「金口イオアン聖体礼儀勉強会」


2月3日第3回「ぱんだね」勉強会 「金口イオアンの聖体礼儀」その2

1:テキスト:「奉事経」第一アンティフォン祝文〜第二アンティフォン祝文
2:参加者:7名
3:報告

 じめに

  1、今回の勉強会では、各祝文のうち、特に重要な語句のギリシャ語の意味に注目した。
  2、各祝文の原文は旧漢字、片カナである。
  3、[ ]内はギリシャ語。
      ギリシャ語の意味は『ギリシア語新約聖書釈義辞典』(全三巻)教文館を参考にした。

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(1)アンティフォンについて

アンティフォンは日本正教会では「倡和詞」と訳され、
詠隊が左右に分かれて交互に掛け合いながら
歌うのが本来の形式である。
この歌い方はユダヤ教起源のもので、キリスト教会でも
かなり古い時代から用いられていたといわれる。(注1) 
現在の聖体礼儀では第一、第二、第三アンティフォンまであり、
主日と祭日では異なる。(注2)

現在の形の聖体礼儀が確立したのは11世紀ごろといわれるが、(注3)
それまでの間、聖体礼儀の開始はトロパリや
聖なる神を歌う入堂のときからであった。
ここにビザンティンではかなり頻繁に行われた
市中行列という別の儀式が、聖体礼儀に付け加えられて
アンティフォンになったと考えられる。

当時、コンスタンティノープルは、街全体がひとつの教会として考えられ、
例えばある聖人の祭日には、
皇帝や総主教がハギアソフィアに集まった後
その名を冠した教会まで歌いながら行進し、皇帝と総主教に導かれて、
会衆も共に入堂して聖体礼儀が行われたのである。

これらの詠唱はイコノクラスム終焉後に始まり、
聖体礼儀の一部分となるのは10世紀頃からであるが、
12世紀頃から会衆が先に聖堂に入り、総主教を迎える形式となる。(注4)

シュメーマンは、この聖体礼儀の最初の部分を
「教会に集まり」、「神の国へ入っていく」という機密として
この世から神の国へ向かう行進ととらえている。(注5)

次に祝文を読む順序について、
本来の形式と現行の違いを下記の通りまとめる。

<1>現在の形式
輔祭(司祭):大連祷
司祭:「蓋し凡そ光栄尊貴伏拝は
爾父と子と聖神に帰す、今も何時も世々に」
詠隊:「アミン」
詠隊:「第一アンティフォン」、司祭:祝文(黙唱)
輔祭(司祭):小連祷
司祭:高声「蓋し凡そ光栄尊貴伏拝は・・・」
詠隊:「アミン」

<2>本来の形式
輔祭:大連祷、司祭:祝文
司祭:高声「蓋凡そ光栄尊貴伏拝は・・・」
詠隊:「アミン」
詠隊:「第一アンティフォン」

現在は司祭が祝文を黙唱するが、5、6世紀までは読み上げていた。
実際に司祭一人で聖体礼儀を行う場合は、時間的に第一唱和詞のときに
祝文を読むしかなくなるので、順序としては
<1>のように逆転することになるが、
ギリシャ、ロシアの祈祷書では<2>のように記載されている。
日本の『奉事経』では、「聖金口イオアンの聖体礼儀」は<1>
「聖大ワシリイの聖体礼儀」は<2>の順となっている。(注6)

すなわち、輔祭によって「主に祈らん」と導かれ、
司祭が「祝文」を読み上げ、会衆が「アミン」と答えたものに
連祷が重ねられたのが本来の形式で(注7)
高声は祝文の最後の部分となり、大連祷や小連祷の結びではない。

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(注1)Egon Wellesz,History of Byzantine Himn and Music
(注2)主日の場合
 第一アンティフォン=第102聖詠
 第二アンティフォン=第145聖詠(日本では歌われていない場合もある)
 (神の独生の子)
 第三アンティフォン=真福九端(マタイ)
(注3)(注1)に同じ
(注4)Wybrew,The Orthodox Liturgy
(注5)Schmemann,Eucharist
(注6)『奉事経』P110,P217
(注7)Hugh Wybrew,The Orthodox Liturgy

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(2)「第一アンティフォン祝文」(原文は旧漢字、片カナ)

主我が神や、爾の権柄は象り難く、光栄は測り難し、
爾の仁慈は限り無く、仁愛は言ひ難し、
求む主宰や、爾の慈憐に因りて、親ら我等と此の聖堂とを眷み、
我等及び我等と偕に祷る者に爾の豊なる恩沢と爾の愛憐とを施し給へ、

<要約>
(祝文:司祭黙唱)
我等に爾の豊なる恩澤(エレイ)と爾の愛憐(イクティルムス)とを施してください。
(司祭高声)なぜなら,光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に属するから。
(信者)アミン(まさしく,光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に属します)。

1、権柄(クラトス)支配、権力、力、活動、勢い
神の力、大能、強さについて使われる。
新約ではこの言葉が人間について語られていることはなく、
神に固有な概念として、神がこの世に対する力という
意味をもつ。

2、光栄(ドクサ)威信、栄誉、誉れ、輝き、栄光、栄華、華やかさ
この言葉は聖書以外と聖書に出てくる古典ギリシャ語で
意味が大きく異なっている。
すなわち、聖書以外で一番よく出る意味は、
人が考えた思惑=意見、見解であり、反対に新約にこの意味はない。
この意味の違いが成立した理由としては、
70人訳がヘブライ語[kabod]の訳語として[doxa]をあてたことによる。
すなわち、[kabod]は一人の人間、特に王のもつ威信や栄誉の重さを意味し、
この意味が70人訳の時[doxa]に付け加えられたためである。

3、仁慈(エレオス=中性単数主格形)
4、慈憐(エフスプランクニーアン=女性単数対格形)
5、恩澤(エレイ=中性複数対格形)
(3,4,5は同じ単語で、5は前に「豊かなる」という形容詞が関せられている。)

同情、憐れみ、慈しみ、慈悲深さ
害悪を蒙っている人を前にした時の感情、
およびその感情から生まれる行為を指す。
このような世俗的な意味が聖書に入ったことに注目したい。
共観福音書では、動詞[eleeis]<同情する><同情して助ける>
<憐れむ>が、単なる感情ではなく、行為を伝える記事において
使われる例が見られるが、その場合には神の憐れみが、
人間の悲惨さの領域にまで入り込んできたことが示唆される。(マコ5:19)

6、仁愛(フィラントリピア)人類愛、博愛、友好的な態度、親切
本来は神的存在の側からの人間に対する友好的な態度を示していた。
4世紀以降、次第に人間同士の関係を指すようになる。

7、爾の権柄は象り難く、光栄は測り難し、爾の仁慈は限り無く、仁愛は言ひ難し、
このように否定形でそのものの本質に近づいていく表現は、
否定神学的な言い方といえる。

8、愛憐[oiktirmos]憐れみ、同情
心からの憐れみ

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(3)「第二アンティフォン祝文」

主我が神や、爾の民を救ひ、及び爾の嗣業に福を降し、
爾が教会の充満を守り、爾が堂の美なるを愛する者を聖にせよ、
爾が神聖の力を以て彼等を光栄し、我等爾を恃む者を遺す勿れ、

<要約>
(祝文:司祭黙唱)教会の充満を守り,爾が堂の美なるを愛する者を聖にせよ。
(司祭高声)なぜなら,光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に属するから。
(信者)アミン(まさしく,光栄尊貴伏拝は爾父と子と聖神に属します)。

1、嗣業(クリロノミアン)遺産、相続、財産、継ぐべき御国
旧約聖書に現れる約束された遺産、すなわち神の国、
を現す語として、 世俗ギリシャ語の相続優先権を意味する語ををあてた。

2、充満(プレローマ)充満、満たすこと、成就、完成

3、堂の美なるを→美なる(エフプレーピアン)見栄え、品位、麗しさ
直接的に聖堂を美しくするという意味とともに、
キリスト者にふさわしい品位ある歩み(ロマ13:13)において、
信者は「主イイスス・ハリストス」の働きを示さなければならない
(同13:14)ことも示している。

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以上