なごや聖歌だより
2005年11月号

分裂から一致へ

右は降誕祭のイコン。悪魔が賢そうなおじいさんの姿で現れ「処女が神の子を産んだ?そんなことを本気で信じているのかい」と、この世の常識を親切そうに語りかけます。イオシフに疑いの気持ちを吹き込み、マリアやイイススから引き離そうとしています。

 悪魔のしわざは「分裂」です。人の心に不信をささやき、人を神から、人を人から分離させます。人との関わりをわずらわしいと思わせ、人を「ひとり」にしむけます。世の中が便利になって人を頼ることも少なくなりました。アダムとエヴァが罪に陥ちたときから、人は分裂の道を歩み続けてきました。
 ハリストスの教えられた教会の祈りは共同の仕事です。正教会の奉神礼は今でもとても「不便」な仕組みになっています。祈祷書は何冊にも分かれ、司祭や輔祭、聖歌隊、誦経者など様々な役割があって、ひとりではできません。楽譜どおり歌っても、個人の歌がどんなに上手でも、それだけではいいお祈りになりません。
 聖歌は神への捧げものです。しかも共同の捧げものです。チームワークが大切です。互いに聴き合い心を合わせ、ひとつの教会の声となるとき、たとえようもなく美しい聖歌が生まれます。私たちはひとつのカップからハリストスのご聖体を受け、教会は喜びに満たされます。聖神の恵みです。その喜びの暖かさを胸に「平安にして出ずべし」という祝福に送られてそれぞれの生活の場に帰り、そこで神の愛を育てます。
 奉神礼は力をあわせて働く喜び、至聖三者(三位一体)の神にある「自由でありながらひとつ」という愛の一致を学ぶ場でもあります。
 私たちは悪魔による「分裂」から神の一致の道を歩み始めます。


連載



2.神の安和、神の憐れみ


大連祷 「我等安和にして主に祈らん」、
「主 憐れめよ」
Κύριε έλέησον
Господи помилуи
Lord, have mercy.



 日曜日の朝聖体礼儀に集り「父と子と聖神の国」への旅立ちを「アミン」と確認した私たちは次のステップ、大連祷(教会の共同の祈り)へと進みます。輔祭(司祭)が様々な願いを「・・・祈らん」と唱え、信者は「主憐めよ」と答えます。

 始めに「安和(平和)にして」主に祈るように促されます。「祭壇(宝座)に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを思い出したなら、・・・まず行ってその兄弟と和解し、帰ってきて、供え物をささげることにしなさい(マタイ5:24)」14世紀のビザンティンの聖師父ニコラス・カバシラスは「安和」には神への感謝と痛悔(悔い改め、メタノイア回心、神の方へと生き方の向きを変える)が含まれると言います。教会は神を信じるものが互いに赦し合い、神への愛、お互いの愛によって結ばれた集まりであることが求められます。

 次に「上より降る安和」と「たましい霊の救い」が祈願されます。イイススは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」「そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる(マタイ 6:33)」と言い、「私の名によって(私の示した教えや生き方に従って)願うことは何でもかなえてあげよう(ヨハネ1:13)」と約束しました。カバシラスによれば「上より降る安和」は「人知を超えた神の平和」を「霊の救い」は「神の国」を表します。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをハリストス・イイススによって守るでしょう(フィリピ4:6-7)」キリスト教徒は何より先に神の平和と霊の救いを求めるように教えています。だから神の平和と霊の救いを真っ先に祈願してから、具体的な願い事が次々と唱えられます。神の教会の堅立と信徒の一致、参祷者のため、神品のため、国の統治者のため、町のため、世界のため、気候や収穫、難儀する人々のためにも祈ります。

 さて、司祭(輔祭)が唱える願いのことばに続いて、信徒は「主、憐れめよ」と繰り返し歌います
 ところで「憐れみ」は日本語の「可哀想に思う」とか「人に情けをかける」以上の、もっと大きな、決して変わらない、豊かな神の愛を表しています。神に「憐れみ」を求めることは「神の国」を求めることと同じだと言われます。ハリストスは「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい(マルコ11:21)」と言いました。私たちが「憐れみ」を願う前から神の「憐れみ」は既に与えられています。ではなぜ、いちいち祈らねばならないのでしょうか。

 人は神に「祈るもの」として創造されました。神はアダムにすべての生き物に名を付け、神に祈り神の義に従って正しく治めるように命じたのに、悪魔のことばに従ってしまいました。そして人は祈ることよりも、自分の技量やこの世の知恵を優先させるようになってしまいました。

 イイススは肉体をとり人となりました。ご自分の姿を通して、神に祈り神の旨に従う人間本来の生き方を教えられました。「祈る」とは神と交わり、神の声を聴くことです。

 イイススはお弟子さんたちに祈り方を教えました。神と交わる方法を自分の選んだ弟子だけに教えました。それは弟子から弟子へ、教会から教会へと伝えられ、こうして今、私たちが集い祈っています。私たちはイイススの孫孫孫・・・弟子です。神が私たちに祈ることを求めておられます。

 私たちの「主憐れめよ」は名古屋の片隅の小さな祈りですが、世界中の教会、天の教会と繋がり合っています。教会はすべての人類、すべての被造物のために祈りを捧げます。この祈りは宇宙全体のための祈りです。

参考資料:新共同訳聖書、「聖体礼儀注解」(ニコラス・カバシラス)、正教基礎講座「奉神礼」(トマス・ホプコ著) トマス・ホプコ講演集CD「天主経」 、「正教会455の質問」(スタンリー・ハラカス)