ウラディミル神学校 夏期セミナーの講義から
洗礼――キリスト教徒の入会儀式
―――4世紀の洗礼―――
Chistian Initiation: Yesterday and Today
ポール・マイエンドルフ教授 Dr. Paul Meyendorff
洗礼を今回のテーマに選んだ理由
4世紀古代ビザンティンにおいて洗礼の儀式は最も完全な形で存在した。現在では45分間に圧縮され、誰もいない教会の隅で家族だけ数人の立ちあいのもとで行われ、終わったあとのパーティばかりが大きい。当時の洗礼は数年をかけた儀式であった。現在の儀式も4世紀に行われていた要素はすべて含まれるが、圧縮されすぎたためにその儀式で何が行われているのか理解が難しくなってしまった。4世紀の形を見ることによって、洗礼の儀式に光を当てて、教会生活における「洗礼」の正しい地位を取り戻してゆく議論の道を示したいと思う。
概観
20世紀の正教会神学は一般的に「聖体機密的教会論」Eucharistic ecclesiologyを強調してきた。日曜日、私たちは聖体機密を祝うために教会にあつまり、教会は完全なものとして実在する。聖体機密は最も重要なポイントで、パリのニコラス・アファナシェフ、アレクサンダー・シュメーマン神父、府主教イオアン・ジジューラスなどの研究がよく知られている。シュメーマン神父には洗礼についての有名な著書「水と聖神Of water and Spirit」があるが、概して洗礼は聖体機密ほど注目されてこなかった。残念なことである。洗礼は「聖体機密」に先立つもので、聖体機密の集まりには洗礼が不可欠である。洗礼を受けたものが集まってハリストスの体となり、日曜日に集まるたびにハリストスの肢体(メンバー)であることを意識し、聖体礼儀を祝うたびに、洗礼を受けた者という身分を確認する。洗礼によってハリストスの体、すなわち教会のメンバーになり、イオアンの福音書のことばを借りれば、「不死の食べ物」すなわちご聖体は、毎週毎週ハリストスの体の中で、ハリストスの体によって会員である権利(メンバーシップ)を保持する方法である。洗礼について論ずることなく聖体機密論を語ることはできない。現代の正教会神学の重要な課題の一つは「洗礼」を再評価することである。単に学問的研究や歴史調査ではなく、私たちの教会生活、教区の問題として考える必要がある。
今日の講演では洗礼が初代教会の中心であった姿を要約する。
○新約聖書における洗礼の記録
福音書の記述は洗礼に始まり、洗礼に終わる。まず、ハリストスの洗礼について語り、最後に「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖神の名によって、彼らに洗礼を施し」(マタイ28:19)と語る。使徒行伝の第2章には教会が洗礼を行ったことが記される。洗礼の神学は語られなくとも、洗礼の記述は使徒行伝の中心をなしている。洗礼は聖神を受ける道であり、新たなる創造への道であった。他の箇所の引用はここでは省略する。
洗礼は堕落した古い時代からあがなわれた新しい時代への回帰、「過ぎ越し」passageのシンボルである。神への従順、服従のしるし、罪によって神を離れた人間が神と和解するしるしであった。(旧約の神の民と新約の新しいイスラエルのについてはポール・レイザー神父が講演の中で言及された。)洗礼は聖神が召した人々を承認することである。聖使徒パウエルの書札に明らかなように、聖神の動きは教会と信仰を先導する。聖神は個人のうちに、また人の集まりにおいて働き、人をハリストスに至らしめ、洗礼の水を求めさせ、聖神を受けるように導く。
新約聖書は洗礼のマニュアルではないので、奉事規程や必要な祈祷文、洗礼の実施方法は書かれていない。新約聖書はすでに洗礼を受けた人のために書かれており、洗礼の様子についての情報はほとんどないが、以下のような点から洗礼の形が推測される。
まず、復活したハリストスに関するケリグマ(使徒の宣教)的な教え、つまり福音の宣言が行われた。最初の福音伝道は使徒行伝の2章、ペトルの五旬祭の説教に書かれている。人々はそれに応えて、イイスス・ハリストスが主であることを受け入れ、洗礼を受けた。「主の復活の宣言」への応えが、「服従による信仰」、「神が私たちをどのように創られたか」を受け入れることである。洗礼はすぐに続けて行われた。使徒行伝には3年から5年の啓蒙期間は書かれていない。宣言はドラマティックに働き、(個々人の人生上ではすでに準備が行われていた場合もあったかもしれないが)、すぐに洗礼が行われ、ルカによれば聖神の賜物に伴われた按手がおこなわれた。ここでは洗礼と按手は洗礼機密の二面をなしている。洗礼はハリストスと聖神の賜物によって行われ、聖神の満ちた共同体における生活(参考−使徒2:42パンを割き、持ち物を分かち合い、愛し合う生活)へと続く。おおざっぱに言えば、実際に行われていることは今も同じである。
○ 続く2−3世紀に各地で洗礼の儀式が形作られるが、ここでは省略する。参考資料。
【4世紀の洗礼】
洗礼の儀式は4世紀に最も完全に発達し、それ以降は縮小傾向をとる。当時のエルサレムの洗礼式は現在の省略された形の正教会洗礼式と本質的に同じで、基本的な構造、内容などの要素はすべて含まれていた。4世紀は教会史において注目すべき時代である。
○ 啓蒙
「啓蒙」のプログラムが構造的に最も十分に発展した。コンスタンティン大帝がキリスト教を容認し、さらに国教となったために多数の改宗者が出現した。中には真剣な者もいたが、単に社会的な便宜上の者もいた。
(啓蒙に関する史料)
・ディダケーDidache:6章までが「二つの方法」と呼ばれる洗礼に備える人々のためのカリキュラムで、モラル教育が大半で、人生いかに生くるべきか、死すべきかが教えられた。人生訓。
・テルトリアヌスTertullian:(カルタゴ200年頃)啓蒙の中心はモラル教育であった。
・使徒伝承Apostolic Tradition(3世紀始めのローマ)3年間の準備期間があった。ある種の職業、たとえば軍人(ローマ皇帝を神として崇めるため)、劇場で働く人(異教の儀式の場で、風俗業が行われたため)は洗礼を受けられなかった。モラルの改善が行われた。
4世紀半ばになっても啓蒙者が多かった。東西教会ともに啓蒙教育の体系が十分にできあがった。主教、指名された司祭(例:金口イオアンの「洗礼講話」、当時アンティオキアの司祭だった。)などによる文献、洗礼にいたる教育の全課程を記した文献によって、当時啓蒙から洗礼がどのように行われていたか知ることができる
@ 啓蒙者としての入会。
特別の祝文。地方によって様々な二次的な儀式が行われた。ローマでは啓蒙者の額に十字を描くことが約束の地への歓迎の印だった。手を挙げて悪魔払いが行われるなど予備的な儀式が行われた。初代教会では異教は悪魔に支配されていると考えられたために、悪魔払いが必要だった。
(例)ワルナワの手紙 2世紀初め
「神を信じる以前は私たちの心の住み家は、全く手によって立てられた神殿のように朽ちるべき貧弱なものであった。というのは、その神殿は偶像礼拝でいっぱいであったし、またそれは(私たちが)神の意志に反するあらゆる事柄を行っていたが故に悪鬼の家となっていたからである。」
洗礼の儀式には現在に至るまで、「悪魔を追い出し、代わりに聖神を招き入れる」イメージがある。一方で悪魔を放逐し、そこへ聖神を入れるという収支関係がある。
悪魔払いには二つの要素があり、一つは「ことば」を用いて「悪魔に出て行け」と命令すること、もう一つは「息」を吹きかけることである。今日の洗礼の儀式でもおなじみの動作だが、息をかけるというのは侮辱の動作で、当時はローマ皇帝の像に息を吹きかけると死刑であった。聖大アタナシウスによる『聖大アントニーの生涯(40)』にも、「出て行きなさい」と息を吹きかけたことが書かれる。
これらの儀式や按手などの二次的な儀式が行われ、候補者は啓蒙者になった。
A 啓蒙者としての教育
啓蒙者とは指導を受ける者、「聴講者」auditor、教会の信仰を聴く許可を受けた者であった。モラルを教えることから始まり、4世紀には各地のキリスト教の中心地で全体的なカリキュラムができあがった。3世紀、ヒポリタスによれば、啓蒙期間は通常3年であった。言い換えれば、洗礼は深刻にとらえられており、突発的な出来事ではなかった。実際、4世紀には3年以上に洗礼を延期する習慣もあった。理由はいろいろあったが、大きな原因は痛悔のプロセスである。洗礼後の痛悔はこの頃発展途上にあり、痛悔は一生に一度しか受けられず、もし洗礼後に大きな罪を犯した場合は、10年20年という長期間悔い改めの期間を過ごさねばならないこともあり、死の床まで赦されないこともあった。結果、人々は若いうちは罪を犯しがちので、青年期がおわるまで洗礼を延ばすようになった。 金口イオアン、聖大ワシリーなど多くの人が大人になるまで洗礼を延ばし、コンスタンティン大帝はもう自由に動けなくなってから、死の床で洗礼を受けた。
ミラノのアンブロシイはよい例だ。彼がミラノの主教に選ばれたとき、まだ啓蒙者であった。彼が洗礼を受け、主教に叙聖されるまで、彼はミラノの市長で異教のローマ帝国の高官として幸せにくらしていた。
啓蒙者として登録されると、聖体礼儀の前半「ことばの礼儀」に参祷することが許され、福音や説教を聴くことができた。彼らは「信者の礼儀」の前に退出した。聖体礼儀の「啓蒙者の連祷」「啓蒙者出よ」はその名残である。
4世紀には洗礼への準備期間は、特に年の暦、復活祭を目標に作られた。大斎の祈祷が、その年に洗礼を受ける啓蒙者の最終的な準備として構成されているのはよく知られている。大斎の聖書の読みや聖歌は復活祭の洗礼に向けて構成されている。また復活祭と復活祭後の8日間の祈祷も、新しく洗礼を受けた者への指導である。洗礼を受けた者は毎日教会にやってきて、洗礼や聖体機密の神秘について聴講した。機密の神秘については、洗礼を受けた後で始めて教えられた。洗礼は復活祭を中心とする暦、大斎、復活祭、光明週間、全復活祭期に及んでいたことを忘れてはならない。3世紀、特に4世紀においては、復活祭と五旬祭までの期間が標準的な洗礼の季節であった。多くの人がしっかりしたプログラムを経て洗礼を受けるにはそれだけの期間が必要だった。この時期は、主の死と復活と自分自身の洗礼による死と復活という関連をもたせやすかった。
大斎の始まりに、その年に洗礼を希望する啓蒙者が登録される。たとえばミラノのアンブロシイは1月の神現祭からその年に洗礼を勧める説教をした。一般に洗礼を先延ばしにする傾向があったために、アンブロシイや金口イオアンは人々に洗礼を促した。
エルサレムでの洗礼を見よう。『エゲリアの日記』[太田強正訳サンパウロ]を引用する。エゲリアはスペインの修道女で、381年から384年にエルサレムを巡礼した。
さらにわたしは復活祭に洗礼を受ける人々が、どのように教育を受けるのかを書いておくべきでしょう。名前を登録する人は四旬斎の前日に登録し、司祭がすべての人の名前を書き留めます。すなわち、この地でその期間に四旬斎が執り行われるとわたしが言ったあの八週間の前にということです。司祭が翌日、すなわち四旬節のあの八週間が始まる日にすべての名前を書き留めると、大聖堂、つまり殉教者聖堂(主の墓の隣にあるバシリカ)の真ん中に主教のいすが用意されます。司祭たちはその両側のいすに座り、聖職者は皆立っています。このような中で請願者(competentes)が一人一人導き入れられます。男は代父に、女は代母に付き添われて入って来ます。こうして導き入れられた請願者の隣人たち一人一人に、主教が次のように尋ねます。「この人はりっぱな生き方をしていますか」。「両親を敬っていますか」。「酔っていたり、うそをついたりしていないでしょうね」。そして人間にとって重大な悪徳について一つ一つ尋ねます。しかし証人のいる前で質問を受けたこれらすべての隣人によって、非難すべきところがないと分かると、司教はみずからの手で、その請願者の名前を書き留めます。しかし何か非難されるべき点があると、主教はその人に外に出るように命じ、「改めなさい」と言います。そして改心した後、洗礼盤に来ることになります。このようにして男子(洗礼志願者)について、そして女子(洗礼志願者)について調べがあります。もし外国人で、証人がいない場合は、洗礼を受けるのはそう簡単ではありません。
この記述からわかるように、4世紀末になっても洗礼は道徳的人格的に正しい人と認められた「選ばれた者」にしか与えられなかった。洗礼は誓願によって行われたので、申し込み者の中から選ばれた者は、「請願者」(ラテン語でcompetentes、エゲリアが用いた)、「選ばれた者」(electi)、あるいは「光照に定められた者」(ギリシア語でfotizomeni、光照に備うる者)と呼ばれた。大斎の後半、先備聖体礼儀の啓蒙者の連祷のあと、フォティゾメニ「光照に備うる者」その年の復活祭に洗礼を受ける者のための連祷が加えられる。
こうして登録が終わると、大斎中40日間の集中的な準備が行われる。請願者の生活態度が洗礼にふさわしいかどうかが詳しくチェックされ、悪魔払いが何度も行われる。金口イオアンの第2の洗礼と洗礼前の講話から引用する。
さて、あなたがたは入り口に立っています。まもなく多くの賜物の恵みを楽しむでしょう。私の力の及ぶ範囲で今の儀式の意味を説明しましょう。毎日学びを受けて、もっとしっかり理解した上でここから帰ることになります。毎日の学びによって、なぜ悪魔払いのことばが言われるのか、そのわけを理解しなければなりません。この儀式が何の意味も目的もなく行われるのではありません。あなたは「天の王」を受け、あなたの中に住まわせるのです。だから、あなたに注意を与えた後、この仕事に指名されたものがあなたを連れて、畏れ多いことばによってあなたの心を浄め、悪の力を去らせ、まるで王様の来訪のために家を用意し、王の住居にふさわしくするのです。悪魔が獰猛で残酷であっても、この畏れ多い祈祷文、万物の主宰への祈願を聞くと、あなたの心から全速力で逃げ出します。こうしてこの儀式はたましいに大きな憐れみを表し、大きな悔い改めへと導くのです。(第2の洗礼講話12)
これらの畏れ多いことば、素晴らしい祈願はなんと大きな益をもたらすでしょうか。しかし、はだしであること、手を伸ばす姿勢は別のことを表します。その姿勢は、体の虜をしのんできた私たちに、自分を打ち倒してきた災いに落胆していることを見せているのです。悪魔の虜が悪の支配から脱出し善のくびきに来るとき、まず、外面的な程度で自分たちが以前どんな状況だったか思い出さねばなりません。
(第2の洗礼講話12、14)
体を使った、はだし、悔い改めのジェスチャーなどは悪魔払いと関連していた。エゲリアによれば、今のように洗礼の前に3回だけではなく毎日行われた。金口イオアンの大斎における指導は、前時代のディダケーに見られる道徳的な指導に加え、要理教育が行われた。指導は少なくとも週に2、3日行われた。
エゲリアの日記より数十年早い350年頃、エルサレムの主教キリルによる記述がある。啓蒙教育は主教自身(キリル自身)あるいは主教の指名した司祭(たとえば金口イオアン、当時アンティオキアの司祭であった)によって行われ、この講話は既に洗礼を受けたものにも開かれ、大人のための教育機関となっていたが、今年洗礼を受けない啓蒙者は参加できなかった。
エゲリアによればこの指導は日に3時間にも及び、受難週まで続いた。大斎8週間毎日3時間ずつ講話が行われた。キリルなどの主教は創世記から始め、聖書の文字通りの意味と、霊的な意味(旧約聖書は新約のハリストスを予象している)を解説し、教会として旧約聖書を読む方法を教えた。
それから「信経」と「天主経」が教えられた。信仰のシンボルは伝えられた (Tradizio symboli)。当時は敵に神秘を明かさないきまりであったから、洗礼候補者は暗記しなければならなかった。暗記して主教の後について繰り返し、シンボルを返した(redizio symboli)。主教から彼らに与えられ、暗誦して主教に返した。
アウグスティヌスの「洗礼について」の11章から引用する。
これから1週間、今日習ったことを復習しなければなりません。あなたの代父母が責任を持って教えてくれます。間違えたらどうしよう、などと神経質になることはありません。大丈夫です。私はあなたのお父さんです。学校の先生のようにムチは持っていません。(教育の方法は学校教育をモデルにしていた。)
エゲリアはエルサレムでどのように行われていたか記録している。
すでに7週間がすぎ、この地で大週間と呼ばれている復活祭前の一週間(聖週間)になると、朝、主教が大聖堂の致命者記念聖堂にやってきます。宝座の向こう側の後陣(アプス)の奥まったところに主教の椅子が据えられ、そこに男は代父、女は代母に連れられて進み出て、主教の前で信経を唱えます。信経を唱え終わると、主教は皆に話しかけます。「この7週間、あなた方は聖書のすべての律法と信仰、肉体の復活について教えられました。また、啓蒙者に許された範囲で、信経のすべての教理を学びました。しかし、あなた方はまだ啓蒙者なのでさらに深い機密についての教え、つまり洗礼そのものについては聞くことができません。洗礼で行われること一つ一つが何の理由もなく行われたなどと思われないために、神の名によって洗礼を受けたら、復活祭後8日間にわたって、祈祷後(発放)のあと復活聖堂で説明を聞きます。まだ啓蒙者なので、今は神の秘密の機密をお話することができません。」(エゲリアの日記)
洗礼候補者と保証人(両親や代父母)は40日間にわたってものいみし節制するようにいわれた。アウグスティヌスによれば、夫婦の性生活も禁じられた。大斎は洗礼と復活祭の祝いを迎えるための厳しい準備期間、長い霊的な修養期間で、精神と肉体、人間全体にかかわる準備であった。受難週、復活祭期の読みは洗礼前洗礼後の教育に関わり、大斎の形式ができあがった。
○悪魔払い エクソシスム
現代人にとって理解の難しい悪魔払いについて少々説明を加える。洗礼において、また洗礼前の啓蒙において「悪魔」のイメージは現実的なものだった。例えば、エルサレムのキリルは洗礼を悪魔に追われて紅海を渡ること、悪魔は水に溺れると語った。(前の講義でポール・レイザー神父が述べたように、)教会はこういうタイポロジー(類型論)を用いて旧約聖書を読んできた。洗礼は私たちひとりひとりの過ぎ越しであり、私たちのエジプトの奴隷状態からの解放であった。
古い史料、たとえば2世紀のディダケーや致命者ユースティンなどの記述には悪魔払いについての記述はあるが、こういう生々しい悪魔のイメージやドラマティックな書き方はされていない。テルトリアヌスでは「サタナを棄つ」ということばや水の祝福が悪魔払いの一種としてとらえられている。ヒポリタスは「サタナを棄つ」という宣言、水の祝福、毎日の悪魔払いは、聖大土曜日に主教による悪魔払いで終了すると述べている。(Apostolic tradition 20)
イオアン伝9章と同様のタイポロジーがあり、「古いもの」対「新しいもの」、「浄さ」対「不浄」、「聞くことができる者」対「聞くことができない者」、「聖神」対「異教の霊(alien spirit)」が対照的に述べられ、悪魔の所属から、聖神に導かれ神に従う生き方への「移り行き」として表される。悪魔払いとはハリストスにおける生き方とは異なる生き方と縁を切ることとである。悪魔は擬似人間的な存在として表され、特に4世紀のミスタゴギアにおいては、「神は旧約時代のユダヤ人の解放を今行っている」と語る。創世記から出エジプトまで旧約の教えは啓蒙者の心にしっかり焼き付けられた。
悪魔や悪鬼の由来について説明を加えておこう。旧約の一神教主義monotheismでは他の神の存在を妨げない。Yahwehは神々を越えた神である。申命記32章8『モイセイの歌頌』「至高きお方は諸民族を分けたとき、・・・神の子(劣った神)らの数に従い(七十人訳聖書、河出書房)とあり、各民族がそれぞれの神を持つというのが古代的な世界観であった。イスラエルは神の民であった。もし私(神)に従わなければ気をつけなさい、悪いことが起こるだろう、と警告されていた。申命記6章ではイスラエルの過ちは神Yahwehに従わなかったためと説明される。他の神に仕えることは他の民が救いをもたらすと信じることである。神でなくても、他の民族や支配者、諸侯を頼めば、救いでなくて破壊に至る。
★訳注:参考【類語】 demon はギリシャ神話でいう神々と人間の中間にあると考えられる悪魔; devil はキリスト教でいう神に対する悪魔》[研究社新英和中辞典]
サタナはしばしば神の宮廷のメンバーのひとりと見られていた。例えばヨブ記の1:6では、「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。」とある。サタナを特に悪として見ていない。こういう記述は旧約聖書の各所に見られ、劣った神の一人としてサタナを見ていた。しかし、バビロン捕囚後にユダヤ人の神観、サタナ観が大きく変化する。原因は無実な者の苦難、罪なき国の苦しみで、歴史を見れば、よいことをしたから神が報いて下さるとは限らない。(20世紀にはそういう例が山ほどある。)旧約聖書を見るとき神は無力だという印象が現れ始め、世界は破綻してしまったので、神の代理人が来て世界を神のために再生するだろうという希望が起こった。世界は汚れきって堕落しきってしまったので、神ご自身かあるいは誰かが派遣されるまで何も起こらないというのである。これがメシアニズムで、この世を癒し、あるべき姿に修復してくださる神の調停を待ち望む。
このコンテキストにおいて初めてサタナは半独立した姿、地における汚れた悪=devilという姿を持つようになった。捕囚後に書かれた歴代誌はイスラエルを異なる視点で書き直した。サムイルIIの24章では神がイスラエルの民の数を調査するように言わせる(24:1)が、同じ話が歴代誌ではイスラエルが調査したことに神が怒りを発し、「サタンが調査させしめた」と非難されている。「悪魔devilが私にそうさせた」という言い方の最初のケースである。
これらの劣った神々の力によって世界は混乱し、全く破滅的になってしまった。ラビたちは創世記6章(ノアの話)を引いて、「人間と神の子(他の劣った神々)が交わった」ことを理由に説明した。言い換えれば、その裏に、人が自分の目的のために神Yahweh以外の力を頼んだために世界に腐敗が入り込んだという考え方がある。また、ラビたちはこれを天使の陥落として説明し、人間もそこに含まれてしまったと考えた。
言い換えれば、世界の悪い状況は、個人の回心ではなく、神の直接の調停という宇宙的な出来事cosmic eventによってしか是正されないと考えられている。ルカ伝10:18には「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」とあり、救いは宇宙的な出来事によって最終的に悪の力と善の力の戦いへと導かれる。ハリストスはこの世にまといついた悪の力を砕くという使命を帯びて来臨した。神ご自身がこの世を再生する。すべての奇蹟は反乱の力を押し返すしるし、解放のしるし、神がご自身のために世界を再生している証拠である。新約聖書、エフェス書6章、コロサイ、黙示、ヘブル書などに、そういう理解の例が多い。神は世界を再生するために来られた、ハリストスの十字架上の死は宇宙的戦闘のクライマックスで、自然の奇蹟はハリストスが神によって力を与えられていることを示した。
こういう見方が洗礼の神学に影響を与えた。世界は汚れ、混乱している。私たちは変わる力がない。私たちは犠牲者である。こういう考え方から悪魔論demonologyの論理、「悪魔が私たちの生き方をコントロールしている」という考え方が生まれた。
では、今、悪魔demonをどう考えるか。悪魔の話が牧会的にわかりにくい現代という時代において、悪魔をどう説明したらよいだろうか。
一番いいのは、悪魔の力を「実際はそうでないのに救済をもたらすものと錯覚させるもの」と説明するとわかりやすいだろう。ポール・レイザー神父のお話にもあったが、人は神に従うよりも他の神やイデオロギーや主義に、一種の救済として仕えている。たとえばナショナリズムは「国が人を救ってくれる」と考える。マテリアリズム(物質主義)はアメリカではとても大きく、「財産が人を救う」と考えるが、永遠に財産を持ち続けることはできないだろう。実証主義、偉大なるアメリカの神話だが、「いつでも物事はよくなっていく」と考える。これはヨーロッパでは第二次大戦後に終わり告げ、アメリカでも20世紀ベトナム以後終息し始めた。このような−イズム(主義)やイデオロギーは神への従順や信仰の代わりとなっている。同様に、神経症、精神病も古代世界では悪魔に捕まっている状態と見られた。唯一の神以外の他の神に仕えても救いも赦しも癒しももたらされない。悪魔とは「神を見る可能性を減ずるもの、神のよきイメージを見えなくするもの」である。
○ 洗礼
洗礼の話に戻る。4世紀からは洗礼の様子やミスタゴギアの解説について詳しい記述がある。エルサレムのキリル、ミラノのアンブロシイ、アンティオキアの金口イオアン、小アジアのモプシュアスティアのフェオドル(テオドル)などがある。これらに共通形式が見られるのは面白い。多少の差違はあるが基本的には同じである。
まず外の世界から洗礼聖堂への移動で始まる。主聖堂の隣に洗礼を行う洗礼聖堂があった。儀式は、「悪魔を棄てる」ことから始まる。最後の悪魔放棄の宣言である。候補者は西を向く。西は闇と悪魔の領域を表し、東は日の昇るところでハリストスを表す。ごく初代から東はハリストスを表し、西はこの世と悪を象徴していたことがわかる。5世紀には悪魔放棄のあと様々な儀式があって、大斎の悪魔払いで言及したように、悪魔に向かって息を吐くこともあった。キリルによれば「私は悪魔の働きとその虚飾と礼拝を棄てる」金口イオアンによれば「悪魔の虚飾と礼拝と業を棄てる。」西を向いて悪魔と縁を切り、次いで東を向いてハリストスと契約を結ぶ。ハリストスに配合する。金口イオアンは「ああ、ハリストスよ、我爾の業に入る」キリルは信経に倣った言い方で「我信ず、父と子と聖神と悔い改めの洗礼を」キリルはさらに西から東に向きなおることをハリストスに結びつく前に儀式の源であるハリストスに向きなおると解説した。
キリルによれば候補者は洗礼の儀式を受けるために聖堂に入って、まず服を脱いだ。服を脱ぐことにはパラダイスに戻るという象徴的な意味がある。究極の悪が顕わにされて造りかえられパラダイスに入る。あなたの肉体の誕生において裸でこの世に入った。だから霊的な誕生においても裸で入る。キリルは次に「ハリストスが裸で十字架にかけられたこと」を付け加える。ロマ書によれば洗礼はハリストスにおける死と復活のイメージを表し、洗礼を通じてハリストスの十字架にあずかる。そこには多くの階層的シンボリズムがある。
洗礼に先だって油がつけられる。これは一般的に悪魔払いの完成と考えられる。キリルはさらに、ハリストス油つけられたもの、私たちも油つけられたもの=ハリストスになるという意味を与え、一義的なイメージに二義的な意味が付け加えられた。また、ハリストスよきオリーブの木のイメージについても語られた。これも油のシンボリズムのひとつである。モプシュアスティアのフェオドルは洗礼前の油つけについて記述している。「あなたは頭のてっぺんからつま先まで油つけられた。」これには二つの意味があった。女性に油を塗るために女輔祭がいて、男性には輔祭が油を塗った。
○水の成聖
水の成聖、洗礼の水の祝福に話を進めよう。モプシュアスティアのフェオドルの第4の説教から引用する。
あなたが油つけられた時、ふさわしいと認められた司祭職は「(某)父と子と聖神の名に依りて油つけらる」と言わねばなりません。それからこの祈祷のために指名された人があなたの体中に油を塗ります。そのあと水の中に降りるように示されます。この水は司祭が祝福して聖にされています。あなたはただの水ではなく第二の誕生の水で洗礼を受けます。聖神の降臨なくしてはできません。そのために司祭はあらかじめはっきりとことばを用いて、司祭祈祷の式に従って聖神の恩寵がこの水に降り、畏るべきいのちを与える子をはらみ、機密的な誕生の胎となるように願います。
司祭は浸礼の直前に、司祭祈祷の式を用いて聖神の恩寵が下るようにことばを唱え水を祝福する。今も同様の祝文「主や爾は至大なり、爾の行事は奇異なり・・・」が用いられている。聖体機密の祝文と構造がよく似ており、5世紀頃できたと考えられるが、同様のものは4世紀以前にあった。
注解者は聖体礼儀のエピクレシス――聖神を呼ぶ祈りとの類似を指摘する。水の祝福は洗礼の中心部分をなしており、聖体機密のアナフォラと同様、最重要部分であるから、洗礼の始まる前にすませてしまってはならない。洗礼の神学的意味はここにある。あらかじめ聖水にしたものを用いたのでは、洗礼の意味が抜け落ちてしまう。
○洗礼
いよいよ洗礼を行う。キリルによると3度の浸水はハリストスが3日間墓にあったことを表す。一般的には、「父と子と聖神」の名によって3度沈められる。キリルは特に至聖三者の名には言及していないが、当時至聖三者の名によって行われていたと思われる。
候補者は腰まで水に浸かって立つ。主教が頭に手をのせて前かがみにお辞儀するように水に押し込む。輔祭が一緒に水に入って、上にいる主教を手伝う場合もあった。祈祷文の形式は様々で、アンティオキアでは今と同じく「父と子と聖神の名によって」洗を授け、ローマ教会では信仰告白と結びつけ、浸水のたびに信経の一節を唱え、至聖三者への崇敬を表明した。
洗礼後、新しい白い着物を着せられた。新しく洗礼を受けたものが過ぎ越した復活の新しいいのちを象徴する。けがれないことがはっきりとあらわされる。
たとえば、キリルはイザヤ書の61:10を引用して、「主が救の衣を着せ、喜びの上衣をまとわせた」と言った。
金口イオアンは次のように言った。(第4説教17)
公務に就くものはローブをまとい、帝国の印をつけて、皆のものに信用できる人物であることを示します。帝国の印を身にまとったものは制服にふさわしくないことことはしません。たとえしそうになっても、人々がそれを止めてくれるでしょう。また、誰かが彼らにひどい仕打ちをしようとしても、その衣が守ってくれます。光照者はハリストスをまとったのです。衣だけではなく、たましいの中にハリストスと父が住まわれ、聖神が降ります。さらに誠実な行いと慎重な人生によって、王国の印をまとっていることを人々にはっきりと示すのです。
古代後期においては白は高貴な色だった。
○傳膏機密
洗礼の後、白い着物をきると、次は傳膏機密である。興味深いことだが、金口イオアンは傳膏を行わなかった。主のヨルダン川での洗礼において、主が洗礼の水の中に立っている時、聖神はが降ったと考えるシリアの伝統にならって、洗礼後の傳膏を行わなかった。4世紀までは東西共通にこのように行われていた。
しかしキリルによれば、没薬を聖神とともに額、耳、鼻、胸、手足など主要な器官につけた。主はヨルダンの水から上がった後に聖神が降ったと考えた。新約聖書の記述のとらえ方の違いによる。私たちに神性を染みこませ、光照者に聖神の賜物をを受ける感受性を与える。悪魔と闘う鎧を与え、原罪の辱から守る効果が与えられる。
傳膏後、金口イオアンの記述によれば、洗礼後、居合わせるものすべてが洗礼盤の周りに集まって接吻を交わす。これは復活祭の聖体礼儀に向かっていくとき、互いに挨拶を交わす安和の接吻に加えて行われた。
こうして洗礼が終わり、洗礼聖堂から聖堂に「ハリストスに依って洗を受けしもの」をアンティフォン(交唱)しながら行進してゆく。今では洗礼盤の周りを3回まわるが、もともとは洗礼聖堂から大聖堂に向かう歌だった。そして聖体礼儀が引き続き行われた。
エイダン・カヴァナーAidan Kavanah(ローマカトリックの学者で、洗礼傳膏について著書がある。)の洗礼物語「すぎこしの儀式」を紹介する。
洗礼物語 エイダン・カヴァナー
私は4世紀末の洗礼の儀式には愛想のないたくましさが好きだ。
主教は洗礼聖堂の啓蒙所に入ってきて、何の説明もいいわけもなく、だしぬけに一言「服を脱ぎなさい」と言った。ここで堂役が気を失ったとか、啓蒙者が「なぜ?」と聞いた話はない。洗礼のための学びや祈り、斎を通して、ハリストスにおいてて死からいのちへとすぎこすこの夜のことばが、広場や応接間でいわれることばでなく、浴場と墓のことばなのは理解されていた。
彼らは服を脱いだ。斎のために気が遠くなりそうで、復活祭の早朝の寒さと今明かされようとすることへの畏れに震えながら立っていた。何年もかけて形作られてきたことが完成しようとしていた。何年も洗礼の意志と生活が確認され、礼拝のうちに神のことばを聞き、説き明され、そして信者が聖体機密へと進む前に退出してきた。何年間も、信者の集まりの行われる扉は閉ざされ、墓のような洗礼聖堂の建物を外から眺めてきた。皇帝が異教徒だったときの先祖の苦難の恐ろしい話を教会の古老から聞いてきた。パンを割くとき信者たちが何をするか、また洗礼聖堂のなかで何がおこなわれるかについて、ぼんやりとしか教えてもらえなかった。
それが今夜終わりになるのだ。彼らはこの不気味な部屋の薄暗がりの冷たい床に裸で立っていた。主教は突然、西を向くように言った。太陽が闇の中に呑み込まれる方角だ。死と影の王、夜叫びをあげる悪鬼は告発される。主教はずきんのかげから、みなが悪魔を非難するのを見ていた。(彼は隣の聖堂で続いている徹夜祷を司祷するのに疲れていた。)輔祭が男性の裸体を女性から遮り、女輔祭が女性の裸体を同じように隠していた。
今までの生活と世を出るときがきた。へその緒は切られたが、まだ自分で呼吸していない。それから東に向きを変えた。太陽が昇り、アラバスターの窓から朝の光が細く差し込むのが見えた。. 彼らは声に出して、ご自身の死によって死を滅ぼした光といのちの王を受け入れることを宣言しなければならなかった。輔祭と女輔祭がごしごしオリーブ油をすり込んだ。主教は杖にもたれてちょっと居眠りしていた。彼は手術を待つ老外科医のようだった。
啓蒙者全員に油がつけられると、洗礼聖堂の扉がバタンと開かれた。明るい金色の光が薄暗い前院にあふれ出し、主教に続いて、啓蒙者、司祭、輔祭、女輔祭、代父母はすばらしい部屋に入っていった。大半のものにとって初めて見る美しさだった。背の高いあずまやようなパビリオンは、大理石の床からドームまで緑、金、紫、白のモザイクで埋め尽くされていた。窓からは復活祭の夜明けの光が差し込み始めていた。壁には曲がりくねった葡萄のツルが描かれ、最上部には真っ白なトーガをまとい冠をかぶった使徒たちが描かれていた。 (ラヴェンナの洗礼聖堂に行くと、この通りのものが見られますよ。) 使徒たちの中央には紫の布がかかった金のいすがあり、開かれた本が描かれていた。まるいドームの一番高くなったところに、ヨルダン川に腰までつかった裸のイイススに毛むくじゃらのイオアンが水をかけ、姿の見えない神の手がイイススの頭上の白い鳥の形の聖神を指さしている。
啓蒙者たちは、知らず知らずのうちに、真下にある床にこの高尚なイコンのイメージが映し出されていることに気づきはっとした。 床の中央に作られた水槽のまわりに立った。水槽の脇の柱の上には石造りのライオンがあり、その口から水が音をごうごう立てて吹き出している。主教は水槽のわきに立ち、両側に司祭がならぶ。輔祭は水に入り、他の堂役は裸であることを忘れて、押し合いへし合いしながら覗き込もうとしている啓蒙者の周りに立って秩序を保とうとしている。部屋は暖かく湿っており、熱いほどだった。浴場、墓、黄金のパラダイスだ。オアシス、エデンは修復された。死といのちが出会い、交わり互いに区別できなくなる世界の中心だ。壁のくぼみにはイオナが浮き彫りされ、別のところにはノア、モーゼ、担架で担がれる中風の人が描かれる。窓にしずくがたまり始めた。
主教が低い声で祈りを唱え始めた。聖神、いのちの水、死についての祈りだ。そして杖で数回水をつついた。啓蒙者はモーゼが岩をたたいて水を出した話を思い出し、感動した。敬虔な親に育てられた10才ぐらいの若い啓蒙者が輔祭につれられて水槽に入った。水は温かかった。(暖炉であたためられているようだった。)さっき体に塗られた油が水面に広がり虹色の輪をつくった。輔祭は子供のそばに立った。ライオンの滝のそばだ。主教は杖をのばし、黙示録から出てきたような声で、「エウフェミウス、天と地、万物を作られた神・父を信じるか」と訊ねた。輔祭につつかれて少年が「信じます」と小声で答えた。もう50年もこの仕事をつとめてきた輔祭、実のところ少年の祖父だが、少年を抱きかかえて後ろ向きに倒し、水の中につっこんだ。老輔祭は大きな茶色の目が水の中から見上げているのを見て、ひげもじゃの顔でほほえんだ。(少年にはわざとどんなことが起こるか告げられていなかった)。少年は水をはき出し、ごほごほ咳き込みながら立ち上がった。主教は少年が口がきけるようになるまで待って、また杖をのばして少年の肩をたたきながら言った。「エウフェミウス、神のひとり子で、処女マリアから生まれ、ポンティ・ピラトのとき受難を受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活し、天にのぼり、生きるものと死んだものを審判するためにまた来たるイイススハリストスを信じるか」今度ははっきりと「信じます」と答え、水に沈められる前に鼻をつまんだ。「エウフェミウス、主であり、生命を与えるもの、父から出て、父と子とともに拝まれ、賛美され、預言者によってあらかじめ告げられていた聖神を信じるか。聖なる神の民の交わりである教会を信じるか。そして来世の生命を信じるか。」「信じます」
3度目が終わると祖父は少年を腕に抱え水槽から出る階段に連れて行った。別の輔祭が暖かいタオルで体を乾かした。90歳にもなろうという老司祭、かれは若い頃信仰のために牢獄に入っていたので、「表信者」と呼ばれていた。老司祭はガラスの水差しにはいった香油を少年の頭からぽとぽとと髪を伝って上半身にしたたるまで注いだ。「神の僕、エウフェミウス、父と子と聖神の名によって油注がる。」大変高価な油の香りが部屋に広がった。新しいリネンのチュニックを着せられた。聖膏の香りがしみ出していた。灯をともしたテラコッタのオイルランプが手渡され、とびらの前で静かに待った。
洗礼の儀式は同じように続けられていた。女の番が来るとエウフェミウスのおじいさんでなく、女輔祭が同じ役割をはたしていた。聖職者たちが「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓にあるものに生命を賜へり」と歌い始めた。聖詠の句「神は興きその仇は散るべし」歌われ、復活の歌が繰り返された。洗礼を受けたものたちは、疲れ、どきどきし、油っぽかった。彼らは主教につれられて復活祭の朝の光の中に歩み出し、隣の聖堂に向かっていった。主教は杖で扉をたたいた。扉がさっと開き、終わりなき徹夜祷は中断された。洗礼を受けたものたちは全員が「ハリストス死より復活し」を歌う中を行進した。新しく生まれたものの中に生まれたハリストスに挨拶するための喝采に満たされた。彼らが入城すると聖膏の香りがあふれた。復活祭の香り、主の恩寵が香りとして宿った。洗礼者は聖堂の中央のアンボに近づくまでごちゃごちゃだった。主教は手前の低い階段を上り、オイルランプを持ち、白い衣を着た洗礼者と堂役と門番が押さえている信徒の群衆の方へ向き直った。
主教は新光照者に向かって手を広げると、全員が「ハリストス死より・・・」と歌った。主教は祝文を唱え、彼らの洗礼を確認し封印した。それから父性の権威としてのジェスチャー、光照者の頭にてをのせ、十字を描き、「神の僕、聖神によって封印せられる」といった。雷鳴のような「アミン」がとどろき渡り、元啓蒙者たちは安和の接吻をかわした。みな泣いていた。
この間に、パンとぶどう酒が宝座に運ばれ、静かになるのをまって長い祈りが唱えられた。光照者はご聖体に進んだ。エウフェミオスが先頭だ。祖父が彼のランプを持ち、エウフェミオスは尊い主の体(その本当のメンバーになった)と、主の尊血を(主において彼は死んだ)頂いた。それから特別のカップに入ったものを飲んだ。一つは洗礼の水、もうひとつは乳と蜜をまぜたものだった。彼とその仲間が砂漠を出てヨルダンの水を越えて行く約束の地に入っていくことを表すための味覚のイコンである。さきほどまで青ざめていた母親は、よろよろしながら、彼を家に連れて帰り、香りのよい寝台に寝かせた。
エウフェミオスは長い道のりを越えた。彼は死からいのちへと過ぎ越した。そこで彼は生きるのだ。