◆第18世紀◆

十八世紀の七十三年間に、コンスタンティノープル総主教は四八回も変わりました。ある者は、別々の時期に総主教職を五度も務めました。この事態は、トルコ支配のもとでのクリスチャンの悲惨な状況を如実に示します。セルビア人の中にはオーストリヤやハンガリーに移住し、そこに彼等自身の主教区を持った者たちもいましたが、トルコ支配のもとに留まらねばならなかった者たちにとっては最悪の時代でした。
 しかし、この時代はまた、近代の最も偉大な三人の聖人を生んだことを忘れてはなりません。

聖コスマ・アイトロス

 聖コスマ・アイトロス(†1779)は近代ギリシャの最も偉大な伝道者、またギリシャ国家の父として尊敬されてきました。聖コスマは聖山アトスの修道士でしたが、トルコに隷属するギリシャ国民に福音を伝えるため聖山を下りました。彼は何も著作を残していません。しかし彼は、優れた説教者、教師であり、彼の言葉は今日に伝わっています。彼はまた数々の奇跡も行いました。最期はトルコ人の手によって殺害され致命者の栄冠を受けました。

コリンフの聖マカリオス

 コリンフの聖マカリオス(†1805)は聖コスマよりやや若年の同時代者です。彼は聖山アトスで正教会の奉神礼規定の遵守を実践しました。やがて伝道説教者となり、実際には赴任しませんでしたがコリンフの主教に選ばれました。彼は、定期的で頻繁な領聖が必要かつ本来のものであることを強調し、その多くの霊的著作のなかで、信徒にとって領聖がいかに重要かを説きました。

聖ニコデモス・ハギオリト

 聖ニコデモス・ハギオリト(†1809)は、聖コスマ、聖マカリオスと同じ精神性の下にあり、彼もまた聖山アトスの修道士で、トルコ支配下でのギリシャ正教精神性の復興をめざした指導者たちの一人です。コリンフの聖マカリオスのものも含んだ霊的な著作集を編集したことで有名ですが、最も偉大な仕事は東方正教会の精神性や修道性を伝える聖師父たちの文書を「フィロカリア」にまとめたことです。

ロシヤ・「聖宗務院」制

 十八世紀、ロシヤの正教会は極めて困難な時代を迎えました。ペートル大帝は、伝統的なツアーリのあり方を放擲し西方的な絶対君主「皇帝(インペラートル)」として一七二五年まで君臨しました。彼は教会に対し強権をふるい、教会を意のままに翻弄しました。一七〇〇年に総主教アドリアンが永眠すると、ペートルはノブゴロドの野心家の主教ステファン・ヤヴォルスキイを代務者に指名し、総主教選挙の実施を約しました。しかし約束は無視され、一七二一年、ペートルはついに「教会規定」を発令しました。これはプロテスタントの影響を強く受けたウクライナ人、主教フェオファン・プロコポヴィッチ(1738没)が起草したもので、そこで正式にモスクワ総主教座は廃止され、「神聖なる統治権を持つ宗務院」制が開始されました。
 聖宗務院は皇帝の指名する主教、司祭、俗人によって構成され、宗務院の上部機関である総監(オーベル・プロクロール)を通じて、皇帝に従属していました。聖宗務院はペートルが感嘆しうらやんだ西方のプロテスタント教会の行政組織を模したものでした。このロシヤにおける、伝統的、教会法的な正教会秩序への根本的蹂躙は、皇帝の強圧の下で、東方教会の総主教たちがやむなく裁可承認するものとなりました。この制度は一九一八年、ロシヤ教会に再び総主教が選ばれ、非正教会的な教会行政のあり方が廃止されるまで続きました。
 最初の宗務院長は、ペートル大帝に指名された、ラテン化したウクライナ人、ステファン・ヤヴォルスキイでした。宗務院組織の立案者は西方化された南ロシヤのプロテスタント的傾向の強いフェオファン・プロコヴィッチでした。
 この時代、ロシヤでもトルコ支配下でも、教会指導者たちが神学、信仰のあり方、教会行政においてラテン的または改革派的な傾向を示しカトリック化、プロテスタント化は共通の事態でした。この歴史的状況の中で、生きた正教会の伝統は失われました。正教会の指導者たちは伝統的な聖師父的、合議的な正教会の姿とは、その精神においても内容においても無縁な立場を選ぶことを余儀なくされたのです。  

ロシヤ・ペテルブルグ帝国時代

 二十世紀初頭まで続いたペテルスブルグ帝国の退廃期は、教会にとっては霊的再生の時代でした。修道者たちがまず、伝統的な正教の源泉に目覚め始めました。モルダヴィアの修道士、パイーシイ・ヴェリチコフスキー(†1794)はアトス山へ巡礼し、ロシヤに「フィロカリア」の珠玉の言葉を持ち帰りました。彼は、このフィロカリアの抜粋集を教会スラブ語に翻訳したのです。この彼の働きをきっかけに、「スターレツ」(長老)とよばれる霊的指導者の伝統がロシヤに植え付けられ、十九世紀のオプティナ修道院で見事に花開きました。
 十八世紀ロシヤ教会の最も名高い聖人は、ザドンスクの聖ティーホン(†1783)です。彼はボロネジの主教として教会行政に携わりましたが、やがて健康上の理由とおそらく激務による憔悴と抑鬱から主教職を辞し、修道的生活に帰りました。彼は聖書と金口イオアンを中心とする教会聖師父の著作に没頭しました。また、西方の最も敬虔な著作家たちの著作にも親しみ、こだわりなく自分の著作に引用しています。聖ティーホンは「真のキリスト教について」ほか多くの著作を著し、同時に霊的な指導と牧会的な助言を行った厖大な書簡を残しました。
 この世紀の指導的な聖職者はモスクワの府主教プラトン(†1812)です。彼は神学書を著し、歴史研究に携わり、旧教徒たちを正教会に復帰させるためのプラン作りに尽力しました。

アラスカ伝道

 十八世紀になって、ロシヤの伝道者たちはいよいよシベリヤを横断するようになりました。一七九四年、ロシヤ領フィンランド地区のバラーム修道院の修道士たちは、アラスカのコディヤック島に到達しました。アメリカ正教会の最初の聖人であるアラスカの聖ゲルマンはこの一行の一人でした。

西方

 十八世紀の西方は復興と伝道拡大を迎えました。イギリス教会にウェスレー兄弟(ジョンとチャールズ、1791、1788没)が現れ、メソジスト運動を展開し、この運動はアメリカにわたり「大覚醒」運動をもたらしました。「覚醒」運動はプロテスタント教会の分裂状態を終わらせることを目的としたもので、全てのプロテスタントのクリスチャンへ、唯一の人格的救い主イイススへの信仰を通じた一致が呼びかけられました。ジョナサン・エドワード(1758没)とジョージ・ウィットフィールド(1770没)がこのアメリカでの復興運動を指導しました。
 この時期一方では、ヨーロッパとアメリカで「理神論」が人気を博しました。理神論は啓蒙主義時代、ロマン主義の時代の産物で、この世を超越し、自らを啓示することも人間の歴史や出来事に関与することもない、至高の存在を「神」としました。

 イギリスのデヴィッド・ヒューム(1776没)とドイツのイマヌエル・カント(1804没)は人間の理性の領域から、神、自由、不死性を排除する哲学を展開しました。このようにしてキリスト教は、個人的信心、敬虔主義、そして道徳に縮小されてしまいました。
 この啓蒙主義哲学は十九世紀のプロテスタント自由主義神学の直接的な先駆けとなりました。この神学の父はフリードリッヒ・シュライエルマッハー(1834没)で、彼は当時の「教養ある無信仰者」たちに「感性」の宗教へと、とりわけその最も偉大な実現であるイイススの宗教へと呼びかけました。
 この時代の西方キリスト教のもっともインスピレーション溢れる達成は、バッハ(1750没)、ヘンデル(1759没)、モーツアルト(1791没)、ベートーベン(1827没)らの音楽でした。

 十八世紀、ローマ教会は精力的に拡大するとともに、ヨーロッパとアメリカで教会と国家に対する革命へ導いた啓蒙主義との大きな葛藤に直面しました。一七七三年、世俗国家からの圧力のもとで教皇によってイエズス会は圧迫されました。多くのイエズス会士がロシヤのエカテリーナU世のもとに避難しました。ちなみに彼女はフランス啓蒙主義精神の心酔者で、その在位中に約半数の修道院を閉鎖し、行政的また法律的手段で、修道院財産を没収し、教会における修道志願者の数を制限しました。