なごや聖歌だより | |
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2005年1月号 |
日本語を歌う
正教会はビザンティン時代から「ことば」自体のもつ音楽性やリズムから聖歌を発展させてメロディを作ってきました。昔の聖歌者にとって、ことばとメロディは一体でした。器楽をベースにして音楽を発展させた西洋近代音楽とは根本的に異なります。今は便宜的に西洋の楽譜を借用していますが、「ことば」を殺してまで楽譜に縛りつけるは本末転倒です。
もうひとつ、西洋との相違は、正教会では現地のことばで歌うことを伝統にしてきたことです。ローマ教会では長い間ラテン語だけを聖歌に用いてきました。一方、正教会では意味を理解して現地語で歌うことが重要視されてきました。ロシアは長い時間をかけて、ギリシア語の歌をスラブ語に訳して歌い、素晴らしい聖歌を生みました。
私たちはロシアから美しい聖歌の伝統を頂きました。日本正教会の先人たちは苦労してそれを日本語に編曲しました。文法の違うスラブ語のメロディに日本語を乗せるのは大変な苦労だったでしょう。オリジナルの音楽がきれいだから原語で歌うという選択は正教会の祈りの伝統にはありません。
正教会の伝統にのっとって、どう歌えば、より美しい、聞いてわかりやすい日本語聖歌になるか、ひとりひとりが考えてみましょう。
日本語を音楽に乗せて歌おうとするとき、一番やっかいなのが「ん」と、つまる音「っ」です。これが日本語には頻繁に出てきます。『ニコライ大主教と明治日本』(P77、講談社)を読むと「ん」の発音でロシア人の音楽常識と日本人の日本語感性が食い違った様子が語られてます。ロシア語には日本語のような「ん」や「っ」のような発音はありません。
さて、日本語らしく歌うには、まず、読んでみる、棒読みで唱えてみることをオススメします。
「爾の国に来たらん時、我等を憶い給え」
「全くきずなき生神女」などなど
普通に読むとどこにアクセントがついていますか。どこが自然とのびますか。
何の気なしに歌うのではなく、この祈祷文の日本語は本来どういう音楽を持っているのか、探ってみて下さい。聖歌には神さまのメッセージを聞く人の心にきちんと伝えるという責務もあるのです。正しい日本語で歌うことはその第一歩です。歌い方で随分違ってきます。
聖歌に限らず、声楽でも歌謡曲でも「ん」の「っ」の歌い方は難所です。プロの歌手がどう歌っているかも参考になりますよ。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
13.西洋化の時代
−ロシアの合唱聖歌・国民楽派−
19世紀の末から20世紀初頭の帝政末期は、ロシアがロシアの独自性を求めた時代であった。ところが聖歌の分野は検閲制度に阻まれ、新しい動きは皮肉なことに教会ではなく当時盛んに行われ始めた聖歌コンサートから始まった。コンサートには検閲の権限が及ばなかったからである。
まずアルハンゲリスキーはレベルの高いプロの合唱団を組織し、ペテルブルグを中心にコンサートを始めた。
モスクワでは総主教制の廃止から不遇をかこっていたモスクワ・シノド合唱団が息を吹き返した。チャイコフスキーの推薦でオルロフやスモレンスキーが付属聖歌学校の指導に当たり教育改革、音楽的レベルアップを行った。聖歌学校とモスクワ音楽院は兼任の教授陣も多く、緊密な関係にあった。
西洋音楽を修めた音楽家たちはロシア独自の多声聖歌を追求し、同時に聖歌にふさわしい指揮法、パートの編成、表現方法なども模索した。しかし、リヴォフスキーのように従来のドイツ風宮廷教会聖歌路線を継承し、あらゆる強弱やニュアンスを排除した平板な歌い方を「厳格」スタイルとして提唱する人々もあった。逆にコンサートが聖歌発展の中心になったために、現実の教会とかけ離れた芸術追究の姿勢をとった作曲家もあり、状況は混沌としていた。
その中で、カスタリスキー、チェスノコフ、ニコリスキー等は常に現実の教会と関わりながら、聖歌の本質を取り戻そうと努力した。カスタリスキーは古いチャントの作曲方法を再現し、メロディを小さなブロック(旋律定型)に分解し、歌詞のことばに合わせて自由自在に組み合わせ、美しい多声聖歌を作った。また様々な教会に配慮して同じ曲に平易なバージョン(男声合唱、女声合唱、修道院用など)も用意した。彼は現実の教会を離れ芸術性のみを追求する傾向を憂慮し「祈祷文にあふれる聖神と、実際の教会の祈りにある特別の大気に満たされて初めて、神にタラントを与えられた作曲家はよき聖歌を創りだすことができる。」と述べた。
芸術作品として評価されることの多いラフマニノフの聖歌においてもオルロフ、スモレンスキー、カスタリスキーなどの意見が反映されており、特に「晩祷」はズナメニイ、キエフなどロシアの古チャントのメロディをもとにして、独自の対位法を用いて作られた。
帝政末期は様々な意見が提唱され、様々な試みが行われ、新しい聖歌が次々と生み出された時代であった。残念ながらその動きは1917年の革命によって凍結され、聖歌は「ロシア芸術」の一環としてかろうじて存続してゆく。ラフマニノフを始め、優れた音楽家は次々と欧米へ亡命した。モスクワ音楽院でカスタリスキーの教えを受けたレトコフスキーはアメリカに渡り、古いロシア聖歌のメロディを用い、ことばと音楽が調和うぃた美しい響きの英語の聖歌を創り出した。神戸のエカテリナ加藤都也子姉の聖歌作曲の師でもある。
70年の空白を経て、今ロシアでは様々な試みが始まっている。多くの楽譜が出版され、インターネット上にも様々な聖歌サイトがある。ズナメニーなどの古チャントや記号(クリューキ)の研究活動も行われ毎年モスクワで世界学会も開かれる。聖歌の伝統はある時代の様式において完成されるものではなく、教会の中で新たな「いのち」を受け、「生き」続けている。
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ここまで、初代教会からビザンティン、ロシアの聖歌の発展の歴史を簡単に紹介してきたが、次回からは日本に導入された聖歌の特徴について述べる。
参考資料:ゼルノーフ『ロシア正教会の歴史』日本基督教団出版局、
Gardner “Russian Church Singing” vol. 1, SVS,
Morosan “Choral Performance in Pre-revolutional Russia”(写真も), “One Thousand Year of Russian Church Music” Musica Russica
シノド聖歌学校のスタッフ:前列左から、カシュキン。ニコリスキー、アレマノフ神父(?)、ダニリン、(ステパノフ)、カスタリスキー、メタロフ神父、カリニコフ