クロンウェシタトのイオアン神父
神 父 の 祈 り (その1)
当時ク港アンドレイ聖堂には神父の祈祷に参加して,
公衆痛悔に与らんものと,全露から多数の信徒が押寄せ
て来て,日曜毎に7000人(この聖堂には7000人で一ばい)
以上ということで,神父は初代教会の例にならい,信者
に強制することなく,自由に心の底から一切の罪を神の
前に認めて,赦しを乞う方法をとられるのであった。
この痛悔のようすをある婦人が記している。私の近く
に老人と二人の青年がいたが,老人は謙遜なようすであ
ったのに,青年達は笑っているのであった。神父の痛悔
に関する言ばの進むに従って,この人達は真面目となり,
視線は神父に集注し,ついにこの二人は共に膝をかがめ
て,両手を瀕にあて泣いて伏拝するのであった。
◎またある人は自ら記して,1895年私は自分の用事で
ク港に行ったが,聖堂は何時も通り過ぎということであ
ったが,ある時聖堂の前を通ると,ちょうどイオアン神
父の説教の時であった。ちょっと立ちどまって,神父の
言ばに耳を傾けると「ハリストスわれらの内にあり」と
の言ばであった,私の心にハリストスわれらの内にあり,
など私に何の用があろうか,信仰に縁の遠くなった私の
救いには何の関係もない。
説教を終わって神父は聖爵を持って出て来られ「神を
畏れる心と信を以て近づさ来たれ」と言われるのであっ
た。この時私は畏れを感じ,10数年も痛悔をしなかった
心中に悲しみを覚え,自分の霊の空しさに涙が出て釆た。
そして祈祷の終るまで聖堂の中にとどまっていた。とこ
ろが神父が至聖所から出て来られて,私に近づき「あな
たは不幸です,痛わしい,主はあなたの罪を赦される」
と言われるのであった。私はこの言ばを聞いて,自分の
罪を痛悔し,2日間滞在して幸福な信者となって家に帰
ったのである。
大いなる牧者である神父のもとに,あらゆる人々が祈
祷に参加するのではあったが,しかし神の助けと生活の
安定とを与えられるとはかぎらなかった。主神に真実な
疑いのない信仰を以て近づくもののみであった。「汝の
信によりて,汝に与えらる」との聖書のことばの通りで
ある。
聖体礼儀について神父は記して言う「聖体のさかれて
後,羔(聖体)をのせた聖孟,聖血の入れた聖爵を司祭
が手にもって立った時,あの放蕩息子が父の膝下に伏し
たように伏して,自分と総ての人々の罪のために泣いて
赦しを祈る。すると主はこの機密において,われらに近
づき,御自らを飲食物として,この汚れたわれらの天性
の中に降り給うのであって,実に驚くべき,畏るべきこ
となのである。」と教えられる。