なごや「聖歌」だより 16  

2003年8月号


目で見る聖歌 

参 加

みんなで一緒に!

 聖体礼儀は私たちが集まって「神の国に行く旅」、地上の教会が天の教会とひとつになって、主の宴会に集うなどと言われます。
 正教会では他教派と比べると、「全員参加」、つまりひとりひとりが何らかの役割をもって参加することが強調されています。司祭や堂役、誦経や聖歌などのようにはっきりした役割を与えられている者だけでなく、参祷した信徒の描く十字、一緒に歌う「主憐れめよ」なども、祈りを形作る大切な要素であると考えます。
 その違いは聖堂内の配置を見ても明らかで、西の教会が、「祈る側」と「祈ってもらう側」に線引きされているのにくらべ、正教会では教会全体が混ざり合い一つになって祈ります。主教祈祷ではより顕著ですが、聖職者も至聖所にとどまって祈るのではなく、聖入や聖書の読みでは聖所に出てくることで、教会としての一体感が作られています。
 聖歌隊は、聖職者に準ずる役割を持つとされ、至聖所に近いところに左右二隊に配置されるのが伝統です。
 ロシアなどで近世ヨーロッパの影響を受けて2階のロフトに聖歌隊席が設けられている教会もありますが、 意識としては聖歌隊はほかの信徒と分離して「歌う」のではなく、教会の祈りをリードして信徒と一体になって歌います。



7月13日(日)聖歌の会から

私たちにとって
‘伝統’って何?


 正教会は伝統を守る教会だと言われますが、その意味をもう一度皆さんと考えてみました。
 正教会の伝統には、聖書や奉神礼(お祈り)、信経や教えなど教会が命がけで伝えてきた「聖伝」と、それにまつわるしきたりや慣習があります。
 「聖伝」は、これを変えてしまったら、正教会でなくなってしまいますから変えることはできません。
 しきたりや慣習は聖伝を生かすために工夫され付け加えられてきたもので、時代や場所によって変化してきたし、将来も変わる可能性があります。
 ところで、伝統を用いて、正教会が伝えようとし続けているのは何でしょうか。ハリストスを「主」として生きること、ハリストスの「救い」です。伝統はそれを受け渡す入れ物です。ですから聖歌も聖堂も先人たちが工夫し続けてきた素晴らしい入れ物の一つで、しきたりや習慣も何らかの意味があって私たちに与えられているはずです。
  ただ「昔からやってきたカタチを守っていればいい」ではなく、「これにはどんな意味があるのだろう」と深い意味をまず考えてみます。 
 伝統を守るにしても、あまりに不都合で何か工夫を加えるにしても「これは神の旨にかなうだろうか」と祈り、たずねる姿勢が大切ではないでしょうか。私たち一人一人が知恵を出し合い、耳を傾けあい、祈り合っていけば、必ず聖神が導いてくださるでしょう。
 先人から渡されたものに「息」をふきこみ、主の救いを運ぶものとするのは私たち、私たちの教会です。伝統はハリストスのいのちを運ぶものであって、人を窒息させるものであってはなりません。