なごや聖歌だより | |
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2005年4月号 |
祈りに彩りを
今、大斎のお祈りが行われています。平日の静かな祈り、日曜日の祈りは平日に比べると格段に華やかです。これから、受難週をすごし、復活祭へと登り詰め、クライマックスに向かってどんどん華やかさを増していきます。祈りに彩りを与えているのは「聖歌」です。その違いを体験して見て下さい。
大斎平日、明かりを落とした聖堂に誦経の声が静かに響いています。祭壇被いも祭服も暗色。ところどころで祈られる「主憐れめよ」の連祷も、いつもと違うメロディです。
それに比べて、日曜日のお祈りは平常通りです。聖変化の部分の歌が異なりますが(聖大ワシリーの聖体礼儀)、おおむね同じです。日曜日は「主の復活日」、特別の祝いの日だから、悔い改めを呼びかける「大斎平日」の祈りとはぐっと差がつけられています。
では、復活祭の祈りを思い浮かべて下さい。何百本ものロウソクが輝く花で飾られた聖堂で、「ハリストス死より復活し」が何度も何度もくり返され、「神は興き」「マリヤとともに」が歌われます。
復活祭には「祭の祭」「祝いの祝い」と言われる特別の祝いの日ですから、それにふさわしく、この上なく華やかな聖歌が歌われます。
昔から正教会では、祭の華やかさの度合いを聖歌の歌い方で表してきました。斎の正確強い日にはほとんどが誦経や動きの少ない歌で淡々と唱えられ、お祭りの性格が濃くなるほど歌の部分が増えて、復活祭には祈りすべてが歌われます。また、同じ歌詞の歌でも、斎の日には地味な歌、大きな祭には思い切り華やかな音楽をつけて歌われてきました。
と、お話ししてもなかなか実感がわきませんから、実際に大斎のお祈りを体験していただくのが一番です。まだ3週間あります。名古屋では毎週水曜日と受難週の月水に、早課から先備聖体礼儀まで3時間ほどの長く静かなお祈りが行われます。一度でいいですから、どんなに違うか体験してみて下さい。復活祭の祝いの味わいが、ぐーっと深まりますよ。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
エルサレムから名古屋まで
1年以上にわたって、ハリストスの時代から昭和まで、エルサレムからビザンティンへ、ビザンティンからロシア、ロシアから日本へと伝えられた聖歌の伝統の足跡をたどってきました。そこではっきり見えてくるのは、正教会の聖歌はその時代その場所で、現実に即応して様々な姿で歌われてきたことです。
正教は伝統的な教会だと言われますが、今歌われている聖歌は2千年前使徒たちが祈っていた歌と同じではありません。歴史上のさまざまな状況、神学的な論争、祈りに集う人々の音楽性、いろいろな要素が影響して積み重なってきました。ビザンティン時代でも、地域によって、また、修道院と町の教会では、異なる方法で祈られていました。ローマ教会ではローマ典礼とグレゴリオ聖歌を正統と決めましたが、正教会では地域によって異なる言語と異なる音楽で多様な聖歌が歌うことを祝福してきました。
ビザンティンの伝統を受け入れたロシアでも、地域や時代によって様々に歌われてきました。17世紀以降、強い国家権力によって中央集権的な統制が試みられたこともありましたが、それは正教会本来の姿とは言えません。最近では共産主義の束縛から解かれた教会の復興とともに各地各修道院に伝えられる古い聖歌の伝統が見直される動きも盛んです。
日本ではニコライ大主教が導入した単音、四部聖歌聖歌が今も歌われています。一部ポクロフスキーが紹介した20世紀のロシア聖歌も歌われていますが、残念ながら、それ以後新たな作曲や編曲はほとんど取り入れられてきませんでした。
ニコライ大主教は正教会の信仰を伝える最重要課題として奉神礼をとらえ、早急に実施できるように聖歌譜(ヨコナガ聖歌譜)を作り、全国に配布しました。そのお陰で私たちは日本語で歌う(祈る)ことができます。 しかし、ニコライ大主教の書かれたものが聖歌のすべてではありません。本来歌われるべきものが楽譜がないという理由で歌われていないものや、他の歌で間に合わせているものもあり、日本語の歌詞とメロディが合わなくて歌いづらいままになっているものもあります。また当時のロシア聖歌は貴族社会で生まれたものですから、今の日本の地方教会で歌うにはいささか大仰なものもあります。日本に正教が伝えられてたった150年。日本語の祈りを正しく運び、日本人に歌いやすい聖歌を生み出して行くにはまだまだ時間と努力が必要です。
正教会はある特定の時代や特定の聖歌を「正統」と決めたことは一度もありません。いつでも、教会に働く聖神を信じて、その時最高と思われる聖歌を探してきました。
先人が苦労して編み出してくれた聖歌の伝統を大切にしつつ、現実の教会の状況をよくふまえて、祈りの歌として最もふさわしい聖歌を求めていく柔軟な姿勢がこれからますます大切だろうと思います。
神のことばは耳から
生神女マリヤは、天使ガブリエルによって伝えられたことばを聴いて、受け入れました。そこから救いは始まりました。
ずっと昔から、神のことばは耳から伝えられてきました。聖歌も口から耳へと伝えられてきました。印刷された聖書や祈祷書が気軽に手に取れるようになったのはごく最近のことです。祈祷文に書かれた祈りのことばや神のメッセージは、常に誰かが声にして伝えてきました。祈祷文は奉神礼の中で歌われて(唱えられて)初めて神のメッセージとなります。
与えられた神のことばを歌うものには、神の思惑どおり正確に伝えるという責任があります。文の中身が正確に伝わるように発音し、しかもその内容がさらに明らかに顕れるように、音楽にのせて歌います。
歌うものは意味を理解して、祈りの中で象を結ぶように歌わねばなりません。まず祈りのことばを味わってみてください。棒読みでかまいませんから自分の声に出して読んで、耳で聴いて下さい。
神のことを歌う歌の理解には、聖神の助けが必要です。 自分勝手な解釈で曲想をつけるのとは違います。精一杯自己努力することも必要ですが、最終的には人間の知恵ではなく、神の知恵によって導かれます。「教えて下さい」と祈り求めれば、必ず答えは与えられます。
聖歌を歌うのは神から任された責任重大な仕事ですが、祈りの果実を味わう至上の喜びでもあります。