◆第20世紀(後)◆
西ヨーロッパの教会
同じ時期、モスクワ総主教庁は西ヨーロッパのロシア正教会に対してもソヴィエト体制への忠誠の誓約を要求しました。エウロギウス府主教はそれを拒否し、コンスタンティノープル総主教に訴え出ました。かくして一九三一年西ヨーロッパのロシア正教会はコンスタンティノープル総主教区の一首座教区となりました。たくさんのロシア教会の名高い教会人や神学者がエウロギウス首座主教のもとに集まり、一九二五年、聖セルギーの名を冠した神学院を設立しました。この神学院は西方での正教会の学問的な中心地となり、S.ブルガコフ神父(1944没)、V.ゼンコフスキー神父(1962没)、カッシアン・ベゾブラゾフ主教(1965没)、キプリアン・カーン掌院(1960没)、N.アファナシェフ神父(1966没)、後にニューヨークの聖ウラジミール神学院の学長を務め、またブルックリンのホーリー・クロス神学校でも教えたG.フロロフスキー神父、最後のロシア教会宗務会院の総監をつとめ最初の臨時政府の宗教大臣となり一九一七年から一八年にかけてのロシア教会公会で秘書として働いたカタシェフ教授(1960没)らが集まっていました。
この時期のロシア移民たちの間で、大きな働きをしたロシアキリスト教学生運動に、セイギー神学院の教授たちとともに密接に関わった、A.エルチャノフ神父(1934没)とS.チェトヴェリコフ神父も忘れることはできない牧者です。
アメリカ国内の各民族教会
この世紀の第二・四半世紀に、アメリカでは各民族教会が急増しました。アメリカのギリシャ人正教徒に対する、ギリシャ教会とコンスタンティノープル総主教庁の軋轢は解決し、その申し合わせによって、アメリカ大主教区はコンスタンティノープル総主教区のアメリカに於けるギリシャ語を話すギリシャ人正教徒のための教会として位置づけられました。
一九三七年、やがてエキュメニカル総主教となる、アテナゴラス・スピロウ大主教がギリシャから渡米し「アメリカの大主教」となりました。同じ年、ホーリー・クロス正教神学校がコネティカットのポンフレットに設立され、のちにマサチュセッチュのブルックリンに移転します。一九四九年、アテナゴラス大主教は長く務めたアメリカの大主教からエキュメニカル総主教に立てられます。後任はミカエル・コンスタンティニデス大主教。
一九三三年、アフティミオス主教に率いられてきた在米アンティオケ教会は二つのグループに分裂しました。一九三六年アントニイ・バシュル府主教が多数派のリーダーとなり、サムエル・ダヴィッド大主教が少数派のリーダーとなりました。しかし両者ともアンティオケ総主教区内にとどまりました。アントニイ府主教はアメリカの正教会史の中で最も傑出した人物のひとりでした。一九二二年に司祭に叙聖され、一九二五年からロシア教会の伝道教会の立場から公式に離れたアンティオケ系の大主教区の府主教に就任するまでの十四年間、シリア人の正教徒への伝道に力を尽くしました。彼は奉神礼に英語を用いることと、アメリカ内の諸民族教会の一致を強く支持、主張しました。彼は「在米の教会法的合法な諸正教会の主教たちの常任委員会(SCCOBA)」の設立者であり、その有力な指導者でした。彼はまた正教会の教会一致運動のリーダーでもありました。
一九二九年ルーマニア系教会がアメリカ国内に形成されポリカルプ主教に率いられました。一九三五年以後このグループは主教不在となりました。大戦後の混乱期にヴァレリアン・トリファ主教に率いられたルーマニア正教会のグループが生まれましたが、非合法と見なされ、ブカレストの教区のもとに入ったもう一つのグループが形成されました。
同時期、セルビア系の人たちもディオニシエ主教に率いられアメリカ国内にベオグラードの総主教傘下に入る教区を形成しました。ブルガリア人たちも府主教アンドレイに率いられ、一九四五年に公式に設立された母国内の正教会と関係を持つ教区を形成しました。
アルバニア正教会のアメリカ教区はファン・ノリ主教によって立てられました。彼はロシア正教会アメリカ府主教区の主教たちによって叙聖されました。しかし、コンスタンティノープル総主教の傘下に小さなアルバニア移民のグループも形成されました。この間、一九三七年に完全独立を宣言したアルバニア本国の正教会は厳しい迫害に曝されていました。
一九三九年コンスタンティノープル総主教はアメリカのカルパート・ロシア人たちの首長としてオレステス・コルノック主教を叙聖しました。この同じ時期に、コンスタンティノープルはボーダン・シピルカ主教によって率いられるウクライナ正教会を設立しました。もう一つのアメリカに於けるウクライナ正教徒の教区は、以前にポーランド正教会の主教であったパラディオス大主教を首長にして設立されました。同時にウクライナ「独立教会」もアメリカに教区を設立しました。その合衆国における指導者はイオアン・フェオドロヴィッチです。この「独立教会」はこの期間、「自分たちの立場の正当性は様々な面ですでに合法化されている」と主張し続けましたが、他の正教会からは依然として承認を得ることはできませんでした。
エキュメニカル(教会一致)運動
一九四八年、二〇年代、三〇年代にかけて会合を重ねてきた「信仰と職制」「生活と実践」の運動が発展してアムステルダムに「世界教会会議(WCC)」が設立されました。一九五四年イリノイのエヴァンスタンで開かれた第二回の会議までに、正教会からは、コンスタンティノープル総主教区、アレクサンドリア総主教区、アンティオケ総主教区、ギリシャ教会、ロシア正教会アメリカ府主教区、在アメリカ・ルーマニア主教区がWCCの正式メンバーになりました。この間に、西ヨーロッパのロシア正教会首座主教区の指導者たちも、モスクワ総主教へ忠実な姿勢をとり続けていたウラジミール・ロスキーやニコラス・ゼルノフらとともに、エキュメニカル運動に積極的な役割を果たしました。
(今回を以て連載を終えます。原著には一九五〇年から一九七九年までの記述もありますが、アメリカでの動きが中心であり、また一九九一年のソ連崩壊後、正教会も過渡期を迎え、歴史的評価も定まっていない現状を鑑み、割愛させていただきました。