◆第12世紀◆


概観

・十二世紀、コンスタンティノープルのコムネノス朝は、西方からの十字軍勢力と東方からのイスラム・トルコの侵入と戦い続けなければなりませんでした。

・皇帝アレクシウス・コムネノスは正教修道の中心地としてアトス山を正式に認めました。

・エウティミオス・ジガベノスは教会の公式的定理のハンドブック「教義の鎧(Dogmatic Panoply)」を著しました。この時代の帝国内には、神学へのほんものの関心があったにもかかわらず、東方教会における実際の神学的な成果は、伝統的な教義の繰り返しと整理に限られていました。

・十二世紀には美術と建築が進歩し、ビザンティン文化の古典として名高い、アテネに近いホシオス・ルカス修道院とダフニ修道院の、教会建築とモザイクを生み出しました。
・ロシヤではロシヤイコンの父と呼ばれるペチェルスクの克肖者聖アリピイ(†1114)が活躍しました。ノブゴロド、ウラジミール、スズダリ、プスコフなどに残されている建築やイコンの最も優れたものの幾つかがこの時代に制作されました。

キエフ朝ロシヤ

 キエフ朝のもとで、キリスト教は拡大し発展し続けてゆきました。一一二四年のキエフの火事では六百もの教会の建物が被害を受けたと記録されています。これは、ヨーロッパ、ビザンティン文化への窓口、また交易の窓口として、この国際都市がどれほど繁栄したかを示すものです。
 この世紀のはじめ、ウラジミール・モノマーフ公(†1125)は彼の息子たちをキリスト教的な指導者に育てるために有名な「子らへの教訓」を書きました。キエフのキリスト教界にはビザンティンの影響は依然として強く残っていました。たくさんのキエフ朝初期の聖人たちの生涯が記録された「ロシヤ原初年代記」が洞窟修道院の修道士ネストルによって編集されたと言われています。

セルビヤ

 セルビヤは、指導者ステファン・ネマニャ(明治訳「ネーマン」、1113-1199)の努力によって、ビザンチン皇帝から国家として認められました。ネマニャの子、ラスコはサヴァの名によって修道士になり、アトス山へ入っりました。彼はセルビヤの人々を導く使命を負う偉大な聖人となりました。サヴァはついに、彼の父をアトス山に連れてゆきました。ネマニャは修屋でシメオンの名で生涯を終えました。彼はその不朽体から膏油を出し多くの病人を癒したことで有名で「膏油を出せし者(Myrrh-flowing)克肖者聖シメオン」として聖人に列せられました。ビザンティン皇帝アンゲロスはアトス山にこの父子のためにヒランダリ修道院を与え、今日に至るまでセルビヤ教会の修道院として存続しています。

西方

 教皇権の集中化と世俗的権力への勝利のもとで、十二世紀の西方ではフーゴとサン・ヴィクトルのリシャールに指導される、アウグスティヌス神学のヴィクトル学派が生まれました。このころ、ペトルス・ロンバルドゥスは「命題集」を書き大きな影響を与えました。また大衆には、霊的熱狂と二元論的な運動であるワルド派やアルビ派(カタリ派)が大きな衝撃を与えていました。