なごや聖歌だより
2004年12月号

耳をすませば・・・
まわりの声を聴きながら

 聖歌を習うのに一番大切なことは耳をすませてまわりの声を聴くことです。同じパートの人の声、それから隣で歌っておられる別のパートの人の声、神父さんの声、まず耳を傾けてください。よーく聴いて、それから一緒に歌って下さい。指揮者の指示も見て下さい。
 まわりの声を聴かないで大声で歌うと、自分もまわりの人も何がなんだかわからなくなってしまいます。よく聴いていないときは、思いもよらず大きな声がでているものです。
 「聴く」ことは音楽の第一歩です。正教会の聖歌はいつの時代にも口から耳へと伝えられてきました。練習の時も、お祈りの時も、いつでも耳をすませて下さい。


連載
聖歌の伝統 

正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤま


西洋化の時代
−ペテルブルグ宮廷聖歌、イタリア風からドイツ風へ−

 18世紀、19世紀のロシア聖歌の主導権はペテルブルグの宮廷と聖歌隊長にあった。それまで聖歌発展の中心を担ってきた総主教聖歌隊は、総主教座の廃止にともないシノド聖歌隊としてモスクワの生神女就寝聖堂で細々と聖歌を歌うめだたない存在になってしまった。 
 エカテリナ女帝はガルッピやサルティなどのイタリア人音楽家を招き、聖歌にイタリア音楽を持ち込んだ。本来「領聖詞」が指定されている領聖前に合唱コンチェルトを導入した。領聖を待つ輝かしい時間は、奉神礼外の歌詞によるイタリア風聖歌の新作発表会の場と化してしまった。
  ボルトニヤンスキーは幼少から宮廷聖歌隊で歌い、イタリアに留学し、帰国後宮廷聖歌隊の団長に着任した。彼の音楽は全くイタリア的であったが、奉神礼に対する深い敬意があった。ベルカント唱法を導入し、正しい発音で歌うことを教え、美しい響きをもつ「教会的な」聖歌をめざした。ボルトニヤンスキーの功績によって宮廷聖歌隊の音楽レベルは上がり、ベルリオーズやシューマンなど諸外国の音楽家から賛辞を得るようになった。
 ボルトニヤンスキーは他の教会も宮廷教会の範に倣って歌うようにもとめ、弟子を聖歌者として各教会に派遣するとともに1816年から新しい聖歌の作曲を制限する検閲を行った。検閲権は教会ではなく宮廷聖歌隊の団長であるボルトニヤンスキー自身が握っていた。
 彼の死後、この方針はさらに強力に推し進められた。父フェオドル・リヴォフに続いて団長となったアレクセイは、皇帝ニコライ一世の強い意向をくんで、すべての聖歌を単純化パターン化して和声付けし、聖歌の統一を図った。1848年に標準聖歌集(オビホード)を出版し、全ロシアの教会に対し、ペテルブルグの宮廷聖歌に倣って歌うように強制し、さらに厳しい検閲を行った。
 言語とメロディが独自の方法で結ばれ、地域や修道院によって豊かな多様性を育んできたロシアの伝統聖歌(チャント)は同じ金型で作られた単純な和声パターンに押し込められてしまった。続くバフメテフも同じ方針をとった。
 リヴォフ・バフメテフの標準聖歌集は当時から、伝統チャントのメロディを歪めたこと、奉事規則(ティピコン)の調の指定違反、開離(広いハーモニー)のため音が高すぎて地方教会で歌えないなどの欠点が指摘され幾分改訂されはしたが、そのまま全土で使い続けられた。
 
  宮廷と高級貴族を中心に取り入れられた西洋音楽は次第に民衆に浸透し消化されていった。教区教会を中心に市民階級のアマチュア聖歌隊が生まれた。1861年の農奴解放以後、国民的な合唱運動が起こり、合唱としても曲目の面でもめざましい発展が起こった。
 またロシア音楽史の研究が進み、ラズモフスキーやメタロフはロシアの古い聖歌のシステムであるズナメニイを研究し、そこから単なる西欧の模倣ではない、ロシア独自の合唱聖歌が模索されていった。
 ロシア聖歌の自由を押さえ込んできた検閲も、1880年チャイコフスキーの「聖体礼儀」の出版をめぐるトラブルで事実上崩壊した。バラキレフとリムスキ・コルサコフなどの新しい視点を持つ優れた音楽家が宮廷聖歌隊長に就任し、モスクワではオルロフ、スモレンスキーがシノド聖歌隊の指導を始め、アルハンゲリスキーが初めて女声を加えた聖歌隊を組織した。新しい時代の幕開けである。

 
参考資料:ゼルノーフ『ロシア正教会の歴史』日本基督教団出版局、
Gardner “Russian Church Singing” vol. 1-2, SVS,
Morosan “Choral Performance in Pre-revolutional Russia”, “One Thousand Year of Russian Church Music” Musica Russica