なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年5月号

気合いだ!

先日結婚式のあと「本番に強い聖歌隊だねえ」と神父が言いました。直前練習のときは大丈夫かな・・・と少々心配だったそうです。
 何が違うのでしょう。私は「気合い」だったと思います。結婚するお二人にとって一生に一度の結婚式、いい聖歌でお祝いしてあげようというみなさんの気持ちが気合いの入った美しい聖歌を生み出したのだろうと思います。
 さて、プロの歌手の歌を聴くといつも感心するのはひとつひとつの小さな音、ひとつひとつのことばの端々まで「気」がはいっていることです。どんな小さな音もないがしろにせず、大切に歌われています。
 私たちはどうでしょうか。隅から隅まで「気」がはいっていますか。自分のペースで歌っていませんか。他の人の声を聴いて音を確かめながら歌っていますか。指揮者を見て、タイミングを合わせていますか。無造作な大声で歌っていませんか。「だいたいこのへん」の大見当で不協和音を出していませんか。
 聖歌は複数の人が一つの歌を歌います。一人一人が祈りの歌を歌います。みんな違う色の声をもっています。全員が同じ声の色になる必要はありませんが、「揃えよう」という「気」はとても大切です。他の人と調和しよう、一つの声になるように歌おうという気持ちです。単音でも、四声でも基本は同じです。
 まずできることから自分でチェックしてみましょう。背筋がのびていますか。肩の力を抜いて、大きく息をすって、ニッコリ笑顔。おなかの底から息を流して、すうーっと、遠くへ、遠くへ。耳をすませて、指揮者を見て用意します。 聖体礼儀は最初から最後まで「気」をぬかずに歌います。「スピリット気」とはスピリット聖神の恵み。聖神を迎える受け皿を磨いて準備すること--それが練習です。 


連載



信者の礼儀
15.「常に福」 記憶

 司祭は「この霊智なる奉事を、信を以て寝りし元祖・列祖・太祖・預言者・使徒・伝道者・福音者・致命者・表信者・節制者、及び凡そ信を以て終りし義なる霊(たましい)のために爾に献ず」と唱え、輔祭は生死者を記憶します。
 元祖・列祖・太祖は旧約聖書創世記のアブラハム、イサアク、イアコフ、預言者とは、たとえばサムイル、イサイヤ、エレミヤなどハリストスによる救いの成就を言い表した人たちです。
 使徒、伝道者、福音者致命者、表信者、節制者、主の弟子としてハリストスの福音を宣べ伝え、主の教えを命がけで守り、言い表し、生きた私たちの先輩です。教会は、今天に上げられて、これらの聖人たちとともにハリストスの宴にあります。
 その中心におられるのが生神女マリヤです。「ことに至聖至潔にして至りて讃美たる我等の光栄の女宰・生神女永貞童女マリヤのため」と、中でも特別に生神女マリヤを記憶し「常に福にして」を歌い生神女を讃えます。
 生神女はいつも神に従順でした。夫もないのに神の子を生むという不思議な知らせを受けたときも、我が子イイススが十字架にかけられたときにも、自分の思いではなく神の意志に従いました。生神女は主の救いの始まりです。ヘルビムやセラフィムは最も位の高い天使たちです。それよりも尊い女と生神女を讃美します。
 大きなお祭りの時には、通常「我が霊よ・・・」という附唱のついた祭日のカノン第9歌頌イルモスが歌われ、祭の視点で生神女を歌います。
 聖歌隊が「常に福」を歌う間に司祭は聖変化した祭品に炉儀を行い、授洗イオアン、当日の聖人、永眠者、全教会、世界の記憶を神に祈ります。中でも教会を司る主教を記憶し、聖歌は「万民をも」とすべての人々の記憶を願います。主教祈祷では同じ信仰にあって同じように祈る他の正教会の主教も互いに記憶されます。
 プロテスタントの方から「正教会では『教会』というときに歴史上の教会も世界のほかの教会も含まれるのですね」と言われたことがあります。
 私たちの聖体礼儀は名古屋とか半田とか個々の教会で祈られていますが、同時に天の教会で行われています。「父と子と聖神の国は崇め讃めらる」と開会宣言されたときから、少しずつ天の教会へと上げられてきました。私たちの献げものはハリストスの献げものです。ハリストスはご自身を献げられました。私たちの祈りはハリストスの祈り、パンとぶどう酒はハリストスの「我が体、我が新約の血」(マタイ26:26、ルカ22:19)となります。
 パウエルがコリント前書(11:23)で「わたしは、主から受けたことを、あなたがたに伝えたのである」と述べています。正教会は使徒の時代から、主の教えた『聖体礼儀』を正しく行い、正しく伝えてきました。
 時空を超えて教会はひとつです。「口を一にし心を一にして、爾父と子と聖神の至尊至厳の名を讃栄讃頌する 」のです。