クロンウェシタトのイオアン神父


     神父の奇跡と病者平癒について

 神父の祈りによって病者の癒されたことと,奇跡の数
では全霜でよく知られたものとして,スールスキイ氏著
「ク港のイオアン神父」という本があり,その中で300
件以上の事実が記されているが,ここには紙面がないの
で転載することができない,この著者の妻が医者に見離
されていたのを神父の祈りによって癒された経験を持っ
ていること,この書が印刷されて発表されると,各地方
に散在している露人より,病者の平癒,奇跡などに閑し
た234通の手紙を受け取ることとなったという。そして
その何れもが神父の祈りと,各人の深い信仰に由来しな
いものはないと記してある。以下少しこうした事実の主
なものを記して見る。

(1)あるユダヤ人が重病で苦しんでいた。医術ではど
うしようもなかった時,同居していた正教徒の婦人が神
父にあらかじめユダヤ人の病者であることを告げて,平
癒の祈りを依頼した。神父はただちに返事を出されて「ユ
ダヤ人もわれらも神様は同じである。行って病者と共に
祈りましょう」と言ってやって来られて,神父は病者と
共に祈り始められたが,その声は大きく,いちいち力が
こもっていた。神父の祈りは病者に非常に大きな印象を
与え,その時より病は回復に向かい,間もなく全快した。
この時よりこのユダヤ人は正教の熱心な信者となった。

(2)ペテルブルグの城下である金持ちが自分の領地で
教会堂の御祭りをして,神父を招いて盛大な宴会を催し
た。この時の来客中には多くの不信者がいた。
 この地に数年問てんかんを患った娘を持った一人の貧
しい婦人がいた。イオアン神父のおいでになることを聞
いて,かの女は誰が何を言おうと,止めようと聞かない
で,断然娘を携えて神父の祝福を受けようと決心して,
非常に困難であったが,遂に娘を神父のおられる会場ま
で連れて釆た。神父は病娘に目を止め,直ちに席を立っ
て娘のもとに行かれた。
 すると病者は強く打たれたように地に倒れて,人間の
声でないような異様な叫び声をあげるのであった。
 不信者の客のささやきが聞こえる「さあ悪魔追放の喜
劇でも始まるのかね」との嘲声,神父は病者に近づき,
かの女の頑に手を載せ,静かに言われた「父と子と聖神
の御名によりて,健かになるべし」と。病人は数回異様
な叫び声をあげて,静かになった。数分の後神父は娘の
手を取って,自分の食卓の所に連れて来て食べるものを
あたえられた。母は感謝と喜びに溢れて娘の手を引いて
帰って行った。それ以来再びてんかんは起こらなかった。
 不信の知識階級の御客さん達は驚いて嘲笑することを
止めるのであった。

(3)ある夫婦は結婚して長く子供ができないので,医
師にみてもらったところ,不妊症だから子供ができない
のは当然だと言われた。しかしどうしても子供が欲しい
ので,イオアン神父のもとに「子供の賜るように祈って
下さい」との手紙を書いた。神父から間もなく返事が来
た。「固く信じて神様に祈りなさい,必ず息子を賜るか
らイオアン」と記してあった。果たしてこの夫婦にただ
独りの男の子が生まれて健全に育った。

(4)1895年5才になる男の子がヂフチリヤにかかった。
この当時ロシヤにはまだ血清が無かったので医師はなお
る望みはないと言った。そこで母は早速イオアン神父に
電報をうち「子供のために祈られたい,まさに死せんと
す」と電報をうったのは夕方であった。
 夜分になると子供の意識が回復し,寝台のそばに母の
いるのに気がついて,「お母さん,私の所に神父が釆て
私に十字架をかいて,泣かないように」と言われました。
翌朝,医者がやって来て,子供のようすを見て驚いて言
われた「これはまことに奇跡です」と。

(5)1884年7月,一人の将校がある葬式に参列し帽子
をかぶらないで,墓までおくった。この日は非常に暑か
った。将校は家に帰るとその晩に倒れて,人事不省にな
ってしまった。医者がいろいろ手を早くしてみたけれど
も,どうにも良くならない,そこでこの妻はペトログラ
ドにいる自分の姉に電報でイオアン神父の所に行って,
祈祷をしてもらうように頼んだ,姉は直ぐイオアン神父
のもとに電報を携えて行くと,神父はその電報の名を見
て「ペートル,ああ,これは良い人です」と言って祈祷
を始められた。それがちょうど4時であった,その日そ
の時から倒れた将校は回復し始め,1週間後には全快し
たのであった。永遠の記憶のかわりにかれの心の中には
永遠の命がわきあがったのである。

(6)1945年8月ある家族は撤退しなければならなくな
り,その家族には大きな子供が4人と小さい子供が2人
いた。臨時の交通機関でエリバ川まで行ったのであった
が,その川には橋がなく親子8人は川岸でもう進退きわ
まったと思って,落胆してそこに集まっていた。日は暮
れてくるし,夜の静寂は心にしみわたって,父はたまり
かねて神に祈り始めると共にイオアン神父の名を呼んで
祈りの助けを熱願されるのであった。
 祈りを終わってしばらくすると子供が小船が見えると
叫び出し,一同は「助けて下さい」と小船に向かって叫
ぶのであった。やがて小船は近ずいてきたが,見ると2
人の人が乗っており,この家族の嘆願は入れられてその
夜の2時に再びかれらがやって釆て川を渡してくれたの
であった。それからは徒歩で行かねばならなかったが,
村の人達は同情と援助を与えてくれるのであった。ただ
ある村だけがかれらを泊めてくれる家がなくて,因って
いると,全く見知らない英国人がやって釆て,自動車に
乗せて隣村まで送ってくれたのであった。

(7)ある村の小学校の先生が自分の兄弟の妻の妹と恋
仲になった。教会の規則ではこの2人の結婚は許されな
い。そこでこの先生は2人でシベリヤにかけおちし,そ
こで夫婦になろうと決心した。そのことをイオアン神父
に手紙で知らせると,神父から間もなく返事が釆た「シ
ベリヤに行きなさい」と,そして100ループリの金が入
れてあった。しかしこの100ループリではただ1人の汽
車賃でしかない。そこでかれは先ず自分1人だけで先に
行き,働いて金を得たあとでかの女を呼ぶということに
して旅だった。シベリヤに落付いてから,この先生は別
の娘にあって,結婚し辛福な生活をうちたてたのであっ
た。神父の祈りによる神の聖旨は別であったのである。

(8)1人の母が産後の病気で床につき,ついに絶望と
なってしまったので,親戚に電報をうった。皆が集まっ
て釆たが,病人の妖がやって来ると,すぐ「イオアン神
父に電報をうったのか」と問う,まだだと聞くや直ぐ自
分で電報をうつためにでかけ「死にかかっているアレキ
サンドラのため祈りたのむ」と打電したのであった。こ
れは夕方のことであったが,病人は高熱でうわどとを言
うようなことであった。それが段々静かになって顔色が
青ざめて,動かなくなった。取りかこんでいる人達はも
う終わって,死んでしまったと思った。
 夜が過ぎ,朝が釆た。そこへイオアン神父からの返電
が釆た。「祈っているイオアン」と。電報を受けとって
数分たっと,病人が目を覚まし「お茶をください」と言
い,皆驚き喜ぶのであった。数日を経て全快したのであ
ったが,ただ医者だけはどうしてなおってしまったのか
理解することができなかった。

(9)クロンウェシタツトのイオアン神父の著者スール
スキイは自分の体験として次のようにのべている。1936
年私は神経分裂症にかかった。医者は精神病者として,
サナトリウムに送ったのである。そこで私は何を言い,
何をしたのか全然知らない。その年6月29日払の母は神
父を連れてサナトリウムにやって釆た。
 私の子供が缶詰の缶で怪我をしたことから,私に話か
けながら,ついに私が膝をかがめ祈ることまでに成功し
た。そこには神父と母と私と3人であったが,神父は私
の頑に聖イオアサトベルゴロウスキイの不朽体のついて
いる覆いと,イオアン神父から贈られたハンカチを載せ
て祈られた。祈祷の後に私は叫んだ「暗い愚かなものが
私をおいて,去った」と。しかしその日はどのようにし
て過ごしたのか記憶がない。
 夜になって私の胸に右のようなものがあって,どうし
ても取り除くことができなかった。私は神父の読まれた
祈祷の言ばを想い起こして,祈り始めた。朝になってこ
の右のようなものが私から取られ,私は初めてせいせい
し,頭もはっきりして来て私が病院にいることに気がつ
いた。私は庭に出ようとしたが,私の付き添いは私にそ
れを許さないばかしか,直ちに私が自由になれないよう
な上衣を私に着せるのであった。巡回の医者がやって釆
て私が静かにしているようすを見て,私にいろいろ話し
かけてきた。私はいちいちそれに正確に答えた。そこで
医者は私から上衣を脱がせるように言われるのであった。
私は健康を回復したのである。
 このはか私には危険な心臓の動き(どうき)があった。
また足の具合も悪いのであったが,それもよくなったの
である。
 イオアサト聖人とイオアン神父とは私を救ってくれた
のである。毎年6月30日に私は主神全能者に感謝の祈り
を捧げ,また毎日イオアサトとイオアン神父の祈祷によ
って,私が神のみ旨を行ない,神の光栄を現すことので
きるよう祈っております。

(10)1947年8月,1人の熱心な信仰を持っていた家族
の主婦が突然心臓まひで倒れた。招かれた医者は手当て
をして,1時間後には良くなるでしょうと言って帰ったく
この時間を経過したが良くなるどころではなく,益々悪
化し,死の迫るのを感じさせられた。
 そこで病人はイオアン神父に心を向けて祈祷を切に願
うのであった。そしてイオアン神父より贈られた写真を
心臓の上にのせて熱心に祈るのであった。15分ばかりす
ると良くなり始め,ついに全快の喜びを得,それ以来常
にイオアン神父の代救を求めながらこの世をおくったの
である。

(11)1人の大金持ちのユダヤ人の1人娘が,重病の床
に臥し,あらゆる専門医にかかったが,生きられないこ
とが決定的となった。父はユダヤ人の博士に「何とか娘
を助ける方法はないものか」と嘆願するのであった。
 医者は笑いながら「今評判のイオアン神父にでも頼ん
でみたらどうだね」と言った。この言葉は父の心を捕ら
えた。父はイオアン神父に娘平癒,懇願の電報をうった。
 神父は電報を受け取り,次の祈りをもって神に願うの
であった。「主よ汝はわが汝をいかに信ずるかを知り給
う。病者の癒されることはわが名誉に非ずして,汝の光
栄のため,傲慢な嘲笑者をくじくため,他の人々を汝に
向かわせるがためである」と。病娘は癒された。そこで
全家族は熱心な正教徒となった。

(12)熱い恋仲の若い男女が,イオアン神父の所に相談に
やって釆た。かれらは互いに愛し合っていたが,その両
親が同意しない。そこでこうした事情を神父に話してそ
の苦しい心を解いてもらいたいと思った。
 神父はこの2人の結婚に祝福され「家に帰っても従来
通り相愛しなさい。そうして両親に私があなた方の結婚
に祝福されたと言いなさい」と。この時人が入って釆て
小さい書留小荷物を神父に手渡した。それは伯爵夫人
からのものであった。神父はこの小荷物を手にして言う
のであった。「さあ,お帰りなさいこれはあなた方の新
生活に対する私からの贈り物です」と。この小包みの中
には莫大なものが入っていた。両親は神父の祝福と聞い
て2人の結婚を承諾したのであった。

(13)若い婦人が子宮内膜炎と顔面および右の手足まひ
という病にかかった。モスコウから専門の博士を呼んで
診てもらったが,どうにもならなかった。死期が迫って
きたので親戚に電報をうった。病人の伯父さんがやって
来て,病人の絶望的な状態を見ると,イオアン神父のも
とに打電する決心をした。しかしほかの親戚は最早遅い
のではないか,病人の意識はなくなっているのだから,
神父への電報は無駄だと言うのであった。それでも伯父
は出て行って電報をうった。
 3時間後に次の返電が釆た。「病めるソフィヤ,ク港
に来るべし,かれと共に祈らん,イオアン」と。皆はこ
の電報を見て驚いた。ただ病人は目が覚め大変良くなっ
たことを感じ,それからは急速度に画復に向かい間もな
くついに全快した。全快後直ちにかの女はイオアン神父
のもとに行って感謝の祈りを捧げた。その後20年生のぴ
て,最後は風をひいてこの世を去ったのである。

(14)モスコウのある家で神父を祈祷のために招いた。
この時18才で口頭結核で声が出なくなってしまった娘が
連れてこられた。イオアン神父は娘に向かい「主は汝を
癒すと信ずるか」と問われた。娘は決然として頭を下げ
ながらその信仰を著わすのであった。
 その時,神父は集まった総ての人々に向かって「汝ら
の信によりて,汝らに与えらる。もし主イイスス・ハリ
ストスの名によりて,2,3人集まるところに主その中
にある」と言われた後,病人の喉に聖油を塗られ,聖水
を飲ませた。病人は1時に良くなったことを感じ,間も
なく全快したのである。

(15)1898年ティフリス町において11才の少女の癒され
たこと。軽い熱ではあったが,長く病床にあり,いよい
よ休も衰弱してきたので,名医の来診を求めたが回復の
見込みはないとのことであった。
 信仰の深い父はいよいよ最後の決心を固めて,イオア
ン神父に電報をうつのであった。当時この町からペトロ
グラドまでの電報は6時間を要するのであった。父が打
電したのが午後4時であった。これが神父の所に届くの
は凡そ10時すぎになるはずである。
 少女の母は看護疲れで椅子に掛けて,居眠りをしてい
たが,ふと何かに感じて日を覚まし,娘の顔を見るとま
ことにすがすがしいようすをしているのに気がついて「ナ
ターシャ,どうしたね」と言うと,娘は「お母さん,お
母さん,私は何んだか大変良くなりましたよ」と喜ばし
い声をあげながら,枕を持って立とうとした。しかし弱
りきった体にはそれはでさなかった。
 このように娘の突然良くなったのを見て,母は神父へ
の電報のことを考えて時計を見ると丁度11時であった。
母は娘の胸に耳を当てて鳴る音を聞いたが,それが既に
静まっていた。父を呼んで熱を計ってみたら,37度に下
がっている。娘は食事をして眠った。
 翌朝7時30分にかかりつけの医者が釆た。父は戸を開
けて迎え入れ「ティホン先生は何を見るでしょうか,ナ
ターシャは寝台ではなく,机に向かって腰掛けています。
あなたの来るのを待っていたのです」「冗談を言いなさ
るなよ,アレキサンドル」と「いやさ,早く行って娘を
ょく診断して下さい,先生」ドクトルは娘を丁寧に診察
した後,主ハリストスの聖像に眼を向けて「ナデジタさ
ん,アレキサンドルさん,私は奇跡をみました。ナター
シャを救うことはただ奇跡のみであることを断言します」
と。
 以上でかかる実例を打ちきる。この記事を終わるに当
って,イオアン神父の言ばを加えましよう。神父自ら言
う「私は人間です。ただ神の恵みと真実と義とは絶えず
私に働いております。神はあるものを憐れみ,慰め,あ
るものを罰し,悲しめます。それは神のみ心に反する各人
の心の働きによるのであって,主は人の心の動きに応じ
て,かれらの内に憐れみと真実と義とを現わし給うので
ある。かれが私におけるが如くに,総ての人にもそのよ
うにされるのであり,私は奇跡を行うことはできない。
私は常に祈る,そうしてしばしば病人の真剣な信仰は,
かれのいやさるるのをみるのである」と。
 換言すれば真実の信仰をもって主神のもとに来るもの
のみがイオアン神父の祈祷によって癒されたということ
になる。そしてイオアン神父は敵が欲するように少しも
自分に功を帰するようなことはしない。だから神父に病
者の祈祷を求めると「主神に祈りなさい,主は健康と病
の瀬です。命と死の源です。一切は神の御旨の内にある」
と言われる。


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