◆第20世紀(前)◆
ロシア教会
一九〇〇年から一九一七年にかけて、ロシアは宗教的再生と教会改革の時代でした。P.B.ストゥルブ(1944没)、S.N.ブルガコフ (1944没)、N.A.ベルジャエフ(1948没)、S.L.フランク(1950没)、G.P.フェドトフ(1951没)らが次々とマルクス主義から観念論へ、そして更に正教会へと回心をとげました。また多くの主教たちや教会指導者たちが教会機構を批判的に見直しました。一九〇五年には、四半世紀のあいだ教会を精力的に支配した聖宗務院の総監ポベノヴォスツエフは、ついにロシア教会がペートル大帝時代以来たえて行われなかった地方公会を開催し、「その偉大な仕事を達成するために」諸計画が立案されなければならないという皇帝の勅令を発表しました。行政権力はついにロシア教会側の国家統制からの干渉の排除の要求に屈しました。
一九一七年から一八年にかけての公会
公会に備え多くの準備がなされました。主教たちは意見を聞かれ討論が重ねられました。報告書が山と積まれました。長い討論のすえ各主教区は聖職者と一般信徒から代表者を出し、主教たちとともに公会に出席することがきまりました。本来、正教会の信仰では主教のみが教会の教理と実践についての最終決定に参加できるのですから、これは画期的なことでした。
一九一七年、革命の混乱のうちに公会が招集されました。その最も重大な決定はロシア教会の総主教制を復活させることでした。一九一七年一一月一日、徹夜祷終了後、祈祷の後ひとりの高齢の修道士がカザンの生神女のイコンの前で、三人の候補者の名を書いた三枚の紙の入ったかめから一枚を引き抜きました。かくして先のアメリカ大主教区の首座主教、ティーホン大主教が、ペートル大帝時代後最初のロシア正教会の総主教に就任しました。
ティーホン総主教
新総主教はまず第一に、国家的保護の喪失という新しい状況の中で教会の権利のために戦いました。一九一八年一月、総主教は「ハリストスの真理のに対する、あからさまな、また隠れた敵」すべてに対する断罪と破門の布告を発令しました。この直接にボルシェヴィキ政権へ向けられた布告は継続中であった公会で承認されました。
ティーホン総主教はまた飢饉と戦争の時代、貧しい人々を助けるためという名目で要求された教会の聖器物供出を拒んだために逮捕され、裁判に付されました。彼は聖器物以外のあらゆる教会財産を提供し、政府が要求したものに見合った、信徒の自由意志による義捐金を集め、教会自らが困窮する人々に直接配給することを約束しました。
総主教はその戦いと裁判において妥協なく教会の権利を守る一方、政治的には中立の道を行くことを模索しました。一九二五年、彼は信仰の証し人として死に多くの人々から致命者、聖人として尊敬されています。
「生ける教会」
ティーホン総主教は「生ける教会」とも戦わねばなりませんでした。これはソヴィエト政権を熱狂的に支持する超自由主義的な聖職者たちの団体で、国家から正式なロシア教会として認められました。彼らは国家によって、ティーホン総主教に忠実な人々への対抗勢力として利用されたのです。この「改革者」のグループはいろいろな手段で、正教会の教えや実践を変更し、西方ではロシアに於ける宗教改革の担い手として称賛する人々も現れました。「生ける教会」は二〇年代後半、もはや国家に何も役に立たなくなった時点で捨て去られ消滅しました。追随者は出ず運動に参加した聖職者の内何人かはやがて痛悔し、正教会に復帰しました
ウクライナ「独立」教会
一九二一年キエフで、ウクライナに完全独立教会を形成するためウクライナ人司祭たちが公会を開催しました。主教が一人も出席しなかったこの会議で、司祭たちは彼らの指導者としてワシリー・リプキフスキーを「主教」として「叙聖」しました。以後、世界各地に広がっていった「ウクライナ独立教会」の発足です。
ギリシャ教会
二十世紀の最初の四半世紀、トルコ支配地域から多くのギリシャ人たちが流入しました。とりわけ一九二二年のギリシャ・トルコ戦争の時、コンスタンティノープル総主教区から大量の移民が、アメリカを含む世界各地に離散していきました。
一九一一年にはエウセビウス・マトポロス神父がギリシャに「ゾエ(いのち)」兄弟団を設立し、ギリシャの人々に福音の光を投げかけるために働きました。この団体は多くの学校や団体を作り、たくさんの善い事業を行いましたが、一方で多くのプロテスタント的な教えや方法、また信仰のあり方を教会内に持ち込みました。
他の諸国の教会
一九二〇年、トルコ帝国の凋落と新しいヨーロッパ秩序の形成期に生まれたセルビア正教の五つのグループが、国教として一つのセルビア正教会にまとまり、ベオグラードに総主教庁を置きました。一九二二年にはこの教会は公式的に国家から分離しました。
一九二五年に、ルーマニア正教会が設立され、総主教庁をブカレストに置きました。以来、ルーマニアの国教として今日まで続いています。
一八九八年、中近東にロシアの援助もあって、アンティオキア総主教区がアラブ人で最初の首長を立てました。
しかしエルサレム総主教区は、アラブ人司祭や一般信徒の会議が一九一一年に行われ、教会行政に関与するようになりましたが、その後もギリシャ人の首長をいただき続けました。
ポーランド正教会は一九二四年に完全独立を認められました。
一九二五年までに、チェコスロバキアにも正教徒の二つのグループができ、フィンランド正教会は一九二三年に、コンスタンティノープル総主教の指導の下で自治教会となりました。
一九二一年、西ヨーロッパ内のロシア正教会はティーホン総主教に指名されたエウロギウス・ゲオルギエフスキー府主教(1946没)に率いられることになりました。一方、コンスタンティノープル総主教は一九二二年ロンドンにギリシャ人の首長を立てました。
在外シノド
ボルシェビキ革命後、ただちに移民のロシア人グループは指導的な帝政主義者たちとともに、ロシア正教在外シノド(在外ロシア正教会)を作りました。このグループはアントニイ・クラポヴィツキイ府主教(1936没)に率いられ、最終的には独自の活動を許されたセルビア国内に本部を置きました。本部の置かれたスレムスキー・カルロヴィツィにちなんで、このグループはカルロヴィツィ・シノドとも呼ばれました。彼らは、総主教ティーホンと、コンスタンティノープル総主教によって、教会秩序の攪乱者として断罪されました。
エキュメニカル運動
一九世紀にプロテスタント諸派の中から始まった、教会合同の動きは二十世紀の最初の四半世紀に一気に加速し、一九一〇年にエジンバラで国際伝道会議の設立をみました。一九二〇年、コンスタンティノープル総主教は「いくつかのキリスト教教派の親密な関係と相互理解」を呼びかける「あらゆるキリスト教会へ向けて」という回状を公布しました。
(ホプコ神父の原著には米国の読者向けに アメリカ教会の歴史が詳しく記されていますが、翻訳では一部割愛しました)
ロシア教会
ティーホン総主教の死後、ロシア教会は最も暗い時代を迎えました。セルゲイ・ストラゴロズスキイ府主教は一九二七年から四三年まで総主教職の「代務者(deputy
locum tenens)」として働きました。この時期は、何千人もの聖職者を含む文字通り何百万という人々が投獄され流刑され殺害された、スターリンによる粛正の時代でした。一九三六年のスターリン憲法は公式に「宗教の自由と反宗教の宣伝の自由」をかかげました。何百もの教会、修道院、学校が閉鎖され、教会の活動は、わずかに奉神礼のみに制限されました。国家による教会への迫害は厳しく容赦ないものでした。
相対的自由期
第二次大戦が勃発すると教会にとっては比較的自由な日々がもたらされました。政府は戦争遂行に教会の協力が不可欠であると悟ったのです。祖国のための戦いを呼びかける代償にロシア教会は国家の側からある程度の譲歩を引き出しました。多くの教会、修道院、学校が再開されました。一九四三年の公会はセルゲイを正式に総主教に選出しました。セルゲイの死を前に教会は、諸外国の教会の代表者も出席した第二回の公会で、アレクセイ・シマンスキイ府主教をセルゲイの後継者として厳かに宣言しました。
移民ロシア人たちの分裂
一九二六年、アメリカ府主教区のプラトン府主教は「ロシア正教会在外シノド」派のメンバーたちと会談し、国外に離散したロシア正教会信徒たちへの司牧権の問題について話し合いました。このころまでに多くのロシア移民たちが渡米しアメリカ府主教区に所属し、諸条件も重なり、アメリカ教区にはロシア民族主義の機運が高まっていました。しかしながら、在外シノド派がその教区をアメリカ府主教区に及ぼそうと画策するに及んでプラトン府主教は異議を唱えました。それに対し、在外シノド派は自らをティーホン総主教の教会の継承者である真のロシア正教会と主張し、プラトン府主教と彼の教会を「停止処分」にしました。同時期、西ヨーロッパ内のロシア正教会教区のエウロギイ府主教もまた、在外シノド派の主教たちから、彼らが勝手に想定した「教区」を認めなかったかどで「停止」させられてしまいました。
モスクワの圧力
一九三〇年代、アメリカ府主教区、また西ヨーロッパ教区はモスクワからの圧力も受けました。ベニアミン・フェドシェンコフ大主教がソビエト連邦からやってきて、アメリカ府主教区にモスクワ総主教区との同盟関係を結ぶことを要求しました。その時、ソビエト政権との同盟も強硬に求めてきたという事実は、ロシアの教会が決して自由ではないことを示しており、アメリカ府主教区が母国の教会と正常な関係を持つことには絶対応じられませんでした。かくして一九三四年ロシア教会は公式にアメリカ府主教区を非合法なものと宣言し、在アメリカモスクワ総主教区を開きました。同年、プラトン府主教は永眠し、フェオフィラス・パシュコフスキイ大主教がピッツバーグでの第五回アメリカ教会公会で首座に選出されました。
アメリカ教会のその後
一九三七年、第六回アメリカ府主教区公会は、在外シノド派と「モラル」の面での関係を結びましたが、ふたたびシノド派がアメリカ教会の支配権を主張したためにこの「モラル」上の関係も破られました。
この公会はまた、ニューヨークに正教神学の大学院として聖ウラジミール神学院、ペンシルバニアのサウス・カナンの聖ティーホン修道院内に牧会教育のための聖ティーホン神学院を設立することを祝福しました。両神学院は一九三八年に開校しました。
一九四五年のクリーブランドで行われた第七回アメリカ府主教区公会は、モスクワ総主教庁と緊密な「霊的」関係をうち立てることを決議しましたが、これも、モスクワ総主教区がアメリカ府主教区にソビエト政権への忠誠を要求するにいたり破られました。