なごや聖歌だより | |
---|---|
生神女マリヤ アギア・ソフィヤ大聖堂 |
2007年2月号 |
大斎のお祈り—— 神の国の光に向かって
2月19日から大斎が始まりました。午前は約3時間半、夕方は1時半ほどのお祈りが行われています。聖堂内の覆いや祭服は黒っぽい色に変わり、灯火もごくわずかです。聖歌もところどころにカノンやスティヒラ、斎のメロディの連祷が歌われますが、大斎の祈りの大半は聖詠(詩編)の読みで、単調で長い祈りです。早課から一時課、三時課、六時課、九時課、晩課、各課の終わりにハリストスの聖像に向かってエフレムの祝文を全員で唱え伏拝します。
毎日毎日この長い祈りに身を委ねていると不思議な心地よさが生まれてきます。それは修道院で感じた心地よさとどこか似通っています。忙しい日常生活の中ですっかり忘れているもの、しかし心の底で常に渇望している何ものかが温かくあふれてくるようです。
テレビなどでアトスやメテオラの修道院が紹介されました。いつもわき起こるのは「なぜこの世の楽しみを捨てて修道士になるのだろう」という素朴な疑問です。先日大阪で開かれたセミナーのおり、ゲラシム修道司祭さまは「ハリストスに少しでも近づきたいから修道する」話されていました。多分、修道士、修道女たちはこの世の楽しみよりも、もっとすばらしい喜びを知っていて、そこに向かって一目散に走りつきたいのでしょう。義務や務めからではないはずです。
ロシアで出会った修道士、修道女、さらに修道院で奉仕する若者達の表情は本当に楽しそうで喜びにあふれていました。
日本では残念ながら修道院に滞在するチャンスはなかなかありませんが、この大斎の祈りは、ハリストスの「穏やかな光」にあずかるチャンスです。信徒がともに祈るとき「私はそこにいる」とハリストスが言っています。
名古屋では月曜日をのぞいて、ほとんど毎日お祈りが行われています。一緒に祈りの時をすごしましょう。詳しくは先月の会報でお送りした日程表をご覧下さい。ホームページにもあります。
連載
信者の礼儀
14.アナフォラ 3
司祭の祝文は続きます。
爾は爾の世界を愛して、爾の独生子を賜うに至り、凡そこれを信ずる者に沈淪(ほろび)を免れて永生を得せしむ、彼来りて、凡そ我等に於ける定制を成全し、付されし夜、正しく言へば親(みずか)ら己を世界の生命(いのち)のために付し夜、其聖にして至浄無玷(むてん)なる手に餅を取り、感謝し、祝讃し、成聖し、擘(さ)きて其聖なる門徒及び使徒に予(あた)へて曰へり 、
(高声)取りて食え、これ我が体、爾等のために擘(さ)かるる者、罪の赦しを得るを致す 、 (詠)「アミン」
マタイ伝には次のように書かれています。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタ26:26)
同く晩餐の後に爵を執りて
(高声)皆之を飲め、これ我の新約の血、爾等及び衆くの人のために流さるる者、罪の赦しを得るを致す 、
(詠)「アミン」
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリ前11:26)」
教会は二千年間、聖体礼儀を行ってきました。新約聖書の記述に基づいて聖体礼儀が考え出されたのではありません。四福音書がすべて出そろう紀元100年頃よりずっと前から、教会は主が使徒達に教えられたとおりに、使徒から次の主教たちに伝えられたとおりに聖体礼儀を行ってきました。
聖パウエルは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。(1コリント11:23-24)」と記録しました。
それが教会から教会へと伝えられた伝統です。もちろん、使徒の頃に今と全く同じ形の聖体礼儀が行われていたわけではありません。多分もっと簡単なもので、夕暮れ時に信徒の家に集まって、使徒からの手紙を読み、感謝の祈りを唱え、パンをさいて分け合って食べるだけだったでしょう。
伝統とは受け継いだものを単純にそっくりそのままコピーをし続けるということではなく、そのとき、その場所に働く聖神の働きによって、伝えられたことを生かすことです。正教会で言う「記憶」とは過去にあったことを思い起こすだけではなく、そのできごとが、それに参加する私たちとともに、また私たちのために今ここで現前していることを言います。
私たちは時空を超えて、二千年前のハリストスの教会、使徒の教会、連綿と続いているビザンツやロシアの教会、明治日本の教会と心を一つに声を一つに祈っているのです。