◆第16世紀◆

イワン雷帝時代のロシヤ


 十六世紀を迎え、ロシヤでは「第三のローマ」という考え方が、にわかに政治的現実性を帯びてきました。プスコフの修道士フィロテウスがモスクワ皇帝ワシリイ三世に、ダニエル書の黙示に基づいた、ロシヤ帝国が地上での最後の神の民による支配となるという考えを吹きこみました。第一のローマは異教によって滅び、第二のローマ、コンスタンティノープルは罪によって堕落し、第三のローマはモスクワが担い、第四はあり得ないというのです。
 イワン雷帝(1533-1584)はこの思想の上に自らの支配をうち立てました。彼は一五四七年ビザンティン皇帝の後継者として戴冠されました。彼は次々と容赦なく反対者たちを迫害し、教会と国家を自らの支配権のもとに置きました。彼の犠牲者たちの中に、モスクワの府主教フィリップがいます。フィリップは公の場で皇帝の狂気の行動をたしなめたため、一五六八年、皇帝の親衛隊によって扼殺されました。フィリップは聖人として列聖されています。
 一五四七年から四九年にかけて、ロシヤ教会は、国家的統合の強化を意図して、これまでそれぞれの地方で崇敬されてきた聖人たちを、正式に国民的聖人として列聖しました。一五五一年、百章会議(ストグラフ・ソボール)はさらに、ロシヤ正教会の他の東方正教会への優位を主張するに至りました。
 一五五一年カザンでのトルコ軍の撃破の後、イワンはモスクワのクレムリン内に、モスクワの「ハリストスのためにする愚者(佯狂者)ワシリイ」を記憶するワシリイ聖堂を建立しました。これは、キリスト教の伝統的な様式と東方的な様式の融合された、独特の外観で大変名高い教会建築です。
 イワン皇帝の若いころの聴罪司祭はシルベストルでした。イワンの初期の多くの改革が、この実直な司祭シルベストルの示唆によってなされたと言われます。シルベストルはドモストローイ(「家庭訓」)と呼ばれる書の成立に貢献しました。これは、ロシヤの正教家庭に、正教会の儀式や倫理的教えを、どのように実践すべきかを説いたものです。この書は大変人気を博し、代々ロシヤの正教家庭で読みつがれました。シルベストルは一五五九年、イワンによって流刑に処せられました。
 イワン雷帝の時代にはまた、モスクワの府主教マカリイ(1542-1563)が「チェーチイ・ミネーイ(月々の読み物)」という十二巻の書を編纂しました。これは、聖書の注解、聖人伝、説教、精神書などを集めた膨大な書物です。
 このころ、非所有派のマキシム・グレークがロシヤ教会の祈祷書の改訂と修正を企てたかどで捕らえられ火刑に処せられました。
 カザンの主教聖グリイは、シベリヤの諸部族に伝道活動を展開しました。

訳者補足
 ドモストローイ(家庭訓)について


「その観点はきわめて儀式主義的なものであったが、不思議と教権主義の虜となっていなかった。禁欲主義的ではあったものの、独身や修道生活よりもキリスト教的な家庭を優位に置いていた。また、…人間における罪の力は十分認識してはいたものの、人類の究極的運命に関する見方は楽観的であった。それは、神による罪の赦しと新生の現実性を信じていたからであった。『ドモストローイ』は、話し方や歩き方ばかりか笑い方までも規制する行儀作法を説いていた。しかしそれは、人間の尊厳および自由に対する深い確信から生まれたものであったため、抑圧的ではなかった」(ゼルノフ「ロシヤ正教会の歴史」日本基督教団出版局)

訳者補足
 マキシム・グレークについて


 彼は非所有派の雄弁な代表者で「異端者の迫害に反対し、キリスト教国では謬説の信奉に対して決して死刑で報いてはならないと教えた。西欧にあってはローマ・カトリックもプロテスタントも同じくらい熱心に、異端者の処刑がキリスト教的統治者の任務だと信じていた時代に、ただロシヤのみが、そのようなやり方は福音の精神と相容れないと考える影響力の強い一派を内包していたのである」(ゼルノフ、同書)

フェオドル帝治下のロシヤ

 イワンの息子フェオドル帝の時、コンスタンティノープルから総主教エレミヤU世が援助を求めてモスクワにやってきました。コンスタンティノープル総主教下の教会はオスマン・トルコ帝国の支配下にありました。そのような状況下で、一五八九年、明らかに様々な圧力をロシア側から受けて、エレミヤ総主教は最初の「全ロシヤの総主教」としてモスクワ主教のイオフを認証しました。新総主教の任命文書は、ほとんどフィロテウスの「第三のローマ・モスクワ」論の引き写しといってよいものでした。一五九三年ロシヤ教会は、エルサレム、アレキサンドリヤ、アンティオケの主教たちから総主教教会として正式に承認されました。それによって、ロシヤ教会は全正教会の内で第五位の名誉的地位を得ることになりました。

ブレスト・リトフスク「合同」

 一六世紀にはロシヤがその西方で接するポーランド・リトアニヤ王国が発展しました。一五六九年までに、ポーランドとリトアニヤはジギスムンドのもとで統一されました。王国はロシヤの領土をキエフに至るまで獲得していきました。そこでは人口の大部分が正教徒でした。ローマ・カトリックの戦闘的な修道会イエズズ会員は早くからこの地域に入り込み、ラテン的な学問や習慣を持ち込みました。その結果がブレスト・リトフスク合同でした。一五九六年、この地域の正教の主教たちは、一世紀前のフローレンスで行われた「合意」をよりどころにローマ教会と合同してしまいました。信徒たちのため、正教会の奉神礼儀式や教会習慣はそのままこの「帰一」教会に取り入れられました。しかし、教会の聖職者のあり方や神学教育の分野での指導性は、完全にラテン教会の教会規律とローマ教皇制のドグマの中に取り込まれてしまいました。一五九六年のこの合同は、ポーランド、オーストリア・ハンガリー、チョコスロバキアなど、非正教国において実質的に継続しました。
 しかしその発端から、この「帰一」運動は、根強い反対運動に直面しました。反対者は主に、正教信仰を守るために信徒兄弟団に組織され、一五八八年モスクワへの途上のコンスタンティノープル総主教エレミヤによって祝福を受けた一般信徒たちでした。この反「帰一」運動はイオアン・フェドロフの印刷機から生まれるいろいろな印刷物によって推進されました。フェドロフは、イオアン三世によってモスクワから彼の「極悪非道の発明」とともに追放された人物でした。

東方諸教会

 一六世紀の後半、東方諸教会の総主教たちは西方のプロテスタント改革者たちへの対応を余儀なくされました。総主教エレミヤU世は、彼のもとに送られてきた「アウグスブルグ信仰告白」を注意深く研究した結果、ルターの教えは異端であるとはっきり宣言しました。
 この同じ時期、聖ゲオルギイと新イオアン(1526)がイスラムの迫害により致命者として教会の聖人に列せられました。この時期ギリシャ人の聖人として、他に、ラリッサの主教聖ヴェッサリオン(†1541)とアテネの聖フィロテオス(†1589)がいます。

〔訳者補足〕「帰一教会」誕生の背景

 「十六世紀末、東方教会は特に困難な時代を経験していた。コンスタンティノポリス、バルカン半島、小アジア、エジプト、シリヤに住むキリスト教徒は、イスラム教徒によって惨めな状況に追い込まれていた。彼らには学校も印刷機もなく、一般の信徒は無学であり、司祭たちも貧しく無教養であった。東方キリスト教の内唯一自由であったロシヤ正教は、国内の数少ない教養人たちを故意に破滅させていく狂気に満ちたツアーリ(イワン雷帝)に翻弄されていた。東方の至る所に恐怖と圧制が渦巻いていた。これに対して、西方キリスト教徒は宗教改革と、対抗宗教改革(ローマ・カトリック内部のいわば刷新運動)の刺激を受け、活気と熱情と教養に満ちあふれていた。その上、正教系貴族は、自らの教会を捨てるや否や、きらびやかなポーランド社会に対等な者として受け入れられ、同時に、農民に対する更に大きな権利を獲得できたのである。これらすべてが動機となって、正教系上流階級の数は急速に減少していった。…しかし、東方キリスト教徒の大部分は、ローマへの転向の意志を示さなかった。そこで、イエズス会士らによって巧妙に編み出されたのがいわゆる「東方帰一教会」であった」(ゼルーノフ)

西方教会と宗教改革

 一六世紀西方ではプロテスタントによる宗教改革とローマカトリック教会による反宗教改革が進行していました。マルティン・ルター(1545没)、ジャン・カルヴァン(1564没)、ウルリッヒ・ツイングリ(1545没)らが、ヨーロッパ大陸で改革運動を指導しました。彼等はローマカトリック教会の公式教義上の誤りとともに、その実際の乱用を批判しました。ヘンリー八世は一五三四年の首長令によってアングリカン・チャーチ(国教会)を設立しました。またジョン・ノックス(1572没)がスコットランドにカルヴァン派の信仰をもたらしました。

 ローマ教会はトリエント公会議(1561-63)を開いて、煉獄、免償、聖体機密におけるパンとぶどう酒の実体変化など、プロテスタントたちによって攻撃され否定された教えを、公式に教義化しました。
 プロテスタントの立場は「信仰のみを通じての義化」という教義に則っていました。聖書は、神の鼓吹(インスピレーション)に基づく各信徒個人によって解釈される、教会の唯一の権威と考えられました。教会の機密的生活は洗礼と聖体機密だけに限定され、特に聖体機密は単なる記念の儀式とされ「犠牲」としての面は否定されました。トリエント公会議は、プロテスタントが共にやり玉に挙げたローマ教皇の至高権と聖職者の権威を再度強く主張しました。

西方の反宗教改革

 ローマ教会の反宗教改革はイエズス会に主導されました。イエズス会は一五三四年、ローマ教皇制を守り抜くことを目的に、イグナティウス・ロヨラ(1556没)によって設立されました。フランシスコ・ザビエル(1552没)はこの期間に極東にまで伝道したことで名高いイエズス会士です。オランダのイエズス会士ペーター・カニシウス(1597没)はドイツで反宗教改革を指導し、彼の表した公教要理は、宗教改革後のカトリシズムを代表する文書となりました。
 スペインではアヴィラのテレサ(1582没)と十字架のヨハネ(1591没)が、ローマ教会の宗教生活の改革を指導していました。
 ジェノヴァのローマ教会の主教サレスのフランシス(1576没)は霊的生活についての著作を著しました。同じ時期の教会芸術家としては、画家のティチアン(1576没)、作曲家のパレトリーナ(1594没)が有名です。

〔訳者補足〕

 宗教改革でプロテスタントが攻撃したローマ教会の煉獄と免償という教義は、正教会も同意しない教義です。
 煉獄とは、洗礼を受けた後に犯した罪の償いを十分果たし得なかったものは、死後煉獄という場所の火で清められ、天国に行くにふさわしいものとされるという教えです。
 免償は、聖人たちがの自らの罪の償い以上におこなった功績(善行や徳行によって生じる)、すなわち余功が天の金庫に保管され、その鍵を管理する教皇は、罪の償いが不十分であった罪人にその余功を与え、煉獄での火の苦しみを短縮ないし免除する権限を持つというものです。免罪符を買えば罪が赦されるというプロテスタントたちが最も攻撃した誤りは、この間違った教義を根拠としています。

 正教会では、まず、償いによる赦しという考えはなく、真剣な悔い改めが神の赦しの唯一にして十分な条件です。したがって、神の赦しを得て、神の国にふさわしくされるチャンスは、悔い改めができる生前にしかありません。
 正教会の行う死者のための祈りは、生前に罪の悔い改めが十分できなかった本来救いようのない罪人でも、もし私たちが愛をもって熱切に祈るなら、愛の神である神は、その愛の溢れとして、特別に赦して下さらないはずはないという確信の中で祈られる、「愛の祈り」です。祈ったから、それを「罪人の代わりにする償いの行為」(ローマ教会の理解)として、その功を認めて赦して下さいというものではありません。