なごや聖歌だより
2004年2月号

大斎を楽しもう!

 いきなりヘンなタイトルですが、大斎平日のお祈りへのお誘いです。日曜日だけでは大斎の味わいがわかりません。2月23日からの大斎第1週は火曜日以外毎日、次の週からは水曜日に大斎のお祈りがあります。(日程は教会会報をみてください。)
 長いです。単調です。地味です。でも静かに心に染みこむ心地よい甘やかさがあります。華やかな歌もなく、退屈ですが、この地味な祈りを経ると、復活祭の輝きが違ってきます。一度でもいいですから、
‘ためしに’参祷してみてください。
 聖歌の面だけを見ても、大斎にはたくさんの美しい歌が作曲されています。なぜこんなにきれいな音楽が与えられるのでしょうか。悔い改めの涙に融かされて、心の血流もサラサラになっていくのかもしれません。一緒に祈りましょう。
 
ロシアの作家、ドストエフスキーは先備聖体礼儀をこんなふうに表現しました。死を目前にしたゾシマ長老回想シーンです。このとき、「願わくは我が祈りは」が歌われ、司祭は静かに炉儀を行います。


まだ八歳の頃、・・・・母が教会の昼の礼拝に連れて行ってくれた。明るく澄んだ日で、今こうして思い出していても、香炉からかぐわしい煙が立ちのぼって、静かに上に舞いあがってゆき、上からは丸天井の小さな窓を通して、教会の中にいるわれわれに神の光がさんさんと降り注ぎ、香の煙がその方へのぼってゆきながら、光の中に融けこむかのようであったのが、あらためて目のあたりにみえる心地がする。私は感動して見つめ、生まれてはじめてそのとき、神のことばの最初の種子を、自覚して心に受け入れたのだ。やがてひとりの少年が分厚い、運ぶのもやっとのように当時のわたしには思われたほど大きな本を捧げて、会堂の中央に現れ、経卓の上に載せると本を開いて読み始めた。

カラマーゾフの兄弟、第6編「ロシアの修道僧」
新潮文庫 原卓也訳から

連載
聖歌の伝統 

正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤま


 エルサレムで「イイスス・ハリストス」の死と復活を目撃した弟子たちは、その福音を広めるために世界中に出て行きました。土地土地で、信徒たちは毎週集まって、主イイススがなさったように、主イイススに教えられたように祈り歌いました。

 私たちが今行っている祈りは、確かに使徒たちから渡され、正しく受け継いだものですが、二千年前に全く同じ形で聖体礼儀が行われていたのではありません。最初は神を讃美する短い祈りや、文字通りパンを割く簡単な儀式だったものが少しずつ大がかりになり、その地方の文化や時代の特徴も吸収して今の形になったと言えます。ですから、もともと一つの教会であったローマ教会のミサにも共通点がたくさんあります。

 新約聖書を見ると、当初から聖歌を歌っていた様子がうかがわれます。マルコ伝16:24では「さんびを歌ったあとオリブ山にでかけていった」とあり、このさんびはユダヤ教の伝統的な讃歌である第112〜117聖詠といわれています。またパウエルもエフェス人への手紙で「主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい」と勧めています。もちろん楽譜などの記録はありませんから、実際にどんなメロディで歌っていたのかはわかりませんし、多分、現代人がイメージするような本格的な「歌」ではなく、フシのついた「読み」程度のものだったと思われます。聖体礼儀には聖書の読みと天主経以外に、新約聖書の引用が114カ所あるそうですが、逆に、祈りとして当時行われていたことを記録したものも多いと思います。

 四世紀にキリスト教が公認されると礼拝も次第に大がかりになり、聖歌も発達します。西方ではミラノ典礼、モサラベ典礼、ローマ典礼などが生まれます。九世紀にはスラブ地方への宣教が始まり、スラブ語の聖歌が生まれ、ロシアでは十七世紀頃から西洋の影響を受け合唱聖歌(多声聖歌)が歌われるようなりました。
 エルサレムから始まって今や世界中でさまざまな歌い方でうたわれる東方正教会聖歌の歴史はあまり紹介されていませんが、聖歌と礼拝のおいたちをたどり、私たちが受け継ぎ次の世代に手渡す伝統を考えてみたいと思います。


1.使徒たちの時代
 イイススも使徒たちもユダヤ人でしたから、新約聖書にはユダヤ教の神殿の祈りや会堂(シナゴーグ)の祈りに参加していた様子が書かれています。神殿はエルサレムにあって、祭司による犠牲の祈りが、さまざまな楽器や二隊に別れた聖歌隊を伴って大がかりに行われ、一方シナゴーグは各地にあって、旧約聖書や律法の書を読み解説するのが中心でした。 
 主が昇天し五旬祭の日に聖神を受けた後も、使徒たちは夜集まって、キリスト教の「パンを割く」儀式を信徒の家庭で行うとともに、ユダヤ教の神殿や会堂にも参祷していました。
 やがて、使徒行実にあるように、キリスト教徒はユダヤ教会から追放され、独自の祈りの場をもつようになりました。二世紀頃には聖書の読みを中心とした「啓蒙礼儀」とパンを割く儀式すなわちご聖体を分かち合う儀式が一体となって、日曜日の朝行われるようになります。
 パウエルのコロサイ人への手紙3:16には「詩とさんびと霊の歌とによって」(正教会訳では「聖詠と歌頌と属神の詩賦を以て」)、とありますが現代の学者の研究では三つには厳密な区別はなく、初代キリスト教徒たちはユダヤ教の祈りの形をもとにして、主イイススを讃美する祈りを加えて歌っていたと思われます。当時のシナゴーグに倣って楽器は用いられませんでした。
 コリンフ前書14:15などから推測すると、代表が祈りのことばを独りで唱え、会衆は「アミン(その通りです)」、「アレルイヤ」、「オサンナ」、あるいはよく知っている詩句を繰り返し唱和して答えたようです。
 新約聖書を見ると、たとえば、ローマ書15:33「願わくは平安の神は爾等衆人とともに在らんことを、アミン」ペトル前公書4:11「光栄と権能とは彼に無窮の世に帰す、アミン」などがあり、私たちの礼拝の中に、聖書の時代の古い祈りの形が連祷の結びや司祭の祝文への応答として生きていることがわかります。祈りのことば(祝文)自体も何らかの節回しをつけて歌われたと思われます。