なごや聖歌だより | |
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2004年11月号 |
誦経は歌の原点
棒読みで歌ってみよう カッコよくいえばレチタティーヴォ
これから降誕祭の聖歌練習が始まります。楽譜と歌詞の両方を見て初見で歌うのは至難のわざです。
まず、祈祷書か楽譜の歌詞だけを見て同じ音の上で棒読みで歌ってみましょう。たとえばトロパリ。
「ハリストス我が神よ爾の降誕は我等に智恵の光を照らせりこれによって星につとむる者は星に教えられて爾義の日を拝み爾上よりの東をさとれり主よ光栄は爾に帰す」
♪どう歌われますか。これを「は・り・す・と・す・わ・が・か・み・よ」と音節ごとに切ってしまったら意味をなしません。多分「ハリストス/我が神よ/」と区切って歌われるでしょう。
♪つぎに、どこにアクセントを置きますか。「ハリストス 我がかみよ。」でしょうか。
♪姿勢、声にも、まわりの人にも気を配って歌ってみてください。
♪それからもう一つ、私は一番大切なことだと思いますが、歌詞のことばを考え味わってみてください。歌謡曲でもクラシックの声楽曲でもどんな歌でも、歌うときに意味を考えませんか。まして聖歌は神さまとのメッセージです。
「ハリストスがこの世にお生まれになった、私たちに智恵の光、ご自身を明かし照らしててくださる。星(科学)を調べてきた博士たちは、星に導かれて、ただの太陽でない本当の太陽を拝み、正しい方角を悟ることになった。わたしたちもあなたを讃美します。」 ☆わからないときは遠慮なく神父さんに聞きましょう☆
意味を理解して、心を込めて歌えば、一本調子の棒読みでも最高の歌になります。最もシンプルですが、立派な聖歌です。楽譜がなかったり難しくて歌いにくい歌はこれでも十分。聖歌はもともと誦経から生まれたました。もっと生き生きと、もっと彩り豊かに歌い上げたい、そんな気持ちから色々なメロディや歌い方が発展していきました。だから誦経読み棒読みで歌うのは、言ってみれば正教会の伝統の原点に返ることです。
さてでは、今度はこの歌詞を、ニコライのトロパリ「使徒と等しく」と同じメロディで歌ってみてください。4調トロパリのメロディです。楽譜は見なくて大丈夫です。大丈夫、歌えます。
連載
聖歌の伝統
正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤまで
11.西洋化の時代
−ニーコンの改革と宮廷聖歌−
ロシア教会は苦難続きであった。モンゴルの支配が終わり、モスクワ大公を中心に国家が整ってきた17世紀、教会は大分裂を起こした。長いモンゴル支配の間にコンスタンティノープルや他の国の正教会との交流が断たれたために、ロシアで行われていた儀式はギリシアと細かい点で異なってしまっていた。
皇帝アレクセイの支持で総主教の座に着いたニーコンは1653年の大斎に礼拝儀式の変更を強引に行い、十字は三本指で切るなどギリシアの方式に従うように命令を出した。この命令は古い儀式に慣れていた国民に深い衝撃を与え、司祭アワクムを中心とした反対派は激しく抵抗し、弾圧され追放された。古い儀式を守る一派は旧儀式派(分離派)と呼ばれる一派を形成した。
聖歌の面では、ニーコンと皇帝はウクライナからモスクワに歌い手を招いた。前回述べたように、西南ロシアはカトリックの影響を受け、西洋和声に基づいた多声聖歌が歌われるようになっていた。それまでは祝福を受けた聖歌者がクリロス(教衆席、イコノスタスの前あたりの高くなったところ)で単旋律聖歌を歌っていたが、聖堂入り口の上にバルコニーが設けられ、そこで歌い手が西洋風のアンサンブル(重唱)の多声聖歌を歌うようになった。バルコニーもまた西洋の影響で導入されたものだ。
続くピョートル大帝は一層の西洋化を推し進め、総主教を廃し、ドイツに倣って国家の一機関として宗務院を設置し、教会を国家の管理下に置いた。
ピョートルや次のアンナ女帝の時代にもウクライナで聖歌歌手を募集し、聖歌以外の宮廷行事にも歌わせた。後には自分の領地の農奴から声のよいものを選び養成した。当時は今のような混声の合唱編成ではなく、もっと小さな編成で、2−3人の男声のバス、テノルに加え、少年数人がソプラノ(デスカント)やアルトパートを歌った。
聖歌者は至聖所と聖所をつなぎ、教役者の一員として働くものという本来の奉神礼的な役割をはなれ、儀式を飾る音楽家へとなっていった。
旧儀式派は今でも古い単旋律聖歌を歌う。
参考資料:ゼルノーフ『ロシア正教会の歴史』日本基督教団出版局、Gardner “Russian Church Singing” vol. 1-2,
SVS, Morosan “Choral Performance in Pre-revolutional Russia”, Musica Russica
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