クロンウェシタトのイオアン神父
イオアン神父の教会及び聖務者についての言葉
神の教会とは,永遠に破られざる光栄なる神の家であ
る。教会とは地獄の門にて汚されざる真理の柱およぴそ
の固めである。教会の奉神礼は神の家としての教会の姿
である。教会は建築技師イイスス・ハリストスの奇異に
して,叡智なる建物である。聖人はこの建物の霊的住人
である。痛悔と救いの方法は一切この中に備わっている。
総ての理解,総ての救いの言葉,総ての熱心,総ての方法
総ての実験はそのなかに納められている。教会の内にわ
れらは改悔と救いとを学ぶことができるのである。
教会は神と人との具体的結合の場である。地上におけ
る神の国である。教会は人々に人間の出生,価値及び陥
罪によって大いなる不幸を招来したことを指示しつつ,
毎日数え清めつつ救しょくを準備している。教会に行か
れよ,このことを実地に体験することができるであろう。
世の中にあってわれわれは罪の中に死につつある。教
会にあっては改悔によって生かされつつある。世にあっ
ては悲しみ,悶え,病みわづらう。教会においては癒さ
れ慰められ,元気を与えられる。
世にあっては欲の暗やみを歩みつつ,何をなし,何処
に行くべきかを知らない,何となればその日(心の)は
罪のためにくらまされているからである。教会において
は心の日は輝かされて,明らかに光を見ることができる。
世においてわれわれの心身は無力に陥る。教会において
は心身の健康を得る。教会から赦しと命と力と聖と,正
義と光と慰安と霊の勇気と喜びとが発出する。地上の教
会においてかくも豊かな天上の福楽を賜う神に光栄と感
謝とを奉る。
教会において赦罪の機密が行われる。そこで霊の汚れ
は清められて,神と和合し,真実の霊的命が得られる。
主はそこで幾度か私に罪の清めを賜わられた。教会なく
して私に神の賜を楽しむことはできない。命の賜,平和
と喜びの賜,物質の幸福は皆そこにある。神の子イイス
スよ,光栄は汝に帰す。汝はわが罪の清め,正しく言え
ばわがことに非ずして全世界の罪のきよめであられる。
以上が教会についてのイオアン神父の教の一節なのであ
る。次に聖務者について1907年(死の前年)神父は司祭
に対して言われた。「現代の信仰と道徳風習の堕落は牧
場に対する牧者,概して聖務者の冷淡に関係する。主は
主教,司祭の行為,かれらの聖務,牧者としての活動を
見ておられる。主は聖務者が熱誠を欠き,不真面目であ
ることを警戒しつつ真剣に勤め働くことを要請されてお
られる。
司祭の勤めは仲保すること,機密の執行,霊的治理,
聖成することにある。司祭は人を地より天にまで昇らせ
る。司祭が聖体機密を行う時に主ハリストス御自らは至
聖なる休血を以て司祭と本質的に体合される。またこの
機密により人々を神と結ばしめて,神と人との仲保者と
なる。また神父は「ハリストスにおけるわが生活」の書
中に司祭について述べておられる。司祭。何と至高なる
顔であるか.かれの言葉は常に主と共にある。神父は常
に主のことばにおいて答えられている。何を求め,何を
祈るにもその言葉は主と共にあって,そしてその答えは
また主御自らなされるのである。司祭の心の中に知らず
して欲念を蔵する時に,いかに不潔にして下等なるかな,
司祭の心中には常にイイスス・ハリストスがおらねばな
らない司祭は天使であって,常人ではない,総てのこの
世の生活は自分から遠ざけねばならない。主イイススよ
汝の司祭は義を着。自分の高い使命を常に思い,この世
の悪魔とのつなに捕えられず,自分の心中よりこの世の
悲しみ,へつらい,富など心中に湧き来る欲念を避けね
ばならない。
王の司祭は悲しむ信者の誤った悲しみを信の慰めを以
て慰め,人間の思想によって幸福なりとする誤った喜び
を正し,死後における大いなる幸福を理解せしめ,永遠
の不幸より救わねばならない。司祭は実に人類の親友で
ある。慰安の天使であり,聖神慰めるものの機関である。
神言はいう「神(しん)をけすなかれ」この言葉は総
ての信者,特に司祭と子供教育者の常に記憶すべき言葉
である。神と人とに対する高尚な勤めに自分の心の熱が
必要である。信仰と愛と努力と熱と,うまざる力を以て
自分の仕事を行ない,どんなに小さなつまらないと思わ
れることでも怠け,冷淡にかえて,努力と熱を以てしな
い時には必ず何の効果もあがらないのである。自分に託
された牧群の慮りへの回答は主の前にあるのである。
(終わり)
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