◆第13世紀◆

第四回十字軍

 一三世紀は第四回十字軍によって幕を開けました。歴史家たちは、この出来事によって東西教会の分離が最終的に固定化されてしてしまったと考えています。一二〇四年、十字軍はコンスタンティノープルを略奪しました。彼らは多くの教会を破壊し略奪し、宝座を汚し、聖器物を盗みました。ラテン人トマス・モロシーニがコンスタンティノープルの総主教にと、また一人のフランク人が皇帝にでっち上げられました。この時を境に、ギリシャの人々の心に、ラテン西方は、公然の敵として刻み込まれました。教皇制とラテン教会を敵と見なす多くの著作が書かれました。一二六一年、ミカエル・パレオロゴスが奪回するまで、ラテン人のコンスタンティノープル支配(訳注・ラテン帝国)は続きました。

リヨン公会

 ミカエル八世は、東方をトルコ勢力に攻撃され、またラテン西方から再侵略を受けないとも限らない状態のもとで、耐え難い苦境に陥っていました。そこで彼はたんに政治的な理由から、一二七四年、リヨンで行われた西方教会の公会議に主教たちの使節団を派遣しました。苦境への同情を誘い、崩壊寸前の帝国のための軍事的経済的援助を引き出そうというのが皇帝のねらいでした。
 西方側は、ミカエルの使節団に、その後、教会一致が議論されるときいつも持ち出される古典的な条件を提示しました。それは次のようなものでした。まず東方教会はその伝統的奉神礼式の継続を認められること、次にフィリオケの信経への付加は、その教義が異端として否定されない限り、随意(付け加えても付け加えなくてもよい)とすること、そしてローマ教皇を最高権威者として認めること。
 ミカエルの使節団はリヨン公会で、西側が彼らに求めた以上に迎合しました。彼らは公式に教皇権とフィリオケについてのローマ側の教義を受け入れたのです。ミカエルが望んでいた平和と西方からの援助は彼の死(1282)まで続きました。ミカエルの死後ただちにリヨン合同は東方の主教たちによって破棄され、皇帝は教会での葬儀儀式を受けられないまま埋葬されました。

セルビヤ

 一二一七年、サヴァはセルビヤ人たちのための独立教会を祝福してもらうために、ニケヤ(訳注・ビザンティン帝国はラテン帝国のコンスタンティノープル乗っ取りの間、対岸のニケヤに避難し亡命政府を維持し、帝国の再建に着手していた)に赴きました。一二一九年、サヴァ自身が、皇后テオドーレの臨席のもと、コンスタンティノープル総主教マニュエルによって、最初の「セルビヤの地の大主教」に叙聖されました。一二二〇年の昇天祭の日、新たに叙された大主教サヴァはジチャの修道院にセルビヤの人々を集め、彼の兄ステファンを「全セルビヤの地の最初の王」として戴冠しました。
 サヴァは、めざましい指導力を発揮し、多くの重大な試練や困難をくぐり抜け、またセルビヤ教会のためにキリスト教東方地域をくまなく旅し、ついに一二三五年二月一四日永眠しました。サヴァの大主教職はアルセニオスによって引き継がれました。彼はサヴァ自身が主教職にまで引き上げた人物でした。セルビヤ正教会の設立者でありかつ父、そして正教会の歴史の中でも真に秀でた人物の一人である大主教サヴァは、その父シメオン(ネマニャ)、その兄で最初に戴冠された王ステファン、その後継者アルセニオスらとともに、聖人の列に加えられています。

ブルガリヤ
 一三世紀に、教会指導者としてトゥルノボの大主教を承認することにより、ブルガリヤ教会は再建されました。

ロシヤ


 十三世紀のロシヤはモンゴルに支配されていました。一二三七年、チンギス汗の孫バツー汗が四十万の騎兵を引き連れてロシヤに侵入し徹底的に国土を蹂躙したときから、タタールのくびきがロシヤにかけられました。キエフ公国は一二四〇年に崩壊しました。

 一二三一年アレキサンドル・ネフスキーがノブゴロドの大公になりました。この北方の都市共和国は、その独特の共和政体で知られていますが特に、独自の霊性の、また建築の、またイコンの伝統でも有名です。一二四〇年アレキサンドルはロシヤ軍を率いて、ローマ・カトリック勢力のスウェーデン軍を打ち破りました。一二四二年には、再びロシヤの人民を率いて、ロシヤの地を侵略してきたチュートン騎士団に勝利しました。その時、アレキサンドルはバツー汗の司令長官のもとに赴き、タタールのくびきのもとにあるロシヤの人民のために憐れみを乞いました。アレキサンドルは、バツー汗に彼らとの和平のために貢ぎ物を差し出すことに合意し、モンゴル帝国奥地への三年間の更なる旅の後キエフの大公という称号をもらってモンゴルから帰還しました。彼は一二六三年四二才で永眠しました。一三八〇年、教会は彼を、その人格的聖性と武人としての勇気、そして実際的問題への知恵と外交を讃えて、聖人の列に加えました。彼は、真のキリスト教的君主として、私心なくその人民のために奉仕しました。
 アレキサンドルの息子ダニエルは、タタールのくびきを越えて北方へ向かいモスクワに行き、一二六三年からその世紀の終わりに永眠するまでその地の君主として働きました。当時のすぐれた聖職者のなかには、モスクワに避難していたキエフの府主教、聖キリル(1242-1281)と聖ペートルがいます。

訳注:府主教キリール 
 「キリールはロシヤ人だった。コンスタンティノープル総主教は、荒れ果てたロシヤに進んで赴こうとするギリシャ人高位聖職者を見つけだせなかったからである。三九年間にわたり、この不屈の男は国中を旅して、ちりぢりになった信徒たちを慰めかつ教導し、司祭の叙聖を行い、また教会の再建に努めた。モンゴル人はあらゆる宗教の教職者にたいして敬意を払ったが、ロシヤの聖職者や府主教を遇するときも同様だった。聖職者は被征服民族中唯一課税を免れた階層であった。しかも、どんなタタール人であれ彼らに暴行を加えるならば、それは死刑によって罰せられた。これらの特権は、キリールのごとき能力と忍耐力を持つ者たちに、建設的な仕事を行う多大な可能性を付与した」。
   (ゼルーノフ「ロシヤ正教会の歴史」)

西方

 一三世紀は西方教会の「最も偉大な世紀」と呼ばれます。イノセント三世は教皇権の威信と権力を高めました。一二一五年の第四回ラテラノ公会は西方教会の公式な諸教義を決定しました。アッシジのフランシスコ(†1226)は、フランシスコ修道会を設立しました。その最初の重要なメンバーとしてはパドアのアントニイ(†1231)、神学者ボナヴェントラ(†1274)、ドゥンス・スコトゥス(†1308)がいます。スペイン人のドミニコはドミニコ修道会を設立しました。ドミニコ会のメンバーには、重要な神学者アルベルトゥス・マグヌス(†1280)と、ドミニコの有名な弟子トマス・アクィナス(†1274)がいます。トマスがその理論的な大著「神学大全」で展開した神学は、二十世紀の半ばに行われた第二バチカン公会議まで、ローマ・カトリック教会の公式神学として尊重されました。神秘神学者のマイスター・エックハルト(†1339)もまたドミニコ会のメンバーでした。カルメル修道会は、たくさんの宗教的な小さなグループの一つとして、この時代から活動を始めました。