聖インノケンティ・聖フェオドシイ
聖インノケンティ と聖フェオドシイ
は 近世ロシアの著名な聖人です。 横浜ハリストス正教会の信徒にとっても、 イコノスタシスの両端に描かれているため 非常になじみ深いお二人です。 |
大主教インノケンティは、小ロシアの人で、ロストウの聖ディミトリー、ウォロネジーの最初の主教聖ミトロファンと同時代の人でした。
彼は始め、キエフの「兄弟学館」という学校で学び、後にペチェルスクの修道院に入って敬虔に修行を行い、修道士となりました。元来人並みすぐれた才能があり、学問を博く修めていたのみならず、至って道徳堅固な性格でしたので、時の府主教ステファン・ヤオルスキーに抜擢されて、モスクワの神学大学の教授となり、ついでペレヤスラウという都市の主教に選立されました。
聖インノケンティーは、このように速く昇進しましたが、彼の内面には殊に温柔と篤実の徳が輝いていました。
ピョートル大帝の時代に、異教人が多数であったシベリア地方が、にわかにキリスト教の光を受け入れる機運に向かいました。そして、彼らの間にこの光を大いに輝かせた者が、実に聖インノケンティーでした。
もっとも、当初は中国伝道のために北京に主教を派遣するという決定により、聖インノケンティーは始めは中国に向いました。しかし清国政府は許可せず、協議が困難で、合意を待っていると空しく数年は費やすことになるであろうとの見通しになったので、彼はその間にイルクーツクの町に滞在し、大いに救いの真理を伝え、なおその上、近隣地方にも出かけて熱心に唯一の神の教えを伝道しました。
そのため、熱心な異教の信者であったブリヤート人やトンスク人達はなびくようにキリストの正教の信者となりました。
この後、数年を経てピョートル大帝の治世は終わり、エカテリーナという女帝が即位しました。イルクーツクの教会は、この女帝の時代には、主教を立てることを願うまでに成長しました。そこで、ここに聖インノケンティーは、初代のイルクーツクの大主教に選立されました。
ここまでの期間はあまり長い年月ではありませんでした。このように教会が成長できたのことは、この地方には、聖インノケンティーをロシア皇帝のスパイであると誹謗するような異邦人は特にはおらず、住民は非常に正直で救いの真理を求めていた所に、このような高徳で熱心な偉大な宣教師の忠実な働きがあって、神の佑助が大いに豊かに降ったことの証拠です。
聖インノケンティーはイルクーツクにあっては、通常は復活修道院に駐在して教会の聖務を執リ、さらに福音を伝え、そのほかには学校を建てたり、救いの利益となる人にはロシア語を教えたりして、専心一意、主イエス・キリストの光栄を顕わすことに努めました。
このように彼は古の聖使徒の務めを行いつつ、自分の徳を持つんで行きましたが、1731年12月9日に終に安然として、その霊を神に託しました。
彼が世を去ってから30年たって、たまたま聖堂を修繕する工事がありました。その際、彼の墓から不朽体(聖遺体)を発見しました。イルクーツクの住民は、生前に公共と聖なる道のためによく努めた彼の功績を忘れませんでしたので、大勢来て、彼の墓の前で祈祷を行いました。すると彼の不朽体からさまざまな奇跡が現れて、この大主教インノケンティーは確かに主・神に聖せられた者である、と言う証拠を示しました。そこで、1804年12月14日にロシア正教会シノドはインノケンティーを聖人と公認してそのことを布告しました。
彼はロシア正教会の、19世紀で最初に列聖された聖人です。彼の記念日は永眠の日、12月9日です。
チェルニゴフの大主教 聖フェオドシー
チェルニゴフの大主教奇跡者ウグリツの聖フェオドシーの
不朽体の発見及び讃栄式
故チェルニゴフの大主教ウグリツのフェオドシー師父は永眠の日(1696年2月18日)以来、人々に記念され続けていた。多くの民がチェルニゴフのボリス・グレブ聖堂にある彼の墓に参拝し、彼の霊の安息と、彼の中保と代求を願う祈りを捧げていた。
それは、彼の高潔な生涯と、その墓所での諸病の癒される奇跡によってであった。
大主教フェオドシーの不朽体によって神の恩寵の現れた奇跡の第一号は、大主教イオアン・マクシムの身内の者の病が癒されたことであった。大主教イオアンはこの恩寵を深く感謝し、師父への賛詞を作り、その中で師父を名づけて「地上の天使、セラフィムの群にいます聖者」と称えた。
大主教イオアンは、ボリス・グレブ聖堂の故大主教フェオドシイの墓の上に石の堂を建てた。故大主教を尊ぶものはこの石堂を訪れ、約200年間、訪問者が絶えたことはなかった。
その間も、神は厚い信仰を持ってここに参拝する者に度々恵みをお与えになった。このような奇跡により、信者達は故大主教が聖人であるとの思いは強まり、この確信と崇敬はいよいよ世間に広がった。
チェルニゴフの県知事からの上申もあり、教会はチェルニゴフ大主教にフェオドシー師父の事跡と奇跡の調査をさせたが、報告内容を確証することができず、ロシア正教会シノドは列聖の決定を下さなかった。
その間も、民間ではフェオドシー師父が聖人である、との評判がますます高まり、教会当局も動き出し、彼の遺体が不朽体になっているかどうか、またその墓所で奇跡が実際に起きたかどうかが実地調査されることになった。
キエフ府主教イオアンニキー師を責任者とする6名の調査団はチェルニゴフに赴き、1895年7月18日より調査が開始された。始めに石堂にて祈祷を行った後、墓の発掘を行ったところ、遺体は200年間朽ちずに残っていることが判明した。次に奇跡については、過去の記録や体験者の証言の検証を約50件行った。
この調査により事実の確証が得られたので、ロシア正教会シノドは、故大主教フェオドシーを新たに神の恩寵による聖人の列に加えること、その記念日を彼の永眠の日である2月18日とすること、不朽体の発見と讃栄の記念式を1895年9月22日に挙行することに決定し、あわせて新しい聖人を出してくださった主・神に信徒は光栄と感謝を帰すことを勧告した。
1896年9月29日、チェルニゴフ市の「主の顕栄聖堂」にて予定通り記念式は挙行された。参祷者は前日夕前より続々と大主教の墓に押し寄せて、聖なる不朽体を崇敬していた。そして、多数の参祷者が奇跡の恵みを受けることができた。
夜明けには、参祷者は数万人になり、顕栄聖堂の外の柵外まであふれ出た。しかし堂内、堂外とも秩序は維持されており、混乱は少しもなかった。
午前9時、鐘が鳴り、聖体礼儀がキエフの府主教イオアンニキーと二人の大主教、四人の主教、九人の修道院長、その他数十名の司祭・輔祭により行われた。
聖歌隊の『来れハリストスの前に伏し拝まん・・』の歌にあわせて聖福音書が捧出される「小聖入」の時、修道院長達は不朽体を収めた檜の棺を担いで王門から至聖所(内陣)に入り、宝座の前に安置した。府主教はその頭を高く上げたので、参祷者は聖人の不朽体を見ることができた。不朽体の左右には、四人の修道輔祭がディキリー、トリキリーを持って立っていた。
その間にも、市内の各聖堂から出発した行進(十字行)は次々に顕栄聖堂に到着した。これらの十字行は市内諸聖堂の鳴らす鐘の音に送られてしずしずと市内を行進してきたのである。
聖体礼儀終了前に府主教は、不朽体の腐らないことについての説教を行った。聖体礼儀終了後には、不朽体は至聖所より聖堂の中央に移動され、ここにて祈祷が行われ、次いで不朽体の棺を先頭にして聖堂を巡る十字行が行われた。
十字行が聖堂内に戻った後、輔祭の『我等、、又々膝を大主教・奇跡者フェオドシーの前に屈して祈らん』との呼びかけに始まる祈祷が府主教イオアンニキーにより行われ、終了後、全参祷者の不朽体への接吻が行われた。
この記念式の感動により、多くの者が正教会の懐に復帰したそうである。