なごや聖歌だより | |
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2004年4月号 |
復活祭 ! でもその前に 受難週
聖枝祭から受難週
4月4日の聖枝祭から、教会は復活祭へのクライマックスに入っていきます。土曜日の「ラザリのスボタ」で、死んだラザリをよみがえらせたイイススは、歓呼をもってエルサレムに迎えられます。老いも若きもしゅろの枝を振り、服を道に敷いて主の入城を祝います。
月曜日から水曜日には先備聖体礼儀が行われ、香油を注いだ女の話、ユダの裏切りなどをたどっていきます。木曜日の朝、主が使徒たちの足を洗ったことや、主の晩餐が記憶されます。
木曜日の夜から金曜日の夜のお祈りは是非時間を作ってご参加くさだい。主が裏切られ、あざけられ、十字架にかけられ、息を引き取るまでを、福音書を12カ所引用しながら再現していきます。信徒はロウソクを手にひざまずいて福音書に耳を傾け、受難を表す聖歌を歌います。
金曜日の午後の祈りで、十字架からイイススが降ろされ葬られたことをたどり、夜、118聖詠に讃美詞を挟み込んだ長い祈りが行われます。祈りの最後に十字行が行われます。
明けて土曜日朝、まだ高らかな復活の宣言はありませんが、静かに復活が暗示されるかのように、聖堂の覆いと祭服が白にかわります。
正教会の祈りは本当にドラマティックです。私のつたない筆ではとても表せません。どうぞ、一度でいいですから参加してみてください。復活祭の喜びがさらに大きくなります。
聖大土曜日早課の祈り
<金曜日の夜行われます>
布に描いたハリストスの聖像を掲げて十字行をします。とても美しい祈りです。
来て、見てください。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
3.キリスト教の公認(4世紀以後)
儀式の拡大?アンティフォンと聖入
313年に「ミラノ勅令」が出てキリスト教が公認され、やがて国の宗教になると、聖歌も奉事の形も聖堂も大きく変化します。
迫害時代には、結束の堅い秘密集団が隠れて行っていた小さな集会は、何千の会衆が集まり皇帝の列席する巨大な儀式になりました。
各地で大きな聖堂の建築も始まります。右の写真は6世紀に作られたアギアソフィア大聖堂の内部の写真ですが、中央ドームの高さはナゴヤドームとほぼ同じ60メートルもあります。それに伴って礼拝は格段にドラマティックな構成になり、今の形に落ち着くのがだいたい11世紀ごろと言われます。
「聖書の読み」や「使徒の回状」「パンを割く儀式」を核として、様々な動作や聖歌が付け加えられ、加算的にふくらんでいきました。たとえば、6世紀にユスティニアヌス帝が「神の独生子」を加え、聖人を記憶する祭日のトロパリなども加えられました。
4−5世紀、金口イオアンや聖大ワシリーの時代には、聖体礼儀の始まりの大連祷や三つのアンティフォンは、まだ聖体礼儀の一部ではありませんでした。最初のアンティフォンは聖堂へ向かう行進の歌、市中の広場や聖堂の前で集まって歌う歌でした。皇帝や総主教も大群衆とともに市中を練り歩き、最後に聖堂の前でその日のトロパリや「聖なる神」が歌われ、聖堂内に入ってゆきます。アギアソフィア大聖堂には皇帝と総主教が通る正面の「王門」の他に54の門があり、信徒たちも一気に聖堂になだれ込み、「聖入」はまさに「聖堂に入る」ことでした。
【聖詠と聖歌を交互に?アンティフォン・応答形式】
決まった聖詠の間に、リフレインとして同じ聖歌を繰り返す方法は、この時代からアンティフォンなどで用いられていた伝統的な形です。楽譜や祈祷書がなかったころ、ソロの聖歌者が一節を歌い、会衆はそれを覚えて何度も繰り返す方法はとても便利で、しかもアンティフォンの場合、左右に分かれた会衆や聖歌隊が交互に歌いますから、大変ダイナミックで何千の会衆を祈りに巻き込む効果もありました。
たとえば「聖なる神」はこんなふうに実施されていました。
○ ソロ聖歌者が「聖なる神・・・」を3回歌う
○ 会衆「聖なる神」を3回歌う
○ ソロ聖歌者聖詠を区切って読む。一句ごとに会衆は「聖なる常生の者よ、我らを憐れめよ」を繰り返す。
○ ソロ聖歌者 「光栄は」「今も」
○ 会衆「聖なる常生の者よ、我らを憐れめよ」
○ ソロ聖歌者が「聖なる神・・・」を3回歌う
○ 会衆「聖なる神」を3回歌う・・・・ という具合です。
今でも、主教祈祷の時、聖歌隊と神品の掛け合いの歌が歌われ、美しい行進が行われ、主教が「神よ、天より臨み観てこの葡萄園に降り」という第79聖詠が読まれます。これは当時の名残りと言われます。
【復活祭は第67聖詠と聖歌】
復活祭の時、十字行の後、聖堂の門の前に集まって、司祭がまず3回歌い、聖歌隊が歌い、さらに司祭の第67聖詠1から6節「神は興き・・・」の後に続いて、トロパリ「ハリストス死より復活し」を繰り返し歌うのも、古い形を今に残していると言えるでしょう。