なごや聖歌だより | |
---|---|
2005年3月号 |
伝統って何?
−−本当にまもるべきもの
正教会は伝統を大切にする教会だと言われます。
しかし、伝統って一体なんでしょう?もう一度考えてみたいと思います。
洗礼を受けたクリスチャンは全員「地の果てまでも福音を述べ伝えよ」と命じられています。福音とは喜びの知らせです。神が人となって生まれ、十字架で死に、復活し、再び神との交わりへの道が開かれました。
「伝統」はこの福音を伝えるための入れ物です。正教会はしっかりした入れ物を保ったおかげで、中身を型くずれせずに伝えてくることができました。だから伝統を大切するのです。
この入れ物には、中身をまもるためのガッチリした箱と、時代や地域の事情に配慮して付け加えられてきた包み紙やリボンにあたるものがあります。
中身をまもるための箱は「聖伝」と呼ばれ、聖書や奉神礼(礼拝)、七つの公会議で決めた教義やきまり、聖師父のことばなどが含まれます。現代人の感覚や都合に合わないからと言って無闇に変えられません。変えたら中身がくずれてしまうからです。
身近な奉神礼に例をとると、たとえば一つの宝座(教会)で一人の司祭は一日一度しか聖体礼儀を行ってはならないというきまりがあります。カトリックのように「短い聖体礼儀が日に何度もあれば好きな時間に気軽に行けて便利」と思われるかもしれませんが、それでは教会はハリストスのひとつの体でなくなってしまいます。ほかにも信徒同士でなければ結婚式をしないとか、他の宗派の人にご聖体を与えないとか頑固なきまりがありますが、中身を守るための理由あってのことです。
これに対して、箱の外側の彩色や包装にあたるものがあります。それらは時代や地域の状況に応じて、工夫され、付け加えられ、ゆっくりと姿を変えてきました。
たとえばイコンは聖伝のひとつですが、全く同じようにコピーされてきたのではありません。ビザンティンではモザイクが主流でしたが、ロシアに行ってそこの材料に合わせてフレスコ画になりました。また同じ図柄のイコンの基本形は変わりませんが、色や形は微妙に異なります。描く人の祈りと感性を通して聖神が働くのです。
聖歌も同じです。お祈りの構造や歌詞になる祈祷文という基本形は変わりませんが、用いる言語や音楽は時代や地域で様々です。人々は常に「神への祈り」「神からのメッセージ」を包むために最も美しい聖歌を求め、生み出し続けてきました。ギリシアの修道院のご詠歌のような聖歌もロシアの合唱聖歌も同じ奉神礼という箱を包む包装紙の違いです。色々な歴史や、その時代と地域の人々の音楽性が反映されています。ロシアではビザンティンから受け取った聖歌を500年以上かかって独自の単音聖歌へと完成させました。その後も西洋の影響を受けて合唱聖歌になったり、またそれに対する反省が起こったり、今も成長し続けています。
日本の聖歌はまだ150年の歴史しかありません。ニコライ大主教が苦心して作られた日本語訳の聖歌をさらに高め、誰もが参加しやすく、神との出会いに心が運ばれていくような聖歌を探す努力が望まれます。日本語の祈祷文、聖堂のつくり、日本人の声の特性、教会の事情も考慮しなければなりません。
そのとき決して忘れてならないのは、伝えるべき中身はハリストスの「福音」だということです。奉神礼は福音を伝えるためにあります。聖歌は奉神礼を生き生きと喜びに満ちたものにするためにあります。包み紙の形や色を厳格に守っても、中身を忘れたらただの死んだ文化財です。中身が生きるように、神の福音を運ぶにふさわしい最も美しい聖歌で大切に包んで捧げます。その時聖歌はいのちを与えられ、内側から照らされて輝きだします。正教会の伝統は生きているものです。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
14.日本への伝道 2
−大正、昭和− セルギイ府主教とポクロフスキー
ニコライ大主教永眠後、セルギイ府主教率いる日本教会はロシア革命による母教会からの援助停止、関東大震災によるニコライ堂の倒壊など次々と災難がふりかかった。ニコライ堂再建を決意したセルギイ府主教は大聖堂にふさしい聖歌隊の養成と新しいロシア聖歌導入のためにハルビンで亡命生活を送っていた23歳のポクロフスキーを招聘した。
聖歌隊の活動には府主教の全面的なバックアップがあった。当時聖歌隊員だった大阪のティト加藤兄によれば、ポクロフスキイは祈祷が一流れになるように神品と聖歌の連携を厳く指導し、聖歌練習は日曜午後と水曜日の週二回行われ、府主教も時間の許す限り後ろで聴いておられた。
厳しい練習の甲斐あって、昭和4年のニコライ堂成聖式ではハルビンから招待された神父は「ロシアの聖歌、懐かしい故郷の旋律。聖歌を愛する人々の清廉な響きがお堂の上へと昇っていった。・・・・・・敬虔そして純真で深い祈りの心を持った聖歌手の歌がかもしだす清廉な心だ。ここには祈っている人々の心をいらだたせるコロラチュラソプラノの真似事も、度肝を抜くようなテノールもない」(「東京復活大聖堂と関東大震災」)と賛辞を贈った。このコメントの背景には18世紀以来ロシア宮廷中心に流行していたイタリア・オペラ風聖歌への苦言があり、セルギイ府主教とポクロフスキーが目指していたのは、コンサートで聴衆に聴かせるような聖歌ではなく、教会で祈るための新しい聖歌をであったことが推測される。 ポクロフスキーは19世紀末から20世紀初頭に発表された新しいロシア聖歌を中心に次々と日本語に編曲し聖歌隊で歌い、その一部は後に加藤兄の尽力で「ポクロフスキー改訳聖歌集」として大阪で出版された。アルハンゲリスキーのものが16曲と最も多く、チェスノコフ、カスタリスキー、チャイコフスキー、ボルトニヤンスキーも3曲ずつ収録されている。
日本語の編曲には、ニコライ大主教が改訂した新しい祈祷文を用いた。音楽付けにあたっては音節数も文法構造も異なる日本語にあてはめるために、カスタリスキーなど新しいロシアの作曲家が用いた、メロディを小さな部品に分解して組み立てるというロシアの古チャントの手法を応用した。そのためスラブ語の原曲と聞き比べると、音節数にあわせて音が追加されていたり、全く新しいメロディが付加されているのに気づく。セルギイ府主教もニコライ大主教の遺志を継いで日本語聖歌の充実に力を注いだ。
名古屋ではポクロフスキー編曲によるボルトニャンスキーのヘルビム7番、復活祭の「マリヤとともに」、スモレンスキーの「神は興き」、マカロフの「アンゲル恩寵」、「ハリストス・ヴォスクレセ」などが歌われている。他教会でも、アルハンゲリスキーの「平和の憐れみ」、ニカノルの「我が霊」、リムスキー・コルサコフの「ヘルビム」などが多くの美しいロシア聖歌が今も日本語で歌われている。
ポクロフスキーの手書きの聖歌譜。復活祭のイパコイ