なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年12月号

たった今、ハリストスが生まれた!
    
     
「ハリストス生まる」 Christ “is” Born!



 正教会のお祈りはいつも「現在形」です。イイスス・ハリストスは二千年前、パレスチナ地方のベツレヘムに本当に生まれました。本当に起こったことです。でも、今、私たちの降誕祭は、「たった今」生まれた神の子の誕生を祝います。
 正教会で「記憶」というのは、ただ思い起こして「お誕生日」をお祝いすることではありません。私たちは今、羊飼いと一緒に洞窟にたたずんでいます(パレスチナ地方の馬小屋は洞窟です。)真ん中の小さなまぐさ桶のなかに白い衣を着た小さなハリストスがいます。マリアさまがやさしく夫イオシフを見ています。星に導かれて、東から天文学者もやってきました。今、この聖堂が馬小屋になります。天使と一緒に歌います。


今処女は、永在の主を生む。
地は載せ難きものに洞を献ず。
天の使い、牧者とともに讃め歌う。
博士は星に従って旅する。
蓋、我等の為に永久の神は嬰児として生れ給へり

 正教会の祈りは「体で感じられる体験」と言われます。この場に降誕の時が現れます。イコン、乳香、聖歌、その他によって劇的な効果を作りますが、中でも聖歌は全体の雰囲気や流れを左右するので責任重大です。
 結局、練習が必要ということになるのですが、まずは「よく聴く」ことです。ピアノのキーとしては正解な音も、ほかのパートを聴かないとハーモニーになりません。「合わせよう」と意識することが大切です。
 人からの指摘にも耳を傾けましょう。自分では正しく歌っているつもりでも、「違う」ことはよくあります。自分の声は自分ではわからないものです。録音して聴いてみるのもよい方法です。声の出し方も大切です。他の人の声と「一つ」になるように心がけます。よく聴き合って、息を合わせ、「一つの声」「一つの心」になるとき、ハーモニー=調和が生まれます。


奉神礼と聖書

聖詠に親しむ


140聖詠(141詩編)1-2

主よ、爾によぶ、速やかに我に聴き給え*、  (リフレイン主よ、我に聴き給え)
爾によぶ時、我が祈りの声を聴き給え(1)。  
願くは 我が祷りは香炉の香りの如く
  爾が顔の前に登り、
我が手を挙ぐるは
  暮の祭の如く納れられん(2)。 
(リフレイン主よ、我に聴き給え)
         

 
*下コラム参照


 ユダヤ人たちは決まった時間に祈る人たちでした。シェマーとかテフィラーと呼ばれる朝夕、午後の祈りは自由人の男性なら必ず行う務めがありました。特に晩の祈りは、夕方から始まる神の一日を讃える大切な祈りで、出エジプト記には「夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする(30:7-8)」とあります。
 初代のキリスト教徒たちもユダヤ教の習慣を引き継ぎ、朝、午後、夕に祈っていた様子が新約聖書に書かれています。 日の出には「復活のハリストス」を記憶し、夕暮れ時にはランプをともし、その日一日与えられた恵みを感謝し、犯した罪の赦しを願い、罪のない平安な夜を祈りました。朝夕の祈りはもともと個人的家族的な祈りの形でしたが、4世紀頃から早課晩課として公祈祷の形をとるようなりました。
 第140聖詠(141詩編)は『灯火の聖詠』とも呼ばれ、かなり古い時代から晩の祈りで歌われてきました。いつごろからははっきりわかりませんが、4世紀末には歌われていたという記録があり、ローマ・カトリック教会でも木曜日の聖務日課として晩の祈りに歌われていたそうです。
 「主や爾によぶ、速やかに我に聴き給え。」金口イオアンはモイセイが全身全霊で神を呼んで聞きいれられたように、私たちも神を呼び祈らねばならないと教えています(聖詠講話)。
 聖歌では「主よ、我に聴き給え」というリフレインが付け加えられ、ソロの聖歌者にリードされて全会衆がリフレインを繰り返し歌っていたことが推測されます。 
 この聖詠とスティヒラに続いて「聖にして福たる」が歌われます。これは3世紀以前からある古いトロパリですが、『灯火の聖詠』とともに、人となった神、ハリストスを「聖なる光栄の穏やかなる光」、闇を照らす「世の光」と讃えます。

  第2句「願わくは」からは大斎中先備聖体礼儀に美しいメロディで歌われます。このあと司祭がロウソクを持って「ハリストスの光は衆人を照らす」と祝福します。これはエルサレムの聖復活教会で行われていた『灯火の儀式』、聖墳墓から聖堂に運ばれた火が点灯され、墓から復活したハリストスが象られた儀式に始まったと言われます(Evening Worship, N.Uspensky)。


参考資料:『聖詠経』、口語訳聖書『詩編』、Christ in the Psalms Patrick Henry Readon, Commentary on the Psalms, 正教基礎講座テキスト『奉神礼』(トマス・ホプコ神父)『聖詠講話』Commentary on the Psalms, St. John Chrysostom, Monastery rite and Cathedral rite, Paul Meyendorff


<日本正教会訳と七十人訳>


 どこの正教会でも旧約聖書は『七十人訳』と呼ばれるギリシア語訳聖書を用いています。七十人訳とは紀元前二世紀頃ヘブライ語から訳されたギリシア語版旧約聖書で、使徒や聖師父たちの時代には「聖書」といえば七十人訳のことでした。後にユダヤ教のヘブライ語原本からマソラ本文と呼ばれる旧約聖書ができ、プロテスタントの人たちはこちらを用います。今一般の書店に売られている「口語訳」や「新共同訳」などの聖書はこのヘブライ語聖書に基づいています。

 明治時代理由はよくわかりませんが、ニコライ大主教は旧約聖書のテキストを翻訳するときに七十人訳ではなく、ヘブライ語原典の聖書に基づいた訳を行い、聖詠の番号だけを七十人訳に則ってつけました。内容は大部分が共通ですが、ところどころ異なる部分があります。金口イオアンの『聖詠講話』の引用や外国の祈祷文を参照するときに注意が必要です。たとえば140聖詠の第一句は七十人訳では「我に聴き給え」ですが、ヘブライ語版では「我に格り給え(来て下さい)」になっています。