する根拠の一つです。カルケドン公会はコンスタンティノープルすなわち「新ローマ」に、皇帝と元老院の存在の名誉によって古えのローマと等しい特権を授与しました(第二八規則)。
西方
第五世紀には、ローマの蛮族たちによる陥落のため、キリスト教帝国の西方は衰微しました。ヒッポの主教アウグスティンの死(四三〇)は、西方の暗黒時代の到来を暗示するものでした。彼の深い思索による膨大な著作は、ローマ・カトリック、プロテスタントを問わず西方のキリスト教に、ほとんど唯一といっていい大きな影響を与えたものでした。(訳注、正教会でも彼の著作は尊敬されますが、西方に較べればはるかに相対的なものです)