正教会の代表的な三つの聖歌形式、いずれもさんび(イムノス)に含まれますが、トロパリ(トロパリオン)は四世紀ぐらいから、コンダク(コンタキオン)は六世紀頃、カノンは七から九世紀頃に作られ、最終的に九世紀から十世紀に、今の祈祷書に含まれる歌がほぼ出そろいます。聖師父とよばれる正教の先達は聖神の恵みを受けて、次々と新しい歌を書き加えました。
例をあげれば、コンダクは聖書の話をよりドラマティックに発展した長い歌です。歌は二十から三十節にも及び、しかも各節のシラブル(音節)の数やアクセントの位置が揃えられ、各節の頭文字を並べると作者の名前が表れる、といった凝った作りで、ソロの聖歌者が大聖堂の中央壇で朗々と歌いました。時代はちょうどユスティニアヌス帝の頃、ビザンティン帝国の全盛期です。ところが、7世紀に入りイコノクラスム(聖像破壊)の嵐が吹き荒れるようになると、聖歌の中心はコンスタンティノープルの大聖堂から修道院へと移り、華やかで芸術性の高いコンダクよりも神学的な要素の強いカノンが発展しました。
そうは言っても、全く自由な創作活動が認められていたのではありません。聖歌者たちは先輩から教えられた聖歌を従順に学び、歌いました。新しい聖歌を作る場合にも、既存の詩やメロディが手本でした。
西方のグレゴリオ聖歌と比べてみましょう。グレゴリオ聖歌は、ローマ教皇が各地でばらばらな礼拝が行われているのは好ましくないとして、公認の礼拝のやり方と聖歌の歌い方を制定してできたもので、今でも当時の形がそのまま保たれています。それに対して、正教会の聖歌は、前の時代から受け継がれたもの受け止め、自分たちの歌として歌い、次の世代へと手渡し、そのなかで、時代や地域、言語によって、知らぬ間に歌が変化し、古いものは新しいものに上書きされてゆくのを否定しませんでした。
また、外国へ伝道するとき、ラテン語の典礼を守ったローマカトリックとは対照的に、その国のことばへの翻訳が積極的に行われました。正教会ほど、聖歌の「ことば」、そこに含まれる伝道、教育の力を大切にしてきた教会はありません。聖歌のことば、つまり聖歌の歌詞は私たちが教会として祈る「ことば」であり、神から下されるメッセージでもあります。その「ことば」をもるにふさわしい器として、それを運ぶふさわしい乗り物として音楽があります。「ことば」と「音楽」はマッチしていなければなりません。どんなに美しい聖歌でも意味の分からない外国語では祈れません。ちんぷんかんぷんの外国語を音だけまねて歌っても、意味を知らなければ、歌の「気分」にうっとりするだけになってしまいます。
ある聖歌の形がいかに美しく完成したものであったとしても、何が何でもその形を死守する、その形に固執するならば、それは一種の偶像崇拝でしょう。ある時代ある教会ですばらしい祈りを実現した聖歌であっても、他の教会には全くふさわしくないこともありえます。聖歌(祈り)そのものの美しさが重要なのではなく、伝統という姿で神から与えられたものを素直にいただき、教会という集まりがひとつになって祈るとき、そこに実現する神との交わり、ともに祈る者との交わりが大切です。
正教会では他国語への翻訳が行われたと述べました。聖歌はもともとギリシア語で作られましたが、歌うことを前提に音節数やアクセントが整えられ、ことばの抑揚に従って音楽付けされていました。ところが、スラブ語に翻訳した場合、言語構造が異なりますから、意味を訳そうとすれば音の流れを保つことは不可能です。できるかぎりもとのメロディも保持しようとしましたが、言語の特性によって少しずつ変化し、民族の音楽性の影響も受けて、ズナメニーなどの独自の旋律がうまれました。
こうして、伝統を保持ながら時代や場所との適応がゆっくり行われてきた正教会の聖歌に大きな変化が訪れます。1453年のビザンティン帝国崩壊、それ以上に大きいのが16世紀から始まる西欧化の流れです。それ以前にも南西ロシアを中心に西方の影響は徐々にありましたが、ピョートル大帝は欧化政策を掲げ、西洋的な要素を国家主導で取り入れました。聖歌も西洋的な概念における「音楽」として扱われるようになり、それまではビザンティン以来ずっと単声(ユニゾン)だった聖歌に、多声合唱が導入されました。
1721年に総主教制が廃止され、教会の行政も政府の一機関である宗務院が統括するようになり、「どの聖歌が教会で歌うにふさわしいかどうか」を決める検閲の権限も、教会からペテルブルグの宮廷付属教会の音楽長の手に移り、ボルトニヤンスキー、リヴォフ、バフメテフなどの音楽家がその任につきました。ボルトニヤンスキーはイタリア風の自由作曲をとりいれ、その後を継いだリヴォフ、バフメテフはチャント(伝統的な聖歌のメロディ)の和声化を積極的に進め、1848年と1869年に「オビホード」(標準的な教会聖歌)を出版しました。また、新しい聖歌の作曲を制限し、全ロシアの教会で、もっぱらこのオビホードで歌うように勅令を出しました。明治時代に日本にもたらされた聖歌もこのオビホードが中心だったと思われます。また、教会以外で聖歌を歌う「聖歌コンサート」もこのころから始まりました。
しかし、各調(エコス・グラス)の旋律定型を祈祷文にあてはめて歌う伝統的なチャントも生き残りました。ラズモフスキーなどの手で古チャントの研究も行われ、20世紀初頭にはキエフ表記と呼ばれる四角音符で書かれたチャント集(スプートニク)も復刻出版されました。リムスキー=コルサコフ、ラフマニノフといった多くの作曲家がこのチャント集の伝統チャントからインスピレーションを得て、ロシアン・ポリフォニー(多声合唱聖歌)を開花させました。
最近、ロシアやアメリカで「チャントのメロディ(旋律定型)に従って歌う」伝統が聖歌の基本として見直されており、練習用テープやパンフレットが出版されています。日本ではあまり実践されていませんが、ロシア人の神父さんたちが、祈祷書を見ながら即座にメロディを付けて歌うのを聞いた経験をお持ちの方も多いと思います。日本で歌われている聖歌の多くも、基本的にはチャントのメロディがベースになっています。
ビザンティンからロシアを経て日本に至った聖歌2000年の歴史を駆け足で見ましたが、そこには意外なほど多様な聖歌の姿があります。後の章で、個々の点について詳しく述べますが、現代の私たちにも役立つヒントがたくさんあります。
冒頭で引用した聖パウロのことばは、正教会訳では「爾等の心に和して主を讃美せよ」となっています。信徒が集まって「心に和して」、教会という「集まり」として一つの心で祈る、聖歌にはそれを実現するという大きな役割と責任が与えられています。
具体的にどんな歌を歌うか、四声か、単声か、選ばれた聖歌隊が歌うのか、信徒全員で歌うのかなどの選択は個々の教会の状況、時代や社会の情勢によって異なるでしょう。教会の祈りを神に届け、神のメッセージを運ぶためにはどんな聖歌がふさわしいか、みんなの心を合わせて祈るためにはどうすればいいか、そのためには何を選べばよいか、真剣に祈り求めれば、神は一番適した答えをそれぞれの教会とそれぞれの機会に与えてくださるはずです。
Byzantine Hymnography and Byzantine Chant
/Dimitri Conomos/ Hellenic College Press