なごや聖歌だより
聖王ダヴィード
聖詠作者
2008年2月号

奉神礼(礼拝)と聖書

聖詠(詩編)に親しむ


117聖詠(116詩編)1-2

   主は神なり、我等を照らせり。

   主の名によって来たるものは崇め讃めらる。


 この117聖詠(116詩編)は東方でも西方でも古くから主日の聖詠として親しまれてきました。
 正教会では早課の始まりに、八つの調のどれかで歌われます。日本では三回ですませることが多いですが、本来は同じ聖詠からとられた句と交互に四回繰り返し、最後の句のあとトロパリへ進みます。

  主は神なり、我等を照らせり (117:27)
     (歌)主は神なり、我等を照らせり 

 
 (第1句)主を尊み讃めよ、彼は仁慈にしてその憐れみは世世にあればなり(117:1)
     (歌)主は神なり、我等を照らせり 

  
(第2句) 彼等我を囲み我をめぐれども、我主の名を以てこれ を敗れり(117:10)
     (歌)主は神なり、我等を照らせり 

  
(第3句)我死せず、なお生きて主の行ふ所を伝えん(117:17)
      (歌)主は神なり、我等を照らせり 

 
(第4句)工師が棄てし所の石は屋隅の首石となれり、是主のなす所にして我等の目に奇異なりとす(117:22)
      (歌)トロパリ


 七日の初めの日、イイススの墓へ行った女たちは喜びの知らせをもたらします。「(彼女たちはイイススの墓で)遺体を見つけずに戻ってきました。天使たちが現れ『イイススは生きておられる』と告げたというのです(ルカ24:22)」。エムマウスへの途上、ルカとクレオパは道連れの男に、彼が主とは知らずにこう語りました。

 イイススはかつて「葡萄園と農夫」のたとえ話をしました。ある人が葡萄園を作り、しもべを派遣した。農夫たちはしもべを袋だたきした。最後に息子を送ったが、農夫たちは息子をも殺してしまった。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。「工師が棄てし所の石は屋隅の首石となれり(家を建てる者の棄てた石が隅の親石となった)」(マルコ12:1-12)これが第4句です。それは復活の預言だったのです。

 ユダヤの民に棄てられ、十字架にかけられた主イイススは、三日めに復活し、「死を以て死を滅ぼし」、弟子たちの中に現れました。主日は小復活祭です。主の復活が高らかに歌われます。

 またこの歌は聖体礼儀で領聖直前に歌われます。 宿屋イイススは、ご自分でパンをさき、ふたりの弟子に手渡します。わたしたちは「神を畏るる心と信とを以て、近づき来たれ 」という呼びかけに答えて、「主は神なり、我等を照らせり」と歌い、ご聖体へと進んで行きます。主は神は今ここに、わたしたちの目の前におられ、わたしたちは神の光に照らされています。