正教会聖歌の特徴


正教会における聖歌の位置づけ

他教会でも本来、聖歌あるいは教会音楽は教会の祈りの中で、祈りのために発展してきた。しかしルネサンス以降、教会芸術を人間のものにして、教会とは別個の発展を許してきた西方教会と異なり、正教会では基本的に聖歌は礼拝のうちにあり続けた。

「礼拝」とは信徒が集い「教会」を形成し、教会として神と出会い神と交わる場である。聖歌は様々な祈祷や儀式と有機的に結合し一貫した全体として礼拝を生かす。聖歌を歌うことは礼拝行為であり、原則的には聖歌だけを切り離したり曲目を自由裁量で選んだり個人の信仰表現として自由作曲したりすることは許されない。聖歌の音楽的要素は歌詞となる祈祷文の理解と記憶を助け、礼拝の流れを支える。聖歌者は音楽家というより聖職者に準じる役職とされ、古来イコノスタス(Iconostasis)の左右の幾分高くなった部分クリロス(Kliros)に立ち、至聖所(sanctuary / altar)で聖職者が行う祈りと聖所(nave)の会衆の祈りをつなぐ役割を果たした。何をどのように歌うかは祈祷書やティピコン(Typicon礼拝の規則書)であらかじめ決められている。

正教会の礼拝はローマ・カトリック教会のミサ通常文固有文の区別と同様に、常に変わらない枠組みの中に日、週、祭日、季節(復活祭期斎期など)によって入れ替わる要素が挿入される。「聖体礼儀」(Liturgy)では変化する要素は前半の啓蒙礼儀にわずかにあるのみで、後半の信者の礼儀には変化する材料はほとんどない。逆に晩課(vesper)や早課(matins)では変化する材料が多い。

正教会聖歌の音楽的特徴

 器楽は伴奏といえども一切用いられない。一般的に、キリスト教礼拝の出発点となったシナゴーグで器楽が用いられなかったこと、器楽は異教的で人々の心を惑わせると警戒されたことから説明されるが、最大の理由は「ことば」(テキスト)による礼拝が重視されてきたことにある。ことばで表された信仰上の教義や霊的な導きは、音楽をともなうことで記憶と意識に深く刻まれ、ふさわしい感情が導かれる。音楽は神のことばと祈りを運ぶ、いわば「乗り物」としての役割を果たす。

正教会の礼拝はすべてが歌われると言っても過言ではない。説教以外に普通の話し方は行われず、祈祷書のテキストはさまざまな段階の音楽に乗せて歌われる。誦経(詩編などの誦読psalmody)は歌としては非常にシンプルな形で大半が一つの音高上で唱えられ、最初と最後に一音か二、三音のメロディがつけられる。司祭(priest)や輔祭(deacon)が祈願を唱え信徒が「主憐れめよ」と応答する連祷や、聖書の読みはエクフォネシス(Ekphonesis)と呼ばれ、誦経より多少変化のあるメロディがつけられる。はっきりと歌と認識される聖歌もその日の祭日性の度合いによって音楽付けが異なり、同じテキストが斎期(lent)や平日ではシンプルに歌われ(あるいは誦され)、復活祭や降誕祭などの大きな祭では大変華やかに歌われる。

正教会聖歌には8週間で一巡りする八調(オクトエコスoctoechos)と呼ばれるシステムがある。ビザンツにおいては8つの音楽的な旋法(echos)と旋律定型の集まりで聖歌の旋律を規定する。八調の導入は伝統的にダマスカスのイオアンネス(Ioannes of Damascus)に帰されるが、8−9世紀頃シリアから伝えられたとされる。ロシアに入ってからは旋法としての特徴は失われ、旋律定型として特定される。19世紀に西方の影響を受けて、ロシアのオクトエコスを古典ギリシアの八調に由来するという説が出されたが、ロシアのオクトエコスはもちろんビザンツのオクトエコスも古典ギリシアの八調とは関連を持たないと言うのが現代の通説である。

聖歌の成立と発展

正教会では全教会的な組織的典礼刷新は行われなかった。それゆえユダヤ教を背景とした初代教会の伝統の上に時代や地域の状況に応じて生まれたさまざまな礼拝形式や聖歌が重層的に積み重なっている。聖歌はローマ帝国各地で一様ではなく、アレキサンドリア、アンティオキア、エルサレムなど初代キリスト教諸都市を中心に、ユダヤの伝統と古典ギリシアの芸術的技巧的成果を吸収して徐々に発展した。しかし、音楽は異教の神殿や劇場で用いられたために礼拝への導入には修道院などからは厳しい反発があり、教父の著作も概して慎重で行き過ぎを戒めている。たとえばアレキサンドリアのクレメンス(Clement of Alexandria、150頃から215頃)は半音階的な旋法、楽器の使用、ポリフォニーを禁止した(Paedagogus II. 4)。また教父たちは異口同音に「ことば」の優位性を主張した。

聖歌は主にエルサレムやコンスタンティノープルの大聖堂で発展した。キリスト教が国教となり皇帝や総主教が参列するのにふさわしい荘厳な儀式が求められ、教会暦が整備され祭日が増加したため、4世紀から9世紀にかけて新しい聖歌(hymn)が次々と作られた。最初に現れるのはトロパリ(讚詞troparion)という4−5行からなる単節の短い詩である。4世紀あるいはそれ以前から作られ、単独で歌われることもあったが詩編の諸句の間に挿入され会衆のリフレインとして用いられることも多かった。会衆唱はビザンツ聖歌の特徴のひとつで、ソロの聖歌手が詩編を句ごとに区切って歌い、その間々に会衆は詩編の一節やトロパリの一節(あるいは全体)をリフレインとして繰り返した(応答唱、レスポンソリアル)。左右二隊に分かれて掛け合いで行うこともあった(交唱、アンティフォン)。会衆は聖歌を歌って礼拝に積極的に参加し、礼拝の共同体性が高められた。一方修道院では音楽は「悪魔の誘惑」であるとして遠ざけられ、詩編を絶え間なく誦読するするシンプルな祈りが行われた。大聖堂の礼拝と修道院の礼拝は全く孤立していたわけでなく、互いに影響を受けながら発展し最終的に統合されていった。やがてビザンツ帝国の国力が衰微してくると聖職者が何百人も参加する大がかりな大聖堂の儀式(sung office)は縮小され、修道院の形をとり入れた簡素なものへと移行していった。

新しい聖歌の創作も10世紀頃を境に行われなくなった。聖歌は9世紀頃から次第に整理されて12世紀ごろまでに八調経(Parakletike、Octoechos)、三歌斎経(Lenten Triodion)、五旬経(Pentecostarion)、月課経(Menaion)などに納められた。
トロパリオン以外の他の主な聖歌の形としては以下のものがある。スティヒラ(讃頌sticheron)は単節の詩がいくつかセットになったもので、詩編の間に次々と異なる詩が挿入されて歌われる。コンダク(小讚詞kontakion)は6世紀頃発達した長い詩で、同じ詩形をもつ単節の歌が連なり、祭の内容を絵画的に歌い上げる。カノン(canon)8世紀ごろから作られ旧約歌頌(canticle, canticum)をベースにしたテーマを新約における成就と結びつけて歌う。

ビザンツ聖歌

主として330年にコンスタンティノープルがローマ帝国の首都となり1453年に滅ぶまで、東地中海のギリシア語圏を中心に発展した聖歌の伝統をいう。広義にはビザンツ典礼に従うすべての教会の伝統が含まれ、特にギリシアとギリシア系の教会の伝統を言う。

聖歌は初代キリスト教諸都市を中心に、ユダヤ教の伝統の上に古典ギリシアの芸術的技巧的成果を吸収しながら徐々に発展していった。初期ビザンツ聖歌は会衆の歌であり、口伝承であったため記譜されず、実際にどのように歌われていたかはわからない。音楽的記譜(ネウマ譜)写本は9世紀以前には存在しないが、聖書朗唱の節回しをエクフォネシス(ekphonesis)記号で記したものは8世紀から存在する。当時の聖歌は公会議の記録や教父の著作から類推することができる。

 4世紀、キリスト教が国教になるとエルサレムやコンスタンティノープルには大聖堂が建てられた。すると、それにふさわしい厳粛な儀式が求められ、また祭日が増加したために新しい聖歌が次々作られた。また誰もがキリスト教徒になる時代には信徒の啓蒙教育は教会の急務となった。歌には祈りの共同体性を強め、教えを記憶に留める効果があった。しかし音楽は異教的な神殿や劇場で用いられたため礼拝への導入には修道院などから厳しい反対があり、修道院では詩編誦読を中心にしたシンプルな祈りが続けられた。聖歌の発展は街の教会が中心になった。

たとえば、後にミラノのアンブロシウス(Ambrosius of Milan)などによって西方へも紹介されるアンティフォン(Antiphon交唱)や応答唱(Responsorial)は会衆の積極的礼拝参加を促した。アンティフォンは市中を巡り聖堂に向かう行列に用いられた。行列は二隊に分かれ、ソロの聖歌者が詩編を歌って先導し、一節(Verse)ごとに会衆が短いリフレインを掛け合いで歌った。リフレインは詩編の一句のこともあればトロパリ(讚詞Troparion)の末節の場合もあり、いよいよ教会の扉の前に到着すると、その日のトロパリを繰り返した。「小聖入」は今では聖職者が福音書を持ってイコノスタスの王門を通る儀式に縮小されてしまったが、かつては総主教と皇帝が「王の門」(Royal door)と呼ばれる門をくぐり、全会衆が一体となって聖堂すなわち「神の国」に入る入城の歌(Entrance)であった。

また、4世紀バルデサネス(Bardaisan)等は異端のグノーシス主義(Gnostic)の教えを歌に乗せて広めていた。これを憂慮したシリアのエフライム(Ephraem of Syria)はその手法を逆手にとりキリスト教の教義を彼らの歌のメロディに乗せて広め大きな勝利を得た(ソゾメノスの教会史)。聖歌作者は作曲家であると同時に詩人であった。

 東方では異端論争が次々と起こったために教義を教える歌も多い。たとえば今も聖体礼儀の始まりに歌われる「神の独生の子」([希]O monogenh;" uiJov")はユスティニアヌス帝(527-65)作とされるが、カルケドン公会議(451)の決定を表して、主イエス・キリストが完全な神であり完全な人であることを歌う。ほかにも祈りの各所に聖三者讚詞(Triadikon 三位一体の神を讃える)や生神女讃詞(Theotokion イエスが完全な人性と神性を持つこと、マリアが神の母であることなどが讃えられる)が配置され正教信仰の基本が確認される。

主な聖歌の種類

トロパリは4−5行からなる短い単節の詩で、その日の祭の内容や礼拝のテーマを要約する。最古のトロパリ「聖にして福たる」([希]Fwv" iJlarovn)は4世紀にはすでに存在していたといわれ、今も晩課の聖入時に歌われる。トロパリは単独で歌われることもあるが、詩編の句の間に挿入されて歌われることも多かった。トロパリは会衆唱だったために記譜されず、特に誰もが知っている「聖にして福たる」は16-7世紀まで、「神の独生の子」は13世紀まで音楽記譜付き写本が現れない。

 6世紀になるとコンダク(小讚詞Kontakion)という長い詩が発達した。コンダクは同じ詩形同じメロディのトロパリが20から30節も続く長大な詩であった。いわば「歌う説教」で、ソロの聖歌手が聖堂中央の高くなったアンボ(Ambo)という説教台上で祭の内容を絵画的にわかりやすく歌い上げた。コンダクの作者として最も有名なのが「聖歌者(メロドス)」と呼ばれるロマノス(Romanos Melodos)である。後にコンダクの大半は冒頭の二節を残して縮小されてしまうが、「生神女マリアのアカフィスト(Akathist for Theotokos)」は今も大斎の第5週土曜日の早課に完全な形で歌われる。コンダクはセム系文学の伝統とギリシア古典文学の芸術性の粋を集めたと言われる。各連の冒頭の文字がアルファベット順になっていたり、あるいは頭文字を並べると作者の名前が現れたりという遊び心もあった(アクロスティク)。

 7世紀末から8世紀には詩作の中心は修道院に移りカノン(Canon)が発達した。カノンは9つの歌頌(Ode)からなる複合詩である。各歌頌には旧約聖書の祈りの歌(Canticle, Canticum)をベースにした複数のトロパリが含まれる。かつては旧約歌頌の句の間に新しく作られたトロパリを織り交ぜて歌った。今は大斎期(Great Lent)以外旧約の歌は省かれる。トロパリは旧約の預言が新約においてどのように成就されたかという教会の解釈を表す。各歌頌のテーマは、第1歌頌は「モーゼの歌」(出エジプト記15:1-19)、第2歌頌「モーゼの歌」(申命記32:1-43)、第3歌頌「ハンナの歌」(サムエル記上2:1-10)、第4歌頌「ハバククの歌」(ハバクク書3:1〜19)、第5歌頌「イザヤの祈り」(イザヤ書26:9〜20)、第6歌頌「ヨナの祈り」(ヨナ書2:3〜10)、第7歌頌「三人の少年の祈り」(ダニエル書補遺3-33)、第8歌頌「三人の少年の祈り」(ダニエル書補遺34-67)第9歌頌「生神女マリアの祈り」(ルカ1:46〜55)「ザカリアの祈り」(ルカ1:68〜79)。第9歌頌だけが新約からとられ降誕によって旧約の預言が成就されることを歌う。たとえば第1歌頌では出エジプトの「すぎこし」がキリストによる「十字架の死から復活へのすぎこし(パスハ)」、燃え尽きぬ柴は処女マリアがキリストを産んだことと関連して歌われる。各歌頌の第一トロパリはイルモス(連結の意)と呼ばれ、イルモスとそれに続くトロパリは音節数やアクセント位置が揃っており同じメロディで歌うことができた。初期にはエルサレムのサワ修道院がカノンの中心地で、クレタ島の主教アンドレアス(Andreas of Crete)(660頃〜740頃)、ダマスカスのイオアンネス(Joannes of Damascus) (675―748)とエルサレムのコスマス(Cosmas of Jerusalem)などがカノンを書いた。後に聖歌の中心はコンスタンティノープル郊外のストディオス修道院に移り、テオドロス(Theodoros of Studios)(759-826)やイオシフ(Josif)などが知られる。

 ビザンツ聖歌は10世紀ごろほぼ完成したと言われ、この後は新しい詩作よりも歌い方の装飾に力点が移り、13世紀ごろイオアンネス・ククゼレス(Joannes Koukouzeles)などによってカロフォニー(kalophony)と呼ばれる装飾的な歌い方が確立した。ビザンツ最終段階の歌い方は基本的には1453年の帝国崩壊後も歌われ、今でもギリシア系教会で継承される。(松島純子)
 

ビザンツ以外の東方正教会聖歌


正教会では古くから現地語で礼拝が行われる。初代教会でもエジプトではコプト語で、シリアではシリア語で礼拝が行われていた。正教は9世紀に南スラブ地方に、10世紀ごろロシアに伝道され、祈祷文はスラブ語に翻訳されて歌われた。ビザンツ聖歌のメロディも伝えられたがギリシア語とスラブ語では音節数や抑揚が異なるために次第にロシア独自のズナメニーと呼ばれる単旋律聖歌が発展し、ズナミヤ(記号)またはクリューキ(鉤)と呼ばれる記号で記譜された。八調のシステムも受け継がれたがロシアの八調(オスモグラシエ)は旋法よりも旋律定型の性質が強い。ウクライナ、セルビア、ルーマニア、グルジアなども独自の聖歌の伝統を持つ。17世紀以降ロシアは次第に西洋音楽の影響を強く受けポリフォニー聖歌が主流となる。19世紀末から20世紀初頭には古い聖歌の研究が進み、チェスノコフ、カスタリスキイ、ラフマニノフなどがズナメニーなどの古チャントのメロディをモチーフにして優れたポリフォニー聖歌を作った。

日本へは明治初期にロシア人修道司祭ニコライ(カサートキン)によって正教が伝道され、ニコライと中井菟麻呂が共同で訳したテキストにヤコフ・チハイ、V.ポクロフスキイなどが音楽付けした聖歌が歌われている。



参考文献:
J.V. Gardner, Russian Church Singing, St. Vladimir Press
E. Wellesz, The History of Byzantine Music and Hymnography, Oxford
A. Schmemann, The Introduction to the Liturgical Theology, St. Vladimir Seminary Press

ニューグローブ音楽事典「初期キリスト教音楽」「ビザンツ音楽」
Dimitri Conomos, Byzantine Hymnography and Byzantine Chant, Hellenic College Press
Hugh Wybrew, The Orthodox Liturgy, St. Vladimir Seminary Press
家入敏光訳「ロマノス・メロードスの賛歌」創文社




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