◆第19世紀◆
ロシアの霊的復興
前世紀にまかれた霊的な復興の種子はこの世紀にいたって花開きました。教会は依然として国家の支配の下で厳格な統制と検閲を受け、総主教不在のままいかなる形にせよ教会会議は開かれませんでしたが、信仰の命はこの時期のロシアの聖人たち、伝道者たち、神学者たち、著作家たちの生涯のなかで輝かしく示され続けました。
この世紀のロシアにおける最も偉大な聖人はサーロフの聖セラフィム(†1833)で、彼はロシア教会史全体を通じても、最大の聖人と称されています。聖セラフィムは二十年間完全な隠遁生活を送り祈りと斎と霊的な修養に努めました。一八二五年、彼は修屋の扉を開き、復活のハリストスと聖神の光り輝く喜びの中に、彼を訪れる信徒たちを迎え入れました。彼は常々クリスチャンの生活の目的を聖神を獲得することとして語りました。彼は一九〇三年列聖されました。
この時期のオプティナ修道院の長老たちで名高いのは、レオニード(†1841)、マカリイ(†1841)、アンブロシイ(†1891)です。アンブロシイはザドンスクの聖ティーホンとともに十九世紀最大の作家フェオドル・ドストエフスキーにインスピレーションを与え続けたと言われています。
この霊的復興の潮流の中に、修道生活と「イイススの祈り」の実践を教えた主教イグナティイ・ブリアンチャニノフ(†1867)、主教隠遁者フェオファン・ゴヴォロフ(†1894)がいます。フェオファン主教はフィロカリアのロシア語訳を含めて、厖大な霊的著作を残しました。この時期には、匿名の著者によるイイススの祈りの実践の記録「無名の巡礼者の手記(邦訳エンデルレ書店)」が現れ広く読まれました。
この世紀の後半、クロンシュタットの聖イオアン・セルギエフ神父(†1908)が活躍しました。彼は「全ロシアの牧者」とまでいわれましたが、一介の教区司祭でした。彼は厚い信仰をもって常に祈り、聖体礼儀を主宰し、教え、癒しを行い、この世紀のロシアでの聖体機密中心の信仰生活復興に大きな役割を果たしました。彼は祈りに集う教区の信徒たちに、聖体機密に与ることを強く勧めました。頻繁で日常的な領聖への準備を促し深めるためにイオアン神父は集団的な痛悔をはじめました。偉大なる慈善者、癒しの人イオアン神父は、その霊的な様々な勧告を彼の日記「ハリストスにある我が生涯」の中に残しています。
十九世紀ロシアの指導的な神学者としては、聖職者ではモスクワの府主教フィラレート(†1867)、一般信徒ではアレクセイ・コミャーコフ(†1860)があげられます。コミャーコフの著作、たとえば有名な「教会は一つ」などは、国家の検閲にかかり当初はロシアでは出版されませんでした。最も独創的で創造的な神学者たちの一人としてコミャーコフは、正教神学とその霊性の伝統的聖師父的な性格を発見した第一人者として位置づけられます。彼は「西方捕囚」(西ヨーロッパの影響の虜になることを、彼はバビロン捕囚になぞらえた)とも言うべき西欧スコラ神学の影響から決別し、正教会の伝統への正しい理解と体験にしっかり足をおいた上で、西欧の知的かつ精神的な世界に出会わねばならないと強調しました。
コミャーコフとドストエフスキーに加えて、ロシアの宗教思想家としてキレエフスキイ(†1856)、ソロヴィヨフ(†1900)、フェデロフ(†1905)、トロベツコイ兄弟(†1905,1920)があげられます。さらに大小説家レフ・トルストイ(†1913)の名もあげておかねばなりません。彼は福音を自分流に歪曲し彼自身の宗教を作り出してしまったが故に正教会から破門されました。
ロシア・その伝道活動
ロシアの十九世紀は西方と同様伝道の世紀でした。司祭マカリイ・グルカレフ(†1847)はその生涯をシベリアの諸部族への福音伝道に捧げました。ニコライ・イルミンスキイ(†1891)は神品ではありませんでしたが、彼らのために聖書と正教会の諸文書を彼らの言語に翻訳しました。カザンに設立された神学アカデミイはロシア教会の伝道活動の中心地となりました。
同様にこの時期、東京の主教ニコライ・カサーツキン(†1912)は数万の日本人を正教に導き、自国語に訳された聖書と祈祷書を持ち、多くの自国人の聖職者を擁する自治的な教会を創設しました。ニコライ主教は一九七〇年に列聖されました。(「亜使徒大主教聖ニコライ」)
アラスカの人々への献身的な愛と働きと、多くの説教活動を行ったアラスカの聖ハーマン(†1837)も、一九七〇年に列聖されました。さらにイオアン・ベニアミノフ神父(†1879)についても、ロシヤ教会の伝道活動との関係で触れて置かねばなりません。イオアン神父は十九世紀の初め妻と子と共にシベリア横断の旅をしました。彼はアリュート語に、聖書、祈祷書、彼自身が執筆した「神の国への道」という小冊子を翻訳しました。彼はスラブ文字をもとにアリュート語のアルファベットを作りました。彼は偉大な行政家であり、同時に技術者、科学者、教師、言語学者そして牧者でした。一八三九年彼はカムチャッカとアリューシャン列島の主教に叙せられ、一八六八年にはインノケンティの名でモスクワの府主教に選ばれました。インノケンティ府主教は「アリュートの光照者、アメリカの使徒」として一九七八年列聖されました。
アメリカ
十九世紀はアメリカでの正教の発展期でした。この世紀の後半、多くの古くからの正教国から、厖大な移民たちが新世界に移住しました。一八一二年、北アメリカ最初の正教会建築がカリフォルニアのフォートロスに建設されました。一八七〇年、最初のアリューシャンとアラスカの主教が指名されました。一八七二年正教伝道の中心地が非公式にシツカからサンフランシスコに移され、やがて主教ネストルによって一八七九年に正式に伝道センターが設けられました。一八九八年、ペートル大帝によって廃せられてから最初のロシア教会総主教となった大主教ティーコン・ベラヴィンがアメリカの統理主教に任命されました。彼は地域的な教会自治を求め、奉神礼用語として英語を用いることを勧告し、教会のためにその地域独自の暦を採用しました。
アメリカ合衆国最初のギリシャ正教会教区は一八六七年、ニューオリンズとルイジアナに設立されました。この教区はロシア皇帝から「ロシア正教会聖シノドの精神的な管轄区の中にギリシャ語を用いる諸教会がはじめて設立されたことへの皇帝の喜びのしるし」として教会的な位置づけが与えられました。
東方
一九世紀、東方では正教世界がトルコの支配から次第に解放されてゆきました。一八二一年蜂起したギリシャ人たちへの見せしめとしてトルコ政権はコンスタンティノープル総主教グレゴリイと五人の府主教を、復活祭当日、ファナル地区の門の上から縛り首にしました。ギリシャ独立戦争の勝利にともない、一八三三年ギリシャ教会の「完全独立(アフトケファラス)」が宣言され、一八五〇年にコンスタンティノープル総主教も承認しました。一八四四年にはハラキ島の総主教区神学校が設立されました。
また、セルビア正教会の五つの自治的な主教区とルーマニア正教会の二つの主教区がトルコ帝国支配領域外で成立しました。トルコ帝国内ではブルガリア人たちが、トルコ政府に、トルコ帝国内に住むブルガリア人独自の教会を持つことを承認させました。それまでブルガリア人たちは公式的には同じ地域の他の正教徒たちとともに、コンスタンティノープル総主教が任命した主教たちの管轄下にありました。そこで一八七二年、コンスタンティノープル、アレキサンドリア、アンティオキアの総主教は国籍・民族の違いにもとづいて教会を形成するいかなる企ても「フィレティズム」の異端であると、ブルガリア教会を破門しました。このいわゆるブルガリアン・シズム(離教)は、最終的には一九四五年、国内での活動に限定された形でブルガリア総主教区が設立され終わりました。
この世紀の後半世紀に活躍したペンタポリスの大主教アエギナの聖ネクタリオス(†1920)は、その謙遜、単純さ、清貧、そして兄弟愛に溢れた福音的な説教と生涯で有名です。
西方
この世紀、プロテスタント教会では伝道活動が拡大し、自由主義神学が唱えられました。それは歴史学的、また聖書学的「批判」(訳者注・聖書を文献学・文学類型学などの科学的方法によって見直すこと)による「歴史的イエス」の探求です。神学者たちは、キリスト教信仰は根本では感性による宗教、または道徳的行動規範の宗教であるととらえました。また「リベラリスト(自由主義者)」と「ファンダメンタリスト(原理主義者)」が真っ向から衝突したのもこの時代です。特にアメリカのファンダメンタリストたちは、聖書の記述を「科学の手引き」として文字通りに受け取ることを主張し、聖書は教会の中で理解され解釈されるべきであるという伝統的な考え方を認めませんでした。かくして西方のプロテスタント教徒は合理主義的なリベラルか、敬虔主義者か、セクト的なファンダメンタリストかという選択を迫られることになりました。
ローマ教会ではこの世紀の終わりに、教皇主義的な教会指導者たちはカトリック教会内の自由主義的傾向を「近代主義的異端」として断罪しました(公式には一九〇七年)。この傾向は、十九世紀の聖書学的「批判」や宗教史をキリスト教理解の鍵と考える批判的・合理主義的な運動に根ざしていました。
この世紀の半ば、一八五四年、教皇ピウス九世は「童貞女マリアの無原罪懐胎」の教理を公式に公布しました。一八七〇年には第一バチカン公会議がトレント公会議の諸教理を追認し、歴史上はじめて公式に「ローマ教皇の不可誤謬性の教理」を決定しました。これは、教皇がその「聖座(ex
cathedra)」から信仰・道徳上の問題について発言したときは、その決定はすべてのカトリック教徒によって守られるべきである、なぜなら、それは誤ることはあり得ない(不可誤謬)からであるというものです。このバティカンの教義は明確に、教皇の不可誤謬性は、教皇自身によるのであって「教会の同意によるものではない」と宣言されています。
ローマ教会の名高い聖人たち、ヨハネ・ヴィアネイ(1859没)、アルスのキュレ、リジュールのテレサ(1897没)らは、この時代を生きました。
東方と西方
一八四八年、教皇ピウス九世から正教会へあてた申し入れに答えて、東方の総主教たちは有名な回状のなかで、正教会の権威は会議に置かれることを明確に告白しました。全総主教が署名し、二十九人の主教たちとともにモスクワの府主教フィラレートによって完全に支持された、この一八四八年の回状は、近代の正教会史のなかで最も権威ある文書とされています。