なごや聖歌だより | |
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2005年2月号 |
みんなで歌う みんなで祈る
正教会ほど、祈りの共同性を大切にする教会はありません。司祭は司祷者として祈りをリードしますが、司祭一人の仕事ではありません。堂役として司祭を助ける人、聖歌を歌う人、祈りに立って黙って十字を描く人も聖体礼儀を支えています。
先日ある神父さまから「45年神父をやったけれど、気持ちのいい聖体礼儀と、そうでない聖体礼儀があるんだな。気持ちのいい聖体礼儀は、あれ、もう終わっちゃったのかなと思うぐらい短く感じるよ。歌そのものの技量とは別のことだね」というお話しをうかがいました。この違いはどこから来るのでしょうか。
一つのポイントは祈りの息が合っているかどうかにあると思います。たとえば連祷の「主に祈らん」という呼びかけと「主憐れめよ」という応答のキャッチボールがチグハグしていると流れは悪くなります。耳をすませて司祭の呼びかけを聞いて「主憐れめよ」という答えを用意していないとスムーズに続けることができません。途中音を何度も取り直したら、祈りが寸断されてしまいます。音取りは最低限、できるだけ目立たないように行います。
また、司祭が至聖所で唱える祈りのことばに思いを馳せることも大切でしょう。至聖所と聖所は一体でなければなりません。聖変化のとき、私たちは「主や爾を崇め歌い、爾を讃め揚げ、爾に感謝し、我が神や爾に祷る」と歌いますが、イコノスタスの壁の向こうでは、司祭が「私たちの捧げものを受け入れてください、聖神を降してください」と祈っています。
このパンをもって、爾のハリストスの尊体と成し、「アミン」
この爵中のものをもって、爾のハリストスの尊血と成し、「アミン」
爾の聖神をもって、これを変化せよ、
「アミン」「アミン」「アミン」
「アミン」は「そうなりますように」という答えで、本来信徒全員が唱えることばでした。至聖所の祈りと心を一つにして、せめて心の中で「アミン」を唱えながら、「我が神や、爾に祈る」と歌いたいと思います。
聖体礼儀の中で、私たちは神に向かい、一緒に祈る人々に配慮しながら、力を合わせ、補い合ってひとつの祈りを作ってゆきます。
その祈りの姿勢そのものに神の国の姿が表され、クリスチャンの生き方が教えられているといっても過言ではないと思います。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
14.日本への伝道 1
−明治初期−
祈祷書の翻訳
ペテルブルグ神学校を卒業した25歳の青年修道司祭ニコライ(カサートキン)は、1861年6月函館ロシア領事館付き司祭として来日した。日本語、漢字、日本の宗教や文化を学び宣教活動に備え、キリスト教禁令下の1868(明治1)年パウエル澤辺琢磨ら3人の初の日本人受洗者を得た。
日本人への宣教活動が本格化すると、まず日本語の祈祷書が必要になった。福音書、使徒書簡、朝夕の祈祷文、洗礼の祈祷文などを次々と訳した。ニコライ師は最初のロシア帰国時(1869〜71)に石版印刷の機材を持ち帰り、東京に本拠地を移すとともに活発な翻訳出版を始めた。
奉神礼用の本格的祈祷書は1884(明治17)年の時課経を待たねばならないが、それ以前にも、早急に日曜日の祈祷を行うための暫定的な祈祷書や聖歌譜を作り、実際に祈祷に用いてみながら訳文を検討推敲し改訂を重ねた。ごく初期の祈祷書として明治10年から13年ごろ石版印刷の『祈祷祭文』があり、同じ頃、聖歌譜も作られたと考えられる(主代主教による『明治期日本正教会著訳出版図書目録』)。
右の『祈祷祭文』を見ると、祈祷文が現在のものとかなり異なることがわかり面白い。「聖なる神」は「聖天主、聖勇毅、聖常生なる主・・・」の訳文が用いられており、現在まで埋葬式などの楽譜に古い訳文が残されていることがわかる。ニコライ師とチハイは日本語祈祷文にロシアのメロディをあてはめ、日本語聖歌譜に書いて配布した。
2.日本語で歌う
聖歌はかなり早い時期から日本語で歌われ始めた。パウエル澤辺によれば、最初は「主憐れめよ」だけを日本語で歌い漸次日本語の歌を増やしていった(『正教新報』318号)。
ニコライがもたらした聖歌は前々号で述べたペテルブルグの宮廷聖歌をもとにしたオビホード(標準聖歌集)がベースになったと考えられ、ロシア独自の音楽というより音階やハーモニーはほとんど西洋音楽に近く西洋の五線譜を用いて書かれた。いずれにせよ当時の日本人にとって全く耳新しい音楽で、聖歌を教えるのは大変だった。澤辺の歌は「日本の謡曲の節が七分に義太夫節が二分残りの一分が端唄のような節で形容できない面白い節だった」(大沼魯夫)といわれ、彼の「ヘルビムの歌」を聞いたロシア人たちが笑いをこらえて聖堂から逃げ出したと本人が述懐している(前掲書)。
ニコライ師は礼拝における聖歌の役割を重要視し、1872(明治5)年に詠隊学校を開いた。ヤコフ・チハイを中心に指導が行われ、聖歌の他に誦経、聖体礼儀式順を学び、併設された伝教者学校の講義も聴講し、卒業生は聖歌教師として各地で活発な伝道活動を行った。『宣教師ニコライの日記抄』に1881年上州東北巡回の際、ロマン千葉などの指導によって地方の信徒が上手に聖歌を歌っていた様子が書かれている。師は聖歌に厳しかったと言われるが、歌の上手下手ではなく、祈祷の流れを中断するような歌い方を叱責した。
また詠隊学校の希望者にはバイオリンやピアノなどの器楽、和声学、作曲編曲も教えられ、当時としては最高水準の音楽教育が施されていた(『キリスト教徒日本の洋楽』)。また東京で四部聖歌を行うために女学校を開設した。ロシアでは一般的に高声部は少年が受け持ったが、日本ではいち早く女声が取り入れられた。
参考文献:中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社、中村健之介訳『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館 、三井道郎『回顧断片』三井道郎回顧録 私家版、長縄光男『ニコライ堂の人々』現代企画社など。